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第6章:見えざる毒牙
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深夜〇時。
店内の空気は、甘美な腐敗の予兆を含んでいた。
アゲハのテーブルに座っていたのは、氷室(ひむろ)という男。敵対組織から送り込まれた「店舗破壊工作員(クラッシャー)」である。
彼は、最高級のボルドーワインを持参していた。
「今日はママの誕生月だと聞きました。これは僕からのプレゼントです」
氷室がボトルの栓を抜く。
その瞬間、アゲハの美貌にわずかな変化も生じなかったが、彼女が持っていた扇子がパチリと小さく音を立てて閉じられた。
それは、店内にいる全ホステスに向けた「警戒レベル最大」のサインではなく、傍らに控える繭(マユ)一人だけに送られた**「合図(アイ・コンタクト)」**だった。
(……気づいていますね、ママ)
繭もまた、その芳醇な香りの奥に潜む、焦げたアーモンドのような刺激臭――合成神経毒『VX‐Ⅱ』の臭いを嗅ぎ取っていた。
アゲハの視線が、一瞬だけ繭の足元へ流れる。
『隙を作りなさい。私が処理する』
繭は微かに顎を引き、『御意』と無言で応えた。
言葉はいらない。二人の思考は、光ファイバーで繋がれたかのように同期していた。
氷室が恭しくグラスにワインを注ごうとする。
「さあ、ぜひ味わっていただきたい」
毒の滴が、重力に従って落ちようとするその刹那。
繭が動いた。
おつまみの皿を置く動作に隠れ、テーブルの下でハイヒールを脱ぎ捨てる。
「体術・足指針(そくししん)」。
ストッキング越しの鋭利な爪先が、氷室の革靴の甲、神経の交差点である急所「太衝(たいしょう)」を、雷のような速度で突き刺した。
「……っぐ!?」
激痛が脳天を突き抜け、氷室の意識が一瞬だけ空白になる。
ボトルを持つ手が硬直した、そのコンマ五秒。
それはアゲハにとって、永遠にも等しい時間だった。
彼女の左袖が流れるように動く。
「忍法・傀儡(くぐつ)の手品」。
袖の中に隠していた「同銘柄の安全なボトル」と、氷室の手にある「毒入りのボトル」が、まるで映像編集のカット割りのように瞬時に入れ替わる。
繭が作り出した一瞬の硬直を、アゲハが神業で埋める。
あまりに自然な連携。氷室が痛みに顔をしかめ、再び視線を戻した時には、もう手遅れだった。
「……手が滑りそうですわよ、氷室様」
アゲハは優しく微笑み、氷室の手を包み込むようにしてボトルを支えた(・・・・・・・・・・・・・・)。
すでに、そのボトルは安全なものにすり替わっている。
「ありがとうございます……」
氷室は脂汗を流しながら、何も知らずにワインをグラスに注いだ。
「では、頂戴いたします」
アゲハは躊躇なくグラスを干した。美しい喉が鳴る。
氷室の目が驚愕に見開かれた。
(飲んだ……!? 馬鹿な、あれは即死ではないが、確実に内臓を……)
「……ふふ、おいしいですわね」
アゲハは空になったグラスを置き、氷室の目を真っ直ぐに見据えた。
「貴方の『殺意』のような、深みのある味がします」
その言葉に、氷室は凍りついた。
バレている。いや、それどころか、毒そのものを無効化された?
アゲハの瞳は、全てを見通す慈母のようであり、同時に裏切り者を断罪する処刑人のそれでもあった。
すかさず繭が背後に回り込み、氷のように冷えたお絞りを、氷室の頸動脈にピタリと押し当てる。逃げ道は塞がれた。
「氷室様、お顔色が優れませんわ。……当店のお酒は、悪いこと(・・・・)を考える方には、少々強すぎたようで」
繭の囁きが、止めを刺す。
阿吽の呼吸。
アゲハの「静」と、繭の「動」。二つの忍法が噛み合い、敵の悪意を完封したのだ。
氷室は震える手で財布を掴むと、会計も忘れて逃げるように席を立った。
「し、失礼する!」
背中を見せて逃走する男を見送りながら、アゲハと繭は顔を見合わせた。
アゲハが扇子で口元を隠し、目だけで笑う。
「いい蹴りだったわよ、繭」
「ママの手さばきこそ、お見事でした」
二人の間に流れるのは、師弟の絆を超えた、戦友としての信頼だった。
店内の空気は、甘美な腐敗の予兆を含んでいた。
アゲハのテーブルに座っていたのは、氷室(ひむろ)という男。敵対組織から送り込まれた「店舗破壊工作員(クラッシャー)」である。
彼は、最高級のボルドーワインを持参していた。
「今日はママの誕生月だと聞きました。これは僕からのプレゼントです」
氷室がボトルの栓を抜く。
その瞬間、アゲハの美貌にわずかな変化も生じなかったが、彼女が持っていた扇子がパチリと小さく音を立てて閉じられた。
それは、店内にいる全ホステスに向けた「警戒レベル最大」のサインではなく、傍らに控える繭(マユ)一人だけに送られた**「合図(アイ・コンタクト)」**だった。
(……気づいていますね、ママ)
繭もまた、その芳醇な香りの奥に潜む、焦げたアーモンドのような刺激臭――合成神経毒『VX‐Ⅱ』の臭いを嗅ぎ取っていた。
アゲハの視線が、一瞬だけ繭の足元へ流れる。
『隙を作りなさい。私が処理する』
繭は微かに顎を引き、『御意』と無言で応えた。
言葉はいらない。二人の思考は、光ファイバーで繋がれたかのように同期していた。
氷室が恭しくグラスにワインを注ごうとする。
「さあ、ぜひ味わっていただきたい」
毒の滴が、重力に従って落ちようとするその刹那。
繭が動いた。
おつまみの皿を置く動作に隠れ、テーブルの下でハイヒールを脱ぎ捨てる。
「体術・足指針(そくししん)」。
ストッキング越しの鋭利な爪先が、氷室の革靴の甲、神経の交差点である急所「太衝(たいしょう)」を、雷のような速度で突き刺した。
「……っぐ!?」
激痛が脳天を突き抜け、氷室の意識が一瞬だけ空白になる。
ボトルを持つ手が硬直した、そのコンマ五秒。
それはアゲハにとって、永遠にも等しい時間だった。
彼女の左袖が流れるように動く。
「忍法・傀儡(くぐつ)の手品」。
袖の中に隠していた「同銘柄の安全なボトル」と、氷室の手にある「毒入りのボトル」が、まるで映像編集のカット割りのように瞬時に入れ替わる。
繭が作り出した一瞬の硬直を、アゲハが神業で埋める。
あまりに自然な連携。氷室が痛みに顔をしかめ、再び視線を戻した時には、もう手遅れだった。
「……手が滑りそうですわよ、氷室様」
アゲハは優しく微笑み、氷室の手を包み込むようにしてボトルを支えた(・・・・・・・・・・・・・・)。
すでに、そのボトルは安全なものにすり替わっている。
「ありがとうございます……」
氷室は脂汗を流しながら、何も知らずにワインをグラスに注いだ。
「では、頂戴いたします」
アゲハは躊躇なくグラスを干した。美しