紅の忍法帖 ~伊賀幕府・ラスト・アナログ~

TAKAHARA HIROKI

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第3章:ルージュの解析者(プロファイラー)

ホステスたちが華やかに舞うフロアから少し離れた薄暗い場所に、その領域はある。
 クローク(荷物預かり所)。
 ここを守るのは、ベテランくノ一の麗華(レイカ)だ。眼鏡の奥に理知的な光を宿す彼女は、かつて伊賀幕府の諜報部隊で主席分析官を務めていた経歴を持つ。
 彼女にとって、客から預かるコートや鞄は、単なる荷物ではない。情報の宝庫であり、解剖すべき死体のようなものだ。
 午後八時。ラッシュアワーを迎えた店内に、大柄な男が入ってきた。関西訛りの、不動産関係の男だ。
 繭が男を席へ案内する間、麗華は預かったカシミアのコートを素早く検分する。
 制限時間は十秒。監視カメラの死角で行われる、超高速のプロファイリング。
 「忍法・千里眼(センリガン)・物質解析」。
 彼女はまず、コートの襟元に鼻を近づける。
(……微量な硫黄の臭い。それに、煙草の銘柄はショートホープ。都内じゃないわね)
 次に、ポケットの中身を探ることはせず、生地の上から指先の感覚だけで内容物を透視する。
(硬質なカードキーが二枚。形状からして、箱根の高級旅館『強羅花壇』のもの。二枚あるということは、同伴者がいる)
 最後に、男が脱ぎ捨てた靴を靴箱に入れる一瞬、その靴底を一瞥する。
(左の踵だけが極端にすり減っている。長時間の運転をする癖。それに、赤土が付着している。……造成地ね)
 脳内でパズルが組み上がる。
 この男は今日、箱根の造成地を視察し、その足で温泉宿で誰かと密会してきた。カードキーが二枚。硫黄の匂いには、かすかに甘い女の香水が混じっている。シャネルのNo.5だ。妻ではない。
 (ターゲットは、箱根のリゾート開発に関与。同伴者は愛人、もしくはハニートラップ要員。弱点は「見栄」と「秘密」)
 麗華はパウダールームへと向かった。
 鏡の前で、鮮やかなクリムゾン・レッドの口紅を取り出す。
 鏡越しに、フロアにいる繭と目が合う。距離は十五メートル。会話は届かない。
 だが、麗華はゆっくりと唇に紅を引く。
 上唇を二回、下唇を一回。そして、小指で口角を拭う仕草。
 これは、伊賀流の暗号伝達術**「紅信号(ルージュ・シグナル)」**だ。
 ルージュの色、塗り方、指の動きの組み合わせで、数百種類の情報を伝達することができる。
『箱根。リゾート開発。女あり。攻め手は「共感」なり』
 繭は客に酒を作りながら、そのサインを瞬時に解読した。
 遠く離れた場所からの、声なきアドバイス。インカムやスマホを使えば電波傍受されるリスクがあるが、このアナログな手法は誰にも気づかれない。
 繭は、男に向かってニッコリと微笑みかける。
「社長、なんだか温泉のようないい香りがしますわ。……もしかして、箱根あたりでゆっくりされてきたんじゃありません?」
 男がギクリとしてグラスを止める。
「な、なんで分かんねん!?」
「ふふ、なんとなくですわ。社長のような素敵な殿方は、紅葉の箱根がお似合いだと思って」
 図星を突かれた男は、動揺しつつも、自分の行動を見抜いてくれた女に運命的なものを感じ始める。
「いやあ、実はな、でかいプロジェクトが動いとってな……誰にも言うなよ?」
 麗華は鏡の中で、ニヤリと笑った。
 鮮やかな色の唇は、男を誘惑するためだけにあるのではない。情報を解析し、仲間に伝達するための、高度な通信デバイスなのだ。
 クロークという名の解析室(ラボ)で、彼女は今夜も男たちの行動履歴を丸裸にしていく。
 化粧直しをするたびに、新たな情報がフロアを駆け巡る。それが、クラブ「胡蝶」の最強の武器、**「生体ネットワーク」**だった。

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