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【問う背中】
しおりを挟むこともなげに物憂げに少女は円環の周りを回っている。円の外側の床一面にヒエログリフのような聖獣や悪魔や天使の絵。
その一つ一つに針。
「まるで昆虫採集だ」
犬島の心に戦慄が走る。
「呼び出した物たちを髪の毛で作った針で…規格外の能力だ」
「思ってたより高めのお嬢さんだ。燃えてくるねえ」
伊波が制服の上着を脱ぐと、右手で軽く振って春海に投げた。
「悪いが持っててくれ。シワにすんなよ」
「伊波君」
「こっから先はお前等じゃ無理だ」
笑った口元に鋭い犬歯。
「今の俺のこの姿でもちとヤバいぜ」
「本性を現したな。Νευροι」
「その呼び名を聞くのは何世紀ぶりになるか…正教会の枢機卿にして十字軍六度目の東邦遠征部隊を束ねた男バルバシウス」
「懐かしい名だ。その名前で私を呼ぶのは今はお前だけだ。しかし」
藤島は伊波を見据えて言った。
「遠征に私が参加したのは 七度目だ。狼の子よ」
「元々俺は人間様だつ-の」
「皆の者聞いて欲しい」
藤島は春海と犬島に向き直ると、うやうやしく頭を下げた。
「今までみんなには黙っていたが、私の前世は神聖ロ-マ正教会の枢機卿にして聖騎士バルバシウスだ」
「普通そんな事人に言わないよ」
「キリスト教は確か…輪廻転生は認めてないはずだが」
「そんときのあだ名はプルケル」
伊波がにやついた顔で言った。
「黙れ!」
「確か古代ロ-マ語で意味はハンサム」
「犬島君は物知りだなあ」
「プルケルw」
「ハンサムw」
「わ笑うな皆の衆。笑うなあ」
「ぶわはははは」
「あ犬島君がツボった」
「私の懺悔を聞いてくれ…私の現在の本当の名前はヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ」
「セリエA?」」
「日本人の高校生藤島真吾は世を忍ぶ仮の姿だ!」
藤島の体は小刻みに震えている。
「本当はイタリア人でしょ」
「な…なぜそれを!?」
「しかも年齢は30オ-バ-」
「みんな知ってたのか」
「だって見た目が」
「日本場慣れしてるなんてもんじゃない」
「お前よりチンパンジーの方、がどちらと言えば日本人だ」
「てっきり日本人の高校生になりきれたと思っていた…無念」
「ホ-ムルームの時先生が皆に言ったんだ『なんだかわからないが、藤島は必死で日本人になりきって学校に溶け込もうとしている。どんな事情があるにせよ、皆で温かく見守ってやろう』って」
藤島以外の全学生に通達が回り藤島は日本人として扱われる事となった。
「なんという慈悲深さ」
「泣いてる…」
「これが無声慟哭というやつか」
「ていうか藤島お前アホだ」
「生徒会書記の浅川さんが私に冷たいのも外国人故の人種差別か」
「違うと思うぜ」
「藤島君て35歳位だよね」
「32だ」
「原因は体臭がきつい事だって言ってぜ」
「なんだと伊波。お前浅川さんといつ」
「ただのピロ-ト-クでだ」
「そうか犬島ピロ-ト-クとは何だ?」
「まあまあまあ」
「春海、何を赤くなっている」
「まあ…その…お前の事を無神経にそんな風に言う女はだめだな」
「そうか」
「俺がこらしめておいた」
「こらしめるって…」
「お前もカミングアウトしたなら、俺もつき合うか。藤島言って見せろ」
「しかし」
「いいから言えよ」
「かつて中世ロ-マで正教会の神父を120と5人喰い殺した人狼がいた。その時、正教会は壊滅状態に陥った」
「その人狼を見事仕留め、司教から枢機卿にまでなった男がいたな」
伊波は着ていたシャツをボタンごと首から引き裂いた。長く伸びた指先の爪は人ならざる者の証。
「騎士道を重んじる男が何故協会の門を叩いた」
「理由があって神の門を叩くのでは無く神によって召喚されるのだ」
「聖騎士とまで呼ばれた男が俺の体につけた傷だ」
破れたシャツを捨て、背中を向けた伊波の背には刀傷があった。ざっくりと斜めに右肩から左の腰の辺りまで。
「生まれた時から背中にあった痣だ。これだけは消えぬらしい。聖バルバシウスは騎士でありながら」
「かつての私は背後からお前を切った」
「バルバシウス。汝に問う。お前達の罪は聖書のページ何処を捲れば書いてある?」
「私達の罪は…おそらく不寛容」
「そうか。で…てめえは今回は何をするつもりだ」
「今年は聖年に当たる年。バチカンにあるサンピエトロ大聖堂にて、聖なる扉が開かれ、世界中のキリスト教信者がそこに集うだろう」
「キリスト生誕二千年を祝う祝典か」
「教皇様は今年で八十歳。近年は体調が思わしくなく、これが最後の務めになるだろうと側近にもらしているらしい」
「式典にあの娘の力を利用するつもりか…は!いかにも俗物どもが思いつきそうな話だ。そんだけ神父が雁首そろえるなら天使の一柱でも、てめえらの力で呼び出してみやがれってんだ」
「これをバチカンより預かった」
藤島が懐から取り出したのは教皇の手紙と奇跡の認定証だった。
「そんな紙きれが何になる。教皇の跡目は決まってのか?」
「いや…まだ決まっておらぬ」
「きな臭いな」
「バルバシウス」
「藤島でいい…寧ろ、そう呼んでくれ」
藤島は手にしていた手紙と認定証を破り捨てた。
「ふん…ちっとは進歩したか」
背中を向けた伊波の髪が銀色に変わる。襟足の髪が伸びて鬣となり隆起した肩の筋肉。フォルムが変わって行く。
かつてアジアとヨ-ロッバの境目にある黒海沿岸に存在したと言われるΝευροι族。勇猛果敢で知られたその一族は狼の神を祀る部族であった。
「その一族は年に一度狼に姿を変えるのだと」
「んな訳あるか、つ-の。祭りの日に狼の衣装を着るの!コスプレよ。コ・ス・プレ!だがしかし」
「キリスト教信者は迷える子羊で狼は悪魔の手先」
「ロ-マからイスラエルを経由して遠征して来たお前等に、俺達は格好の標的だった。お前等キリスト信徒が行く先々でして来た事は殺戮と略奪と強姦だ。俺の村でもな」
「認める」
「いいね~」
「歴史が証明済みだ」
「慈悲深きバルバシウスは信仰と良心の狭間で揺れていた…壊滅させた村の唯一の生き残りの族長の子を殺せず。帝政ロ-マの都へと連れ帰った」
連れ帰った子は、サンピエトロの地下に幽閉された。世にも珍しい狼の子として。何がしかの利用価値があるだろうと…子供の延命を望んだバルバシウスの教会への進言が認めらたからだ。
「幽閉され一年が過ぎても、俺は狼になどならなかった。当たり前だ、人間だからな」
一年後子供は外に連れ出され、祭祀の時の狼の衣装のまま森に捨てられた。
他の異教徒たちと同様に。
中世キリスト教社会では、異教徒は狼の衣装を着せらた上、言葉を話す事も禁じられ野や森に放たれた。
辿り着いた森は水も食料になる草木もなく、狼の姿をした人間が倒れた仲間の屍肉を漁っていた。
「牢獄から出され森に連れて行かれる、あの時の少年の姿を、一度たりとも忘れた事はなかった」
「さもあろう慈悲深きバルバシウス」
狼に変容した伊波は振り向かない。
「しかしお前は来なかった」
「立ち入りを禁止された異教徒の棲む森だからだ」
「さもあろう」
飢えと衰弱で倒れた少年の前に現れたのは、奇妙な黒い革靴を履いた男だった。
「顔を上げて私の顔を見てはならぬ」
黒靴の主は言った。
「魔法使いは知られる事を何より嫌う」
少年は霞む目で男の革靴を見ていた。
「神秘の探求と秘匿こそ魔法使いの本質と知れ。今宵は世にも珍しい狼の神の声に導かれていざ来てみれば」
次代に遠くなる意識の中で少年は男の声を聞いた。
「なぜ傍らにおるのに我を下ろさぬ。狼は嘆いておるぞ。よもやその統を知らぬとは…そなたの狼の神に代わり問う」
漆黒の闇。それに似て男の声は黒いビロードのように滑らかだった。
「狼とともに歩むか」
声すら儘ならず少年は唯一度頷いた。
「良き哉」
男の手が少年の手に触れる。微かにウイキョウに似た香りがした。
「この借りはいつか還してもらおう。狼と踊るがいい。死の舞踏を」
男の立ち去る足音は聞こえなかった。最初から奇妙なかたちの黒靴は宙に浮いていた。
「ロムレスと名乗っていたな」
やがて国中の教会という教会が教われ神父が惨殺される事件が起きた。
「女子供も市民も殺さない。神父だけだ」
「わかっていたよ」
「お前等とは違う」
「人殺しに代わりは無い」
「神の御加護はどうした」
「教会を一つ一殲しながら分かりやすいぐらい真っ直ぐに、私と教皇のいる正教会を目指した」
単身で武器一つ持たず、ロムレスと名乗る人狼は市内に乗り込んで来た。ロムレスとは、かつて狼に育てられたという逸話を持つキリスト教の聖人の名前だった。
兵士と聖職者を殺し、サンピエトロ広場と聖堂を血の海に染めた。聖書の祈りも聖水も効果は無く剣の刃先を彼の体に触れさせる兵士もいなかった。
「当たり前だ。最初から宗派が違う。それに俺は魔道に帰依したわけでもない」
誰も止める事は叶わず。ロムレスは行く先々で屍の山を築いた。ロムレスが教皇が匿われた聖堂の部屋がある階に達した時、目の前に立ち塞がったのはバルバシウスだった。
「幾度も目の前で仲間の骸を見せても現れる男。その度前の命だけは取らずにおいた。勿論慈悲では無い」
それでも剣を構え立ち向かって来る。
「前しか向かぬ男だ」
「あまり賢くないという意味だがな」
人外の神の力を宿したロムレスの敵にすらならない。すぐに床に叩き伏せられ背中を踏まれ骨を砕かれた。
「今からお前に生地獄を見せてやる」
そこに隠れ匿われ震えている老い耄れ爺の命など別に欲しくもなかったが。
立ち去ろうとするロムレスの背後でバルバシウスが剣を構えた。
「聖騎士バルバシウスともあろうお方が、狼一匹正面から斬れぬとは。やはり貴様らは野盗の類いよ。いいだろう…やって見せろ。剣が俺の体を切り裂くよりも早く、お前は抉り出されたお前の心臓を見るだろう」
バルバシウスは剣を降り下ろした。背中を袈裟懸けに切り裂かれたロムレスは呆気無く床に倒れた。
「そんな馬鹿な」
ロムレスは絶命した。
「心正しき信仰ある者の前で悪行を省みる事の無い狼は、けして振り向く事能わず」
人狼の姿になった者は、その姿のままでは振り向く事が出来ない。教皇が昨夜信託を受けたと、バルバシウスに伝えた言葉だった。バルバシウス自身信じてはいなかった。
三ヶ月前。とある居酒屋のトイレの便座に伊波は腰掛けていた。
「やっぱ合コン3連はきついわ。しかも2オ-ル」
