002.花火

砂糖菓子

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002.花火

「ねえ、知ってる? 日本って、毎日どこかしらで打ち上げ花火が上がってるんだって」
 そう教えてくれたのは高校時代の彼女だった。何かの本で読んだらしい。けれどその本のタイトルはついぞ聞かずじまいだった。
 彼女の手元にはいつも本があった。小説や実用書はあまり好んでいないようで、図鑑や絵本、写真集なんかを抱えていることがほとんどだった。彼女が図書館で借りてきた「世界で一番美しい元素図鑑」を一緒に覗き込みながら元素記号を覚えたことも、今ではいい思い出だ。
 「ねえ、知ってる?」は彼女の口癖だった。どこか得意げな顔で本から得たさまざまな知識を披露する、その彼女の笑顔がぼくは好きだった。中にはぼくがすでに知っている話もあったし、以前聞いたものと同じ話を再び聞かされることもあったけれど、どんな話もうなずきながら聞いた。話の内容ではなく、彼女がインプットしたことを一生懸命咀嚼し、わかりやすくぼくに話してくれているという、その事実を愛していた。時には彼女の知識がうろ覚えすぎておかしかったり、話に矛盾が生まれたりもした。そのことを話題に2人で笑い合えるから、彼女の話すことに間違いがあってもむしろ大歓迎だった。曖昧な記憶を確かめるためにパソコンで調べ物をしたり、図書館に通ったりすることもあった。
 彼女と付き合い始めた秋が終わり、冬が来て、春が始まろうとしていた。少しずつ暖かさを感じるようになってきたある日、「引っ越すことになった」と彼女がメールしてきた。遠距離恋愛どんとこい、と思っていたものの、引越し先はなんとアメリカだった。
 当時はまだガラケー全盛期、スマホのスの字もなかった。高校生だったぼくらはガラケーで連絡を取り合っていて、それは引っ越し後も続いた。ただし主なやり取りはメールになった。空中を飛び交う電波にのせて、1日に何通もメールのやり取りをした。国際電話なんていくら電話代がかかるのか考えるのも恐ろしくて、かけられるはずがなかった。
 最初のうち、彼女からは何通か国際郵便が届き、ぼくもそれに返事を出した。海を越えて届いた手紙には、よく写真が同封されていた。彼女のメールや手紙には「会いたい」と書かれていることが多かったが、ぼくはその言葉を見るたびに、次に会えるのは成人してからかもしれないなあなどとぼんやり考えていた。しばらく経つと彼女というよりも、メル友や文通相手に近いような感覚になっていった。
 本格的な春を迎えてからは、ぼくも彼女も新しい生活に慣れることに必死になった。毎日顔を見ることも声を聞くこともできない彼女の存在は、ぼくの中から少しずつ薄れていった。時たま手紙やメールが来ればその存在は彩りを取り戻すものの、普段はセピア色になって記憶の奥底に沈んでいた。
 夏を乗り越え、また秋がやって来るころには、ぼくと彼女はほとんど連絡を取らなくなっていた。最初のころは毎日交わしていたメールのやり取りはだんだんと週2回になり、1回になり、月に1回になった。分厚い封筒で送られてきていた写真入りの手紙はやがてポストカードになり、それすら届かなくなった。けれどそれも日常に紛れて、特別寂しいとは感じなかった。
 その年が明け、義務感に突き動かされるようにして新年の挨拶をした後はメールが途切れた。一度間が空いてしまうとこちらから連絡するのが恥ずかしく億劫でもあった。その後彼女からはメールも手紙も、ポストカードも届くことがなかった。ぼくからも何か行動を起こすことはなく、ぼくらの淡い恋はそこで終わったのだと思う。
 おそらく彼女はアメリカで進学なり就職なりを果たし、すでに英語はペラペラだろう。もしかしたら映画から飛び出してきたようなイケメンの彼氏ができているのかもしれない。しかしぼくには、それを知るすべがない。知りたいと思うことすら、なかった。

 高校生だったぼくは大学生になり、社会人になった。毎日仕事に奔走し、理不尽なことも飲み込んでこらえていく日々。ある日風呂上がりに鏡を見ると、疲れ切った顔の自分がこちらを覗き込んでいた。
 どこか行きたいな。つぶやくと、どうしてもそれを実現しなくてはならないような気分になった。洗面所に立ったまま、スマホで旅行ポータルサイトを見る。冬だから北海道だ、と安直な理由で行き先を決め、休暇を取った。
 指定された時間に空港に行き、添乗員の指示に従って飛行機に乗り込む。その先はバスで観光地をめぐるという典型的なツアーだった。夜間は自由行動になり、ホテルの周りを自由に散策できる。阿寒湖では祭りが開催されていて、冬の夜空に花火が打ち上がると案内があった。季節外れの花火を見る機会などそうそうないだろうから、耳が切れそうな寒さの中、ぼくは凍りついた阿寒湖へと向かった。
 分厚く氷の張った湖の上に立つと、冷気が足を伝って登ってくるようだ。マフラーを巻き帽子をかぶりダウンジャケットを羽織ってはいたものの、下半身の防寒が不十分だったことを痛感する。
 冬の澄んだ空気を切り裂く打ち上げ花火。それを見上げながら思い出すのは、どういうわけか彼女のことだった。「ねえ、知ってる?」と花火に関する知識を話してくれた彼女の声。どうやら未だに耳の奥にこびりついていたみたいだ。
 彼女とは結局、花火を一緒に見に行くことはなかった。夏を一緒に過ごすこともなかった。浴衣や水着を着た彼女の姿は、ぼくの想像の中にあるだけだ。
 夜空に花火が打ち上がる。この真っ黒な空は、彼女のいるであろうアメリカにもつながっている。彼女はあの地で頑張っているのだろうか。日本に帰ってきたのだろうか。どちらにしてもぼくと彼女の道はもう交わらない。それでもいつしか、同じ空を見上げるくらいの偶然はあるだろう。
 彼女が今、幸せであればいいのだけれど。次々と打ち上がる花火を見ながら、途方もない祈りを抱いた。


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