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第二部 wildflower
第六十一話
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自分が何をしたのかよくわかっているから、夜は明けて欲しくなかった。
陽が高くなっているのに、耳丸は夢の中に寝転がっていようとした。しかし、いつまでもこうして寝ているわけにはいかない。思い切って目を開けると、自分の前に背を向けて寝ていた礼の姿はなかった。こんなに陽が高くなっているのに、礼までもがいつまでも寝ているわけはない。起き上がって身支度をしに外に行ったか、農作業の手伝いに行っているのかもしれなかった。
耳丸は思い切って体を起こした。何も変わらぬ小屋の中だ。干し藁と薪の積まれた中に、寝やすいように藁を敷きつめた中にいる。しかし、耳丸の体に刻みつけた礼の感触はその匂いとともに残っている。してしまったことの結果を恐怖に思っているのに、自然と満たされた気持ちにもなる。
耳丸は立ち上がると、小屋の入り口に向かった。少し開いているのは、確かにここから礼が出て行ったということだ。
耳丸は小川の方へ行けば、身支度をしに行った礼に会うかもしれない、と思い躊躇した。
礼に会うのはだめだ。どんな顔をして会えるというのだろうか。自分には愛の表現であっても、礼には暴力でしかない。
小川とは反対の林の方へと耳丸は足を向けた。どこに行くと言うわけではないが、このまま小屋の中にいるわけにもいかない。
小屋の陰に身を隠し、板壁に体を預けてじっとしていた。しばらくすると、静かな足音がした。耳丸は身を硬くして、礼の気配を感じた。
礼は小屋の中に入ると、耳丸がいないこと気づいた。
耳丸が耳を澄ましていると、小屋の中では藁を踏む音や、板壁に触れる音がした。耳丸を探している様子だ。
耳丸は背を預けている壁から離れた。どこに行くというわけではないが、ここから離れなければ、礼に見つかってしまうと思った。
戸を揺らす音がすると同時に、礼が慌てて飛び出してきた。小屋の中から外へと向かうのに、入り口の戸に勢い余ってぶつかってしまったのだ。それから、入り口の前でどちらに行こうか、行ったり来たりして、林の方を向いた。
その時、林の中に入って行こうとする耳丸の後ろ姿がちらっと見えた。
「耳丸!」
礼は鋭く耳丸を呼んだ。耳丸はその声に驚いたが、足を止めることはできなかった。
「行かないで!」
続けて、礼は叫んだ。
「一緒に帰ろう。束蕗原へ。耳丸、一緒に束蕗原に帰っておくれ」
礼は涙声になって叫んだ。耳丸はその声に立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。
礼は耳丸の姿が見えるところまで走って、立ち止まった耳丸をまっすぐに見ていた。
「あなたと別れて、一人帰るなんてことはできない。こんな辛い旅をさせたのはわたしのせいだ。あなたは都に戻って、元の生活に戻らなければならない。わたしがこの旅に巻き込む前の、平穏な生活に。だから、一緒に帰ろう。お願いだ」
礼の懇願に、耳丸は苦しくなって俯いた。
礼は一人では立っていられず、小屋の壁の端にすがって耳丸を見ている。
「あなたを置いて私だけが帰られるわけないわ。戻ってきて」
礼は、必死に涙声を押さえて、冷静になろうとした。見開いた右目は耳丸をじっと見つめて離さず、哀願した。
耳丸は引き寄せられるように礼の方へ一歩、歩き出した。
一歩一歩進むごとに、息苦しさが増してくるが、耳丸も一人離れて生きていくことの決心は出来ていなかった。礼の手の届くところまで近づくと、礼はゆっくりと耳丸に背を向けて、小屋の入口へと向かった。入口の前まで来ると、礼は耳丸を振り向いた。
「朝餉を食べよう」
耳丸は観念して入口に歩いた。
「ああ!」
小屋の中に入った礼は悲しい声をあげた。耳丸は驚いて、素早く入口の前に立ち、礼を見た。
なんのことはない、母屋からもらってきた朝餉の粥の入った椀の一つがひっくり返っていた。礼は耳丸がいないことに驚き、飛び出す前に置いた椀をひっくり返させてしまったのだ。
「ごめんなさい」
礼は悲しい声を出して、俯いた。
母屋から粥を追加でもらってくるのは、居候の身としては気がひける。二人ともそれはわかっているから、無言になってしまった。
「いいさ。俺はいい」
耳丸が言った。礼は顔を上げると。
「半分にしよう。二人で分ければいいのよ。そうしよう」
と言って、落とした椀を手に取ると、外に出て甕から水をすくって洗うとすぐに戻ってきた。残った椀から半分を移して耳丸の前に置いた。二人は俯いて、お互いの前にある椀に手を伸ばした。そして礼が畑仕事の合間に山に入って取って来た栗の焼いたものを食べた。
耳丸は分け合って食べる栗を噛み締めながら、礼の強さや優しさを思って、苦しくなるのだった。
この女を思う気持ちが大きくなるのがわかる。決して想うことはないと思っていた女なのに。
昨夜の狼藉を思えば、もう肩が痛いからといって養生のためにここに留まっている理由はなかった。
その夜、耳丸は礼に、自分の肩の傷は治ったと言った。
「無理はいけない。少しずつ、体を慣らさないと」
「いや、早く都に、束蕗原に帰ろう。俺の体はもう大丈夫だ」
「耳丸!」
「ダメだ。もう、迷惑はかけられない。命が助かっただけでも俺にはありがたいことだ」
頑として礼の言うことを受け入れない耳丸に、礼は最後には受け入れた。
「……わかった。伊良鷲には私が話しをする。すぐには旅立てない。まだ、冬支度前に人の手がいる時だし、貞にも教えたいことがある。二人で、もう少し恩を受けたこの村で手伝いをしよう」
耳丸は礼のその言葉に渋々頷いた。
この旅を早く終わらせたい。昨夜の礼へ衝動を抑え続けられるか自信がないのだ。
翌日、礼は小屋の中で耳丸と一緒に伊良鷲を迎えた。礼は、伊良鷲にこれまでの自分たちへの温かい援助に感謝し、そろそろここを立つ時がきたようだと告げた。
伊良鷲は、季節も冬を迎えることだし、越してから旅立つことを勧めた。これは、妹の新がすっかり元気になって、礼の医術を信頼し、村ではそれが重宝されていることから、まだ手離したくないと考えたからだった。
礼は、これまでの援助に報いるためにも冬を越すための米の貯蓄作業は手伝うと言った。しかし、それが終わればここを立つことを告げた。伊良鷲が再度厳しい冬を越して、もっと暖かくなるのを待ってと、説得したが、何を言われようとも、礼は首を縦に振らず、この地を立つつもりだと言った。
それは、耳丸が礼に申し出たことではあるが、礼の本心でもあった。できることなら、今すぐにでも飛んで束蕗原に戻って、我が子に会い、この手に抱きしめて詫びたい。
渋々であるが伊良鷲は承諾した。あと、ひと月で米の貯蓄作業や、燃料の保管を終える。礼と耳丸は村の者と共に作業し、その合間に礼は、貞や貞より年長の少女たちに、薬草の種類とその効能を教えた。
日々は過ぎていき、伊良鷲と打ち合わせしていた旅たちの日を迎える。三日前に貞たちにも知らされた。ことさらに貞は寂しがった。礼は母を治してくれた医者で、年の離れた姉のように慕っていたからだ。
旅立ちの日。
貞や新たち伊良鷲の家の人々が見送ってくれた。
雪は降ってはいないが、冷え込みは日に日に増す毎日である。礼も耳丸も持っている衣装を全て着込み、今は礼が軽くなった薬箱を背負うのみだった。
馬が二頭用意された。一頭は礼が六郎にやった馬だ。それに伊良鷲と六郎、耳丸と礼で二人ずつがわかれて乗った。それで一気に泡地関を抜けて、泡地関の向こうの村まで馬で連れて行ってくれるという。
礼が発つと聞いた女たちがどこからともなく集まってきて、礼との別れを惜しんだ。
伊良鷲は勢いよく馬の腹を蹴り、耳丸もそれに倣って、先を行く伊良鷲と六郎の乗った馬を追いかけた。礼は振り返って、皆に手を振った。皆が手を振っているのが見えなくなるまで振り続けた。
礼は前を向くと、耳丸の胴に両手を回し、少しの間別れの感傷に浸った。
陽が高くなっているのに、耳丸は夢の中に寝転がっていようとした。しかし、いつまでもこうして寝ているわけにはいかない。思い切って目を開けると、自分の前に背を向けて寝ていた礼の姿はなかった。こんなに陽が高くなっているのに、礼までもがいつまでも寝ているわけはない。起き上がって身支度をしに外に行ったか、農作業の手伝いに行っているのかもしれなかった。
耳丸は思い切って体を起こした。何も変わらぬ小屋の中だ。干し藁と薪の積まれた中に、寝やすいように藁を敷きつめた中にいる。しかし、耳丸の体に刻みつけた礼の感触はその匂いとともに残っている。してしまったことの結果を恐怖に思っているのに、自然と満たされた気持ちにもなる。
耳丸は立ち上がると、小屋の入り口に向かった。少し開いているのは、確かにここから礼が出て行ったということだ。
耳丸は小川の方へ行けば、身支度をしに行った礼に会うかもしれない、と思い躊躇した。
礼に会うのはだめだ。どんな顔をして会えるというのだろうか。自分には愛の表現であっても、礼には暴力でしかない。
小川とは反対の林の方へと耳丸は足を向けた。どこに行くと言うわけではないが、このまま小屋の中にいるわけにもいかない。
小屋の陰に身を隠し、板壁に体を預けてじっとしていた。しばらくすると、静かな足音がした。耳丸は身を硬くして、礼の気配を感じた。
礼は小屋の中に入ると、耳丸がいないこと気づいた。
耳丸が耳を澄ましていると、小屋の中では藁を踏む音や、板壁に触れる音がした。耳丸を探している様子だ。
耳丸は背を預けている壁から離れた。どこに行くというわけではないが、ここから離れなければ、礼に見つかってしまうと思った。
戸を揺らす音がすると同時に、礼が慌てて飛び出してきた。小屋の中から外へと向かうのに、入り口の戸に勢い余ってぶつかってしまったのだ。それから、入り口の前でどちらに行こうか、行ったり来たりして、林の方を向いた。
その時、林の中に入って行こうとする耳丸の後ろ姿がちらっと見えた。
「耳丸!」
礼は鋭く耳丸を呼んだ。耳丸はその声に驚いたが、足を止めることはできなかった。
「行かないで!」
続けて、礼は叫んだ。
「一緒に帰ろう。束蕗原へ。耳丸、一緒に束蕗原に帰っておくれ」
礼は涙声になって叫んだ。耳丸はその声に立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。
礼は耳丸の姿が見えるところまで走って、立ち止まった耳丸をまっすぐに見ていた。
「あなたと別れて、一人帰るなんてことはできない。こんな辛い旅をさせたのはわたしのせいだ。あなたは都に戻って、元の生活に戻らなければならない。わたしがこの旅に巻き込む前の、平穏な生活に。だから、一緒に帰ろう。お願いだ」
礼の懇願に、耳丸は苦しくなって俯いた。
礼は一人では立っていられず、小屋の壁の端にすがって耳丸を見ている。
「あなたを置いて私だけが帰られるわけないわ。戻ってきて」
礼は、必死に涙声を押さえて、冷静になろうとした。見開いた右目は耳丸をじっと見つめて離さず、哀願した。
耳丸は引き寄せられるように礼の方へ一歩、歩き出した。
一歩一歩進むごとに、息苦しさが増してくるが、耳丸も一人離れて生きていくことの決心は出来ていなかった。礼の手の届くところまで近づくと、礼はゆっくりと耳丸に背を向けて、小屋の入口へと向かった。入口の前まで来ると、礼は耳丸を振り向いた。
「朝餉を食べよう」
耳丸は観念して入口に歩いた。
「ああ!」
小屋の中に入った礼は悲しい声をあげた。耳丸は驚いて、素早く入口の前に立ち、礼を見た。
なんのことはない、母屋からもらってきた朝餉の粥の入った椀の一つがひっくり返っていた。礼は耳丸がいないことに驚き、飛び出す前に置いた椀をひっくり返させてしまったのだ。
「ごめんなさい」
礼は悲しい声を出して、俯いた。
母屋から粥を追加でもらってくるのは、居候の身としては気がひける。二人ともそれはわかっているから、無言になってしまった。
「いいさ。俺はいい」
耳丸が言った。礼は顔を上げると。
「半分にしよう。二人で分ければいいのよ。そうしよう」
と言って、落とした椀を手に取ると、外に出て甕から水をすくって洗うとすぐに戻ってきた。残った椀から半分を移して耳丸の前に置いた。二人は俯いて、お互いの前にある椀に手を伸ばした。そして礼が畑仕事の合間に山に入って取って来た栗の焼いたものを食べた。
耳丸は分け合って食べる栗を噛み締めながら、礼の強さや優しさを思って、苦しくなるのだった。
この女を思う気持ちが大きくなるのがわかる。決して想うことはないと思っていた女なのに。
昨夜の狼藉を思えば、もう肩が痛いからといって養生のためにここに留まっている理由はなかった。
その夜、耳丸は礼に、自分の肩の傷は治ったと言った。
「無理はいけない。少しずつ、体を慣らさないと」
「いや、早く都に、束蕗原に帰ろう。俺の体はもう大丈夫だ」
「耳丸!」
「ダメだ。もう、迷惑はかけられない。命が助かっただけでも俺にはありがたいことだ」
頑として礼の言うことを受け入れない耳丸に、礼は最後には受け入れた。
「……わかった。伊良鷲には私が話しをする。すぐには旅立てない。まだ、冬支度前に人の手がいる時だし、貞にも教えたいことがある。二人で、もう少し恩を受けたこの村で手伝いをしよう」
耳丸は礼のその言葉に渋々頷いた。
この旅を早く終わらせたい。昨夜の礼へ衝動を抑え続けられるか自信がないのだ。
翌日、礼は小屋の中で耳丸と一緒に伊良鷲を迎えた。礼は、伊良鷲にこれまでの自分たちへの温かい援助に感謝し、そろそろここを立つ時がきたようだと告げた。
伊良鷲は、季節も冬を迎えることだし、越してから旅立つことを勧めた。これは、妹の新がすっかり元気になって、礼の医術を信頼し、村ではそれが重宝されていることから、まだ手離したくないと考えたからだった。
礼は、これまでの援助に報いるためにも冬を越すための米の貯蓄作業は手伝うと言った。しかし、それが終わればここを立つことを告げた。伊良鷲が再度厳しい冬を越して、もっと暖かくなるのを待ってと、説得したが、何を言われようとも、礼は首を縦に振らず、この地を立つつもりだと言った。
それは、耳丸が礼に申し出たことではあるが、礼の本心でもあった。できることなら、今すぐにでも飛んで束蕗原に戻って、我が子に会い、この手に抱きしめて詫びたい。
渋々であるが伊良鷲は承諾した。あと、ひと月で米の貯蓄作業や、燃料の保管を終える。礼と耳丸は村の者と共に作業し、その合間に礼は、貞や貞より年長の少女たちに、薬草の種類とその効能を教えた。
日々は過ぎていき、伊良鷲と打ち合わせしていた旅たちの日を迎える。三日前に貞たちにも知らされた。ことさらに貞は寂しがった。礼は母を治してくれた医者で、年の離れた姉のように慕っていたからだ。
旅立ちの日。
貞や新たち伊良鷲の家の人々が見送ってくれた。
雪は降ってはいないが、冷え込みは日に日に増す毎日である。礼も耳丸も持っている衣装を全て着込み、今は礼が軽くなった薬箱を背負うのみだった。
馬が二頭用意された。一頭は礼が六郎にやった馬だ。それに伊良鷲と六郎、耳丸と礼で二人ずつがわかれて乗った。それで一気に泡地関を抜けて、泡地関の向こうの村まで馬で連れて行ってくれるという。
礼が発つと聞いた女たちがどこからともなく集まってきて、礼との別れを惜しんだ。
伊良鷲は勢いよく馬の腹を蹴り、耳丸もそれに倣って、先を行く伊良鷲と六郎の乗った馬を追いかけた。礼は振り返って、皆に手を振った。皆が手を振っているのが見えなくなるまで振り続けた。
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