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弐
(下)
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この土地に立ち寄った神官が、狐をこらしめて改心させたというものだったが、不思議と狐は神官の言うことを聞き、以来悪さはしなかったという。しかし神官は流浪の身ゆえ、狐に社を託して旅に出た。話はそれで締めくくられていた。
ならば仮に、長い間彼を待つ獣がいたとしよう。それに目をつけた他の妖が、神官に成りすまし、帰りを待ちわびる獣の前に戻ってきたならばどうだろう。答えは火を見るよりも明らかだ。感極まった獣は、疑いもせず偽の神官を本物と思い込み、忠実にその言を守るに違いない。
妖術は心の隙間をついてかけるもの。待ちわびた人間に出会った喜びを、餓鬼は恐らく利用したのだろう。それにしても、ただの餓鬼がそんな力をつけているとは想定外だった。これも先日取り逃した鬼の仕業なのかもしれない。
そんなことを考えつつ、弓月は妖狐へ言葉を向けた。
「お前なあ、妖怪のくせして妖術かけられてどうすんだよ。こいつは餓鬼。てめぇをだまして、集めた魂を食おうとしてやがったってことだ」
「嘘だっ!」
妖孤は必死に声を張る。認めたくないとでも言うように、何度も何度も頭を振った。
「だって……だって、約束したんだ、また戻ってくるって……! 俺は二百年も、それ以上も待ったんだ!」
弓月はふと、両親のことを思い出した。
行ってくるとただ一言言い置いて、結局戻ってこなかった父と母。身重の体のくせに、これくらい何でもねぇと豪快に笑っていた母。いつも母を気遣い、柔らかく笑んでいた優しい父。生まれてこなかった弟。
待つということは、つらい。帰ってくると信じて待っていなければ、孤独に潰されそうになる。たとえ周囲に人間がいたとしても異質は異質。人間の輪に入れない存在は浮くしかない。
だから寂しかった。寂しかったから、帰りを待っていた。死んだ事実が受け入れられず、家族がいつか帰ってくるのだと思い込んでいた――人間は具体的な死の形に触れなければ、永遠にそれを理解することはできないのだ。今目の前にいる、哀れな獣のように。
(ったく……人間も妖も、面倒臭ぇ生き物だぜ)
懐かしいような、いたたまれないような複雑な心地のまま、弓月はポケットに手を突っ込んだ。
「バァカ。人間の寿命なんざ長くて百二十年だよ。そいつは結局帰ってこなかったんだ」
指先に触れる硬い感覚を握りこみ、
「見てみろ。こないだそれらしき人物の墓行って、ちょっくら失敬してきた」
手を伸ばしてそれを見せる。
「死ねばみんな一緒だがな、こういう神職についてる奴ってのは、大体死後も力が残ってるらしいぜ。肉は残らねぇから、持ってこれんのは骨だけだ。大分時間が経ってるもんだから、力自体は弱いみてぇだが。どうだ」
今度こそ、狐は餓鬼を見た。しつこく弓月の足元にまとわりつき、珠を奪おうとしている餓鬼へ焦点を結び、しっかりと。
「それは……じゃあ、まさか」
「やっと目ぇ覚ましたか、このアホ狐」
妖術が解けたことに怒ったか、それともいい加減業を煮やしたか。耳につく叫び声をあげ、餓鬼が弓月に飛び掛ってきた。
「ったく、こらえ性のねぇ野郎だ。空気を読まない奴は嫌われるぜ?」
刀の切っ先を石畳に滑らせる。紅の先端に火花が散り、あっと言う間に燃え上がる。
「――地獄で閻魔に扱かれてきやがれ」
鋭く息を吐きながら、速く大きく刀を振った。流れて燃え上がる白炎が、一瞬で餓鬼を灰へと変えた。
刀を消し、未だ呆然とする妖狐を解放する。彼は重力に逆らわず、かすかな音を立てて石畳へ座り込んだ。
弓月は珠を宙に放り投げ、一刀の元に断ち割った。解放された魂は、次々に自分の体を目指して消えていく。これで昏睡状態にあった人々は目を覚ますはずだ。死者が出なかっただけマシだと思おう。
「もう、帰ってこないんだな」
虚ろな声音で狐は言った。視線の先には社がある。中にはもう誰もいない、空っぽの社がある。
「もうすぐ取り壊されるぜ。手入れする人間がいないからな」
「おい、弓月。そんな言い方しなくても……」
「事実だろ」
