紅の忍法帖 ~伊賀幕府・ラスト・アナログ~

TAKAHARA HIROKI

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第1章:歌舞伎町の女帝

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新宿、歌舞伎町。
 かつて不夜城と呼ばれたこの街は、伊賀幕府による天下統一から四百年が過ぎた今も、その妖しい輝きを失ってはいなかった。
 ただし、今のネオンサインには、一般人には読めない「隠し文字」が踊っている。
 『口外無用』『一見(いちげん)の客、命の保証なし』
 会員制高級クラブ『胡蝶(こちょう)』。
 紫煙と高級な香水の香りが入り混じる店内の奥、VIP席にその女(ひと)はいた。
「あら、先生。今日はお酒が進んでいらっしゃいませんね」
 鈴を転がすような声。艶やかな濡羽色の髪を夜会巻きにし、深紅の着物を完璧に着こなした美女――源氏名は揚羽(あげは)。
 彼女は、この街で『女帝』と呼ばれている。
 対面に座る男は、財務省の次官だった。額には脂汗が滲んでいる。
「い、いや……少し部屋が暑くてな」
「そうですか?」
 揚羽は微笑みながら、男のグラスに氷を一つ、カランと落とした。
 その瞬間、彼女の目は「接客」から「解析」へと切り替わる。
 (脈拍数、通常時よりプラス三十。瞳孔の散大。貧乏ゆすりのリズムは、焦燥……いいえ、恐怖ね)
 最新鋭の嘘発見器なら「異常なし」と判定するレベルの微細な震え。だが、揚羽の感覚(センサー)は誤魔化せない。
 彼女は男の手首にそっと指を這わせた。愛撫に見せかけた、脈診(みゃくしん)である。
「……先生。東南アジアへのODA予算、横流しなさってますね?」
「な、なにを!」
「今、心臓が一度、大きく跳ねましたわ」
 男が顔面蒼白になり、懐に手を伸ばした瞬間――。
 ヒュッ!
 風切り音と共に、店内の照明が一瞬だけ揺れた。
 男の背後の闇から、黒い影が飛び出したのだ。財務省内の対立派閥が放った暗殺者(シノビ)だ。手にはセラミック製の短刀が握られている。
 だが、揚羽は動じない。
 彼女は男のグラスに水を注ぎながら、着物の袖を優雅に翻した。
 その袖口から、何かが煌めく。
 ガキンッ!
 金属音が響き、暗殺者の短刀が弾き飛ばされた。
 床に突き刺さったのは、揚羽が髪に挿していた一本の簪(かんざし)。
 彼女は素手で暗殺者の手首を掴むと、そのまま関節を極め、畳の上へとねじ伏せた。最新の強化スーツを着た男が、着物姿の女に力負けし、悲鳴を上げる。
「あら、失礼。手が滑りましたわ」
 揚羽は優雅に髪を直しながら、簪を拾い上げ、暗殺者の首筋に切っ先を突きつける。
 その所作は、茶道の点前(てまえ)のように美しく、そして残酷だった。
「当店での狼藉は、伊賀の法度(はっと)に触れますよ? ……さあ、先生。お話の続きを」
 震え上がる次官と、床に這いつくばる暗殺者。
 揚羽はニッコリと微笑み、営業用の声に戻った。
「いらっしゃいませ、『胡蝶』へようこそ」
 彼女にとって、これもまた日常。
 データも証拠も残さない。人の心と体の隙間に入り込む、最強のアナログ諜報員。
 それが、くの一・揚羽だった。
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