暖房が効いていない居酒屋のトイレは、ひんやりとしていて、酔いを冷ますのには調度良かった。ふと足元を見ると、目の前に黒靴が立っていた。
「貸しを返してもらいに来た」
「てめえ。あの時俺を嵌めたな。教皇に要らぬ耳打ちなんかしやがってよ」
「振り向けぬ呪をかけたのは確かだが…どのみち振り向く気などなかった」
「まあな。もう殺すのも生きるのも飽きてた。しかし体を操られて死ぬのと、そうでないのとじゃダメージが違う」
「結果が同じなら借りはそのままだ」
「まあいい。言ってみろ」
「娘を一人連れて来い。どんなかたちでも構わん」
「今来てる子たちはダメ。みんな俺のもの。合コンなら企画してやっても…」」
「随分軽口をきくようになったな.あの時の行き倒れの小僧が」
「軽口だけじゃねえんだぜ…証明してやろうか」
目の前に写真と住所の走り書きのメモを差し出された。
「お前の命など焼けた鉄瓶に垂らした水滴も同じ。私の主にしてみれば昔も今もな。操り人形だ」
「なんだお前雇われか」
「雇われではない召喚されたのだ」
「どっかのくそ神父みたいな口ぶりだな」
伊波は写真の少女に目を落とした。
「うわ。かわゆ」
顔を上げると黒靴の姿はそこになかった。
伊波は藤島が先ほどしたように紙を破る仕種をした。
「何をしている」
「お前に習って破ったのよ。クソ下らねえ約束をよ」
伊波は真っ直ぐに正面を指差した。
「見てみろ藤島」
伊波が指差す方向には円環の少女が今は静止した状態でこちらを見ていた。
「野郎共が姫をそっちのけで、辛気くさい昔話ばかりしてたら、女子はオカンムリにもなるってもんさ」
伊波の言葉通り少女は頬を膨らませ、床に刺さった針を抜こうとしている。
少女が抜こうとしている針の下は翼を生やした2本角の悪魔の封印だった。
「まずいぞ」
「藤島。お前が見なきゃならないのは俺の背中でも過去でもねえ。俺は前を向いて先に進むぜ…せっかくまた人に生まれたんだ」
「伊波」
「先に行かせてもらう」
「伊波、針は倒すなよ」
「へ!こんなもん一飛びだぜ」
「伊波。俺はお前みたいに女の子を取っ替え引っ替えしてるやつには負けん」
伊波は藤島に向かって振り返ると言った。
「狼は一度相手を見つけたら生涯対飼いなんだよ」
「伊波。お前には負けん」
「超展開過ぎて、チュ―トリアル欲しいけど…僕だって!」
「春海!」
「まあ、なんの伏線もなしにいきなりゾンビ化するようなものだからな」
犬島が言った。
「男が狼になるのに説明書がいるか!!!」
雷鳴のようなヘリの轟音。機体には金と銀の重なり合うニつの鍵に教皇の帽子が描かれた紋章。白いヘリからロ-プを伝い神父たちが降下して来る。
窓ガラスを蹴り割って室内に侵入して来た。
「バチカン!」
犬島が身構える。部屋のドアが開いて衛兵と共に神父がなだれ込んで来た。
「外で様子を伺ってたな」
神父たちは手に花束や教皇の奇跡の認定証を持っている。
「しばらく見ねえうちにアグレッシブになったもんだ」
「今は独立国家だ。バチカンなめんなよ」
「あの棒持った取り巻きの変なアレグリアみたいな連中はなんだ?」
「スイス衛兵だ。政治的に複雑なのだ」
なだれ込んで来る神父は数を増し。四人には目もくれず少女の元に殺到した。
「私有地…なんですけど!」
犬島は叫んだ。
「床の針を踏むな!」
しかしその声は押し寄せる黒い人波と飛び交うイタリア語やスイス語にかき消されたわ。
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