見かねた比呂也のフォローを突っぱね、弓月は再度狐を眺めた。呆然と座り込んでいた銀の妖は、やがてふらりと立ち上がり、おぼつかない足取りで歩き出す。方角は北。この先は崖しかない。
「おい、どこ行くんだよ」
腕を引っ張り、足を止めさせる。狐はさびしげに微笑んで、そっとその目を伏せた。
「俺はもう、存在する意義をなくした。約束がなければ、俺がここにいる意味はない。俺はもう、ここには必要ない」
約束がなければ消える。なんとも単純で、なんとも馬鹿馬鹿しい。これが本当にこの山の主か。弓月はかすかに目をすがめ、つかんだ腕に力をこめた。
つかまれた狐は唖然として、弓月のほうを見返してくる。
「え」
「せっかく助けてやったのに、その礼もねぇのか、てめぇは」
渾身の力で胸を締めあげる。こちらの剣幕に気圧されてか、妖孤は涙目になって耳を伏せた。
「大体てめぇ、この山の稲荷神の癖に何勝手に消えるとかほざいてやがる」
「……あの」
「てめぇの主がどうだったのかは知らねぇがよ。命を粗末にしろたぁ言ってねぇだろ」
がくがくと存分に揺らしてから、弓月は手を離してやった。頭の中身が整理できていないらしい。再び石畳に腰をつけ、銀の狐はぽかんとしてこちらを見つめている。
「あの……」
「社が無くなったから何だ。この山があるじゃねぇか。社が必要ならまた建てりゃいい。俺の知人に頼んで、とりあえずは何とかしてもらう。てめぇが死ねば、それもできねぇぞ」
弓月は狐に背を向けた。こんな説教をかますなんて――こんなおせっかいを焼くなんて、自分らしくない。
「それよりてめぇがいなくなれば、この周囲にある結界が消滅する。妖が跋扈し放題だ。それは困る。俺としちゃ、てめぇがいねぇと仕事が増えるから面倒臭ぇんだよ」
甘いな、と内心で舌打ちする。これではまるで、見逃してやると宣言しているようなものではないか。
「妖としてのてめぇは、二百年前に死んだ。じゃあ今ここにいるてめぇは何だ? 今この場にへたり込んでるてめぇは、一体何なんだ? 今てめぇのすべきことは何だ、てめぇはそれを放棄するつもりか?」
古の契約に縛られている自分と、過去に交わした約束に縛られている妖狐。似た者同士だと思ったのだろうか。似た者だからこそ、助けようと思ったのか。
違う。自問を心の内側で突っ返す。自分は妖狩で相手は稲荷、土着神になればある程度利用できるようになる。それだけだ。
「勘違いするなよ。てめぇは神にまで登った妖だ。そういう奴は、元に戻せば使えるようになるからな。ま……せいぜい死ぬまでここにいて、俺の役に立つこったな」
ポケットに手を突っ込み、階段を降りかけてふと気づく。足を止めて振り返り、ポケットから小さなお守り袋を引っ張り出す。
「やるよ」
ぽんと狐へ投げ寄越し、拾うのを確認してから再び階段を下り始める。比呂也が慌てて後に続き、狐は一人残された。
やがて呼び止める声が追いかけてきた。
「あの! ……あの、ありがとう! 大切に……するから!」
涙に濡れるその叫びに、弓月は片手を振って応えるのだった。
連なる鳥居をくぐりぬけ、アスファルトの道を踏みしめる。比呂也が思い切り息を吐き、盛大な伸びとあくびをして空を見た。
「お、月綺麗だなー! さーて、今日も疲れたし帰ろうぜ!」
「お前何もしてねぇだろ」
「いいんだよ、ほら、俺癒し系だし」
「言ってろ」
街灯をいくつも通り過ぎ、いくつもの角を曲がって帰路に着く。人通りは皆無に等しいが、不思議と不気味さは感じられなかった。一人で勝手に盛り上がる比呂也を時折いさめつつ、いつものように並んで歩く。軽口を叩きあい、比呂也のつまらない冗談に笑い、それに応じること一時間。
「そういやさ、弓月。狐に見せたやつあるじゃねーか。あれ、もしかして本物……?」
家に着くまであとわずか、というところで、比呂也がおもむろに問いかけてきた。あー、と弓月は首をひねり、重くなった肩を回してから答える。
「違ぇよ。知り合いの神主に力移してもらって適当に小細工した木の欠片」
ポケットに残っていた欠片を取り出し、見せてみる。比呂也は最初こそ怖気づいていたが、本当にただの木片だと確信がもてた途端ぞんざいに扱い始めた。親指で上部へ弾き飛ばし、コインよろしくキャッチしてみせる。
「何でそんな面倒臭ぇことやったんだよ、お前らしくねーな。ホントにかっぱらってきたのかと思ったのに」
