神隠しな戦国おたく

TAKAHARA HIROKI

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【第1部】第1章 退屈な天才

平和とは、なんと退屈なものだろうか。
 鷹野博史(たかの ひろし)は、大学の研究棟を出て、真新しいアスファルトの上を歩きながら、心の底から湧き上がる欠伸を噛み殺した。
 六月の湿った風が、整えられた黒髪を撫でる。
「鷹野くん、また論文が学会誌に載るそうだね。二十四歳で博士号を取得し、そのままポスドクとして快進撃。君の『戦国期における火器運用の兵站学的考察』は、これまでの定説を覆す傑作だと専らの評判だよ」
 すれ違いざまに教授から掛けられた称賛の言葉も、博史の心には響かない。
 ただ愛想笑いを浮かべて、「恐縮です」と頭を下げるだけだ。
 博史にとって、それはただの「答え合わせ」に過ぎなかった。
 膨大な史料を読み込み、矛盾を突き、論理的に再構築する。それは確かに知的なパズルではあるが、そこに命のやり取りはない。血の通った決断も、明日をも知れぬ焦燥感もない。
 現代日本はあまりにも完成されすぎていた。蛇口を捻れば水が出るように、努力すれば相応の結果が出る。
 安全で、清潔で、そして致命的に刺激が足りない。
(俺は、生まれる時代を間違えたのかもしれないな)
 そんな中二病じみた独り言を脳内で呟き、博史はキャンパスの裏手へと足を向けた。
 喧騒から逃れたい時は、決まって大学の裏山にある古びた神社へ行く。手入れが行き届いているとは言い難い、苔むした石段が続く小さな社だ。
 木漏れ日が揺れる境内には、誰もいない。
 博史は鳥居をくぐり、拝殿の前で立ち止まった。
 賽銭箱に、ポケットに入っていた五百円玉を放り込む。ゴトン、と重い音が静寂に響いた。
 二礼、二拍手。
 手を合わせながら、博史は願うことすら見つからず、ふと自嘲気味に思った。
『神様。もしいるなら、俺に「予測不可能」な人生をくれないか』
 その時だった。
 風が、止んだ。
 今まで耳に届いていた遠くの車の走行音、木々のざわめき、鳥のさえずりが、まるでスイッチを切ったように消失した。
 絶対的な無音。
 目を開けた博史の視界を、乳白色の霧が覆い尽くしていた。
「……霧?」
 山の天気は変わりやすいと言うが、これは異様だ。
 足元から這い上がってくるような冷気が、デニムパンツ越しの肌を刺す。
 博史は本能的な警戒心を抱き、ポケットからスマートフォンを取り出した。
『圏外』
 時刻表示は『14:02』のまま止まっている。いや、秒数すら進んでいない。
 めまいがした。地面が泥のように柔らかくなり、身体が沈み込んでいくような浮遊感と圧迫感が同時に襲う。
「う、わ……ッ!?」
 抵抗する間もなかった。
 博史の意識は、真っ白な闇の中へと吸い込まれていった。
 ***
 目が覚めた時、最初に感じたのは「匂い」だった。
 
 土と草の濃密な香り。排気ガスの混じらない、肺が痛くなるほど澄んだ酸素。そして、どこかで何かが腐ったような、微かな死の気配。
 博史は重い瞼を開け、身体を起こした。
 そこは、先ほどまでいた神社の境内ではなかった。
 鬱蒼とした杉林の中だ。だが、植林された整然とした杉林ではない。樹齢数百年はあろうかという巨木が乱立し、下草が生い茂る原生林だ。
「……どこだ、ここ」
 立ち上がり、周囲を見渡す。
 アスファルトも、電柱も、ガードレールもない。
 博史は足元の土を蹴った。ふかふかとした腐葉土の感触。
 ズボンのポケットを探る。スマホはある。財布もある。だが、それだけだ。
 遭難したのか? いや、神社の裏山にこんな深い森はない。
 その時、林の奥から風に乗って音が聞こえた。
 カチッ、カチッ、という硬質な音。
 そして、パンッ! という乾いた破裂音。
 博史の背筋が凍りついた。
 日本史オタクの彼が、その音を聞き間違えるはずがない。
 運動会で使うピストルの音ではない。花火の音でもない。
 あれは――黒色火薬が爆ぜる音だ。
「火縄銃……?」
 現代日本で、火縄銃の発砲音?
 猟友会か? いや、現代の散弾銃はもっと重く鈍い音がする。あの独特の、少し間の抜けた、しかし殺意を含んだ破裂音は、間違いなく古式銃のものだ。
 博史の脳裏に、先ほどの願いが過ぎる。
 『予測不可能な人生』。
 彼の心臓が、早鐘を打ち始めた。それは恐怖によるものか、それとも歓喜によるものか。
 博史は音のした方角へ、スーツにも似たジャケットの裾を翻して走り出した。
 この瞬間、退屈な天才・鷹野博史の日常は終わりを告げた。
 時代は、戦国。
 血と鉄の匂いが漂う乱世への、あまりに唐突なダイブだった。
(第1章 完)

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