紅の忍法帖 ~伊賀幕府・ラスト・アナログ~

TAKAHARA HIROKI

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紅の忍法帖 外伝:胡蝶の迷宮(ラビリンス) 第1章:夜の城塞、開門

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~夜のくノ一、接客は戦場なり~

二〇二六年、冬。
 伊賀幕府が支配する帝都・東京において、歌舞伎町という街は「聖域」であり「魔窟」でもあった。
 無数のネオンサインが雨に濡れたアスファルトを極彩色に染め上げ、欲望という名の瘴気が路地裏から立ち上る。
 その混沌を見下ろすようにそびえ立つ、黒曜石のような偉容を誇るビル「バビロン・タワー」。その最上階、地上百メートルに位置するのが、会員制高級クラブ「胡蝶(こちょう)」である。
 政財界のVIP、幕府の重鎮、そして裏社会のフィクサー。選ばれし者しかその重厚なマホガニーの扉をくぐることは許されない。
 午後六時三十分。開店三十分前。
 深紅の絨毯が敷き詰められた店内は、戦場に出撃する直前の兵舎のような、冷たく研ぎ澄まされた静寂に包まれていた。
 天井から吊るされたバカラ製のシャンデリアが、氷の刃のような光を放っている。その下で、二十名のホステスたちが一列に整列していた。
 彼女たちの纏う着物は、京友禅の最高級品。帯一本で高級外車が買えるほどの逸品ばかりだ。だが、彼女たちにとってそれらは単なる装飾ではない。「戦闘服(アーマー)」である。
「帯の締め方が甘いわよ、繭(マユ)」
 静寂を引き裂くように、凜とした声が響いた。
 声の主は、この店のオーナーママであり、歌舞伎町の夜を影で操る「女帝」、揚羽(アゲハ)だ。
 黒留袖に身を包み、白百合の刺繍が施された帯を締めたその姿。四〇代とは思えぬ美貌には、人を惹きつける磁力と、近づく者を斬り捨てるような鋭利な覇気が同居している。
「は、はい! 申し訳ありません、ママ!」
 新人の繭は、震える手で帯を締め直した。額に冷や汗が伝う。
 ただの着付けではない。彼女たちが締める帯の中には、形状記憶合金のワイヤー、セラミック製の極薄手裏剣、そして猛毒を塗った簪(かんざし)が仕込まれている。呼吸を妨げず、かつ有事の際には〇・一秒で武器を取り出せる絶妙な締め加減――それができなければ、この店では一秒たりとも生き残れない。
「いいこと、みんな。よくお聞きなさい」
 アゲハが扇子を閉じる乾いた音が、鼓膜を打った。
「伊賀幕府の支配下にあるこの日本において、真の情報はネットには流れない。SNSもメールも、すべては検閲されている。だからこそ、男たちはここに来る。酒と紫煙、そして女の肌の温もりに油断し、隠している『真実』を吐き出すために」
 アゲハはゆっくりと列の前を歩く。その足音は、猫のように無音だ。
「ここはただの酒場ではない。情報の交易所であり、魂の解体場よ。お客様は敵ではないが、味方でもない。彼らは獲物であり、同時に神様でもある」
 彼女は繭の目の前で立ち止まり、その顎を扇子で持ち上げた。
「笑顔で懐に入り、グラスの氷が溶けるその僅かな時間に、国家機密から、不穏な動き、すべてを抜き取りなさい」
 彼女たちの正体は、伊賀の里で特殊な訓練を受けた現代の「くノ一」である。
 忍術を義務教育とするこの国においてさえ、彼女たちの技術は別格だった。殺しはしない。だが、心を殺し、情報を盗む。
 アゲハはマニキュアの塗られた指先を天井へ掲げた。
「お絞りは手裏剣よりも重く、言葉は毒よりも深く刺さると思え。一流のホステスとは、一流の暗殺者と同じ。相手に気づかれることなく、その心の臓腑を抉り出すのよ」
「御意!」
 二十名の女たちの声が重なり、腹の底から響くような気合となって店内の空気を震わせた。それは美しい合唱であると同時に、戦いの狼煙(のろし)でもあった。
 繭は自分の掌を見つめた。今日のために磨き上げた爪。その裏には、遅効性の自白剤を含んだ微細なパウダーが仕込んである。
(やれる。私は伊賀のくノ一。どんな男も堕としてみせる)
 自分に言い聞かせる。だが、心臓の鼓動は早鐘を打っていた。
 チャイムが鳴る。開店の時間だ。
 黒服が恭しく扉を開けた。
 外から流れ込んでくるのは、雨の湿気と、男たちの欲望の気配。
「いらっしゃいませ」
 一斉に頭を下げる女たち。その背中には、目に見えない翼と、鋭利な刃が隠されていた。
 夜の城塞、開門。
 今宵も、血を流さない残酷な宴が始まる。
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