これはいささか心外だ。いくら何でもそこまでろくでもないことはしない。自分にだって、一応矜持とかプライドとか、そういった類のものはある。ましてや養ってもらっている身、まかり間違っても養父母の名を落とすような真似はしないよう、この十六年間心がけてきたつもりである。
「馬鹿野郎、墓泥棒なんて縁起でもねぇこと誰がやるか」
「だよな。悪い」
からかわれると思いきや、意外に素直に謝ってきた比呂也に驚き、弓月もまた押し黙る。ここは普段なら、男子便所に平気で入ってくるお前が世間体語るな! だのうるさく言うくせに。珍しいこともあるものだ。
「……あのさ、弓月」
黙りこんでから数分の後、比呂也が言った。
「何だよ」
「お前、やっぱすげえ優しいよな。うん、全然変わんなくて安心したぜ」
しみじみと、しかしやたら嬉しそうに語られた言葉が、胸に重くのしかかる。彼は何も知らない。もう一人の幼馴染のことも、妖の区分が人間にまで及んでいることも。何も知らない、ということは、本当に――幸せなのだと思った。
こういう風に穏便な終わり方ができることなど、本当に稀であることを彼は知らない。だからこそ、こうしてついてきたがる。昔から変わらないのはこいつのほうだ。どんなに危険だと言ってもついてくる。何だかんだで、自分はそれが嬉しかったのかもしれない。だからつい、本当に危ない仕事以外に連れて行くことを許してしまっていた。
「へへへ。やっぱ弓月はすげぇよ。次もよろしくな」
「うるせぇよ、ちったぁ役に立つ努力しやがれ、チキンめ」
「ひでぇ」
止めなければならない。これ以上仕事について回られれば、いずれこちらの行動に支障が出る。何の力もない者を守りながら戦うのは、考える以上に至難の業だ。妖の活動が活発になっている今、一般人を連れて動き回るのは危険すぎる。
分かっているのについ折れてしまうのは、ひとえに自分の甘さのせい。だが、その甘さのせいで理解者を失うのは避けたい。もうこれ以上、巻き込むわけにはいかないのだ。忌々しい運命のせいで失った、かつての友人のようなことにはなってほしくない。
弓月はひっそりと嘆息し、天を仰いだ。屋根の影から顔を出す月は、弓月の胸中を見透かすかのように、ただ静かに地上へ光をこぼしているだけであった。
涼しい風が深緑の海をざわつかせていく、初夏の頃である。
ならば仮に、長い間彼を待つ獣がいたとしよう。それに目をつけた他の妖が、神官に成りすまし、帰りを待ちわびる獣の前に戻ってきたならばどうだろう。答えは火を見るよりも明らかだ。感極まった獣は、疑いもせず偽の神官を本物と思い込み、忠実にその言を守るに違いない。
妖術は心の隙間をついてかけるもの。待ちわびた人間に出会った喜びを、餓鬼は恐らく利用したのだろう。それにしても、ただの餓鬼がそんな力をつけているとは想定外だった。これも先日取り逃した鬼の仕業なのかもしれない。
そんなことを考えつつ、弓月は妖狐へ言葉を向けた。
「お前なあ、妖怪のくせして妖術かけられてどうすんだよ。こいつは餓鬼。てめぇをだまして、集めた魂を食おうとしてやがったってことだ」
「嘘だっ!」
妖孤は必死に声を張る。認めたくないとでも言うように、何度も何度も頭を振った。
「だって……だって、約束したんだ、また戻ってくるって……! 俺は二百年も、それ以上も待ったんだ!」
弓月はふと、両親のことを思い出した。
行ってくるとただ一言言い置いて、結局戻ってこなかった父と母。身重の体のくせに、これくらい何でもねぇと豪快に笑っていた母。いつも母を気遣い、柔らかく笑んでいた優しい父。生まれてこなかった弟。
待つということは、つらい。帰ってくると信じて待っていなければ、孤独に潰されそうになる。たとえ周囲に人間がいたとしても異質は異質。人間の輪に入れない存在は浮くしかない。
だから寂しかった。寂しかったから、帰りを待っていた。死んだ事実が受け入れられず、家族がいつか帰ってくるのだと思い込んでいた――人間は具体的な死の形に触れなければ、永遠にそれを理解することはできないのだ。今目の前にいる、哀れな獣のように。
(ったく……人間も妖も、面倒臭ぇ生き物だぜ)
懐かしいような、いたたまれないような複雑な心地のまま、弓月はポケットに手を突っ込んだ。
「バァカ。人間の寿命なんざ長くて百二十年だよ。そいつは結局帰ってこなかったんだ」
指先に触れる硬い感覚を握りこみ、
「見てみろ。こないだそれらしき人物の墓行って、ちょっくら失敬してきた」
手を伸ばしてそれを見せる。
「死ねばみんな一緒だがな、こういう神職についてる奴ってのは、大体死後も力が残ってるらしいぜ。肉は残らねぇから、持ってこれんのは骨だけだ。大分時間が経ってるもんだから、力自体は弱いみてぇだが。どうだ」
今度こそ、狐は餓鬼を見た。しつこく弓月の足元にまとわりつき、珠を奪おうとしている餓鬼へ焦点を結び、しっかりと。
「それは……じゃあ、まさか」
「やっと目ぇ覚ましたか、このアホ狐」
妖術が解けたことに怒ったか、それともいい加減業を煮やしたか。耳につく叫び声をあげ、餓鬼が弓月に飛び掛ってきた。
「ったく、こらえ性のねぇ野郎だ。空気を読まない奴は嫌われるぜ?」
刀の切っ先を石畳に滑らせる。紅の先端に火花が散り、あっと言う間に燃え上がる。
「――地獄で閻魔に扱かれてきやがれ」
鋭く息を吐きながら、速く大きく刀を振った。流れて燃え上がる白炎が、一瞬で餓鬼を灰へと変えた。
刀を消し、未だ呆然とする妖狐を解放する。彼は重力に逆らわず、かすかな音を立てて石畳へ座り込んだ。
弓月は珠を宙に放り投げ、一刀の元に断ち割った。解放された魂は、次々に自分の体を目指して消えていく。これで昏睡状態にあった人々は目を覚ますはずだ。死者が出なかっただけマシだと思おう。
「もう、帰ってこないんだな」
虚ろな声音で狐は言った。視線の先には社がある。中にはもう誰もいない、空っぽの社がある。
「もうすぐ取り壊されるぜ。手入れする人間がいないからな」
「おい、弓月。そんな言い方しなくても……」
「事実だろ」
見かねた比呂也のフォローを突っぱね、弓月は再度狐を眺めた。呆然と座り込んでいた銀の妖は、やがてふらりと立ち上がり、おぼつかない足取りで歩き出す。方角は北。この先は崖しかない。
「おい、どこ行くんだよ」
腕を引っ張り、足を止めさせる。狐はさびしげに微笑んで、そっとその目を伏せた。
「俺はもう、存在する意義をなくした。約束がなければ、俺がここにいる意味はない。俺はもう、ここには必要ない」
約束がなければ消える。なんとも単純で、なんとも馬鹿馬鹿しい。これが本当にこの山の主か。弓月はかすかに目をすがめ、つかんだ腕に力をこめた。
つかまれた狐は唖然として、弓月のほうを見返してくる。
「え」
「せっかく助けてやったのに、その礼もねぇのか、てめぇは」
渾身の力で胸を締めあげる。こちらの剣幕に気圧されてか、妖孤は涙目になって耳を伏せた。
「大体てめぇ、この山の稲荷神の癖に何勝手に消えるとかほざいてやがる」
「……あの」
「てめぇの主がどうだったのかは知らねぇがよ。命を粗末にしろたぁ言ってねぇだろ」
がくがくと存分に揺らしてから、弓月は手を離してやった。頭の中身が整理できていないらしい。再び石畳に腰をつけ、銀の狐はぽかんとしてこちらを見つめている。
「あの……」
「社が無くなったから何だ。この山があるじゃねぇか。社が必要ならまた建てりゃいい。俺の知人に頼んで、とりあえずは何とかしてもらう。てめぇが死ねば、それもできねぇぞ」
弓月は狐に背を向けた。こんな説教をかますなんて――こんなおせっかいを焼くなんて、自分らしくない。
「それよりてめぇがいなくなれば、この周囲にある結界が消滅する。妖が跋扈し放題だ。それは困る。俺としちゃ、てめぇがいねぇと仕事が増えるから面倒臭ぇんだよ」
甘いな、と内心で舌打ちする。これではまるで、見逃してやると宣言しているようなものではないか。
「妖としてのてめぇは、二百年前に死んだ。じゃあ今ここにいるてめぇは何だ? 今この場にへたり込んでるてめぇは、一体何なんだ? 今てめぇのすべきことは何だ、てめぇはそれを放棄するつもりか?」
古の契約に縛られている自分と、過去に交わした約束に縛られている妖狐。似た者同士だと思ったのだろうか。似た者だからこそ、助けようと思ったのか。
違う。自問を心の内側で突っ返す。自分は妖狩で相手は稲荷、土着神になればある程度利用できるようになる。それだけだ。
「勘違いするなよ。てめぇは神にまで登った妖だ。そういう奴は、元に戻せば使えるようになるからな。ま……せいぜい死ぬまでここにいて、俺の役に立つこったな」
ポケットに手を突っ込み、階段を降りかけてふと気づく。足を止めて振り返り、ポケットから小さなお守り袋を引っ張り出す。
「やるよ」
ぽんと狐へ投げ寄越し、拾うのを確認してから再び階段を下り始める。比呂也が慌てて後に続き、狐は一人残された。
やがて呼び止める声が追いかけてきた。
「あの! ……あの、ありがとう! 大切に……するから!」
涙に濡れるその叫びに、弓月は片手を振って応えるのだった。
連なる鳥居をくぐりぬけ、アスファルトの道を踏みしめる。比呂也が思い切り息を吐き、盛大な伸びとあくびをして空を見た。
「お、月綺麗だなー! さーて、今日も疲れたし帰ろうぜ!」
「お前何もしてねぇだろ」
「いいんだよ、ほら、俺癒し系だし」
「言ってろ」
街灯をいくつも通り過ぎ、いくつもの角を曲がって帰路に着く。人通りは皆無に等しいが、不思議と不気味さは感じられなかった。一人で勝手に盛り上がる比呂也を時折いさめつつ、いつものように並んで歩く。軽口を叩きあい、比呂也のつまらない冗談に笑い、それに応じること一時間。
「そういやさ、弓月。狐に見せたやつあるじゃねーか。あれ、もしかして本物……?」
家に着くまであとわずか、というところで、比呂也がおもむろに問いかけてきた。あー、と弓月は首をひねり、重くなった肩を回してから答える。
「違ぇよ。知り合いの神主に力移してもらって適当に小細工した木の欠片」
ポケットに残っていた欠片を取り出し、見せてみる。比呂也は最初こそ怖気づいていたが、本当にただの木片だと確信がもてた途端ぞんざいに扱い始めた。親指で上部へ弾き飛ばし、コインよろしくキャッチしてみせる。
「何でそんな面倒臭ぇことやったんだよ、お前らしくねーな。ホントにかっぱらってきたのかと思ったのに」
これはいささか心外だ。いくら何でもそこまでろくでもないことはしない。自分にだって、一応矜持とかプライドとか、そういった類のものはある。ましてや養ってもらっている身、まかり間違っても養父母の名を落とすような真似はしないよう、この十六年間心がけてきたつもりである。
「馬鹿野郎、墓泥棒なんて縁起でもねぇこと誰がやるか」
「だよな。悪い」
からかわれると思いきや、意外に素直に謝ってきた比呂也に驚き、弓月もまた押し黙る。ここは普段なら、男子便所に平気で入ってくるお前が世間体語るな! だのうるさく言うくせに。珍しいこともあるものだ。
「……あのさ、弓月」
黙りこんでから数分の後、比呂也が言った。
「何だよ」
「お前、やっぱすげえ優しいよな。うん、全然変わんなくて安心したぜ」
しみじみと、しかしやたら嬉しそうに語られた言葉が、胸に重くのしかかる。彼は何も知らない。もう一人の幼馴染のことも、妖の区分が人間にまで及んでいることも。何も知らない、ということは、本当に――幸せなのだと思った。
こういう風に穏便な終わり方ができることなど、本当に稀であることを彼は知らない。だからこそ、こうしてついてきたがる。昔から変わらないのはこいつのほうだ。どんなに危険だと言ってもついてくる。何だかんだで、自分はそれが嬉しかったのかもしれない。だからつい、本当に危ない仕事以外に連れて行くことを許してしまっていた。
「へへへ。やっぱ弓月はすげぇよ。次もよろしくな」
「うるせぇよ、ちったぁ役に立つ努力しやがれ、チキンめ」
「ひでぇ」
止めなければならない。これ以上仕事について回られれば、いずれこちらの行動に支障が出る。何の力もない者を守りながら戦うのは、考える以上に至難の業だ。妖の活動が活発になっている今、一般人を連れて動き回るのは危険すぎる。
分かっているのについ折れてしまうのは、ひとえに自分の甘さのせい。だが、その甘さのせいで理解者を失うのは避けたい。もうこれ以上、巻き込むわけにはいかないのだ。忌々しい運命のせいで失った、かつての友人のようなことにはなってほしくない。
弓月はひっそりと嘆息し、天を仰いだ。屋根の影から顔を出す月は、弓月の胸中を見透かすかのように、ただ静かに地上へ光をこぼしているだけであった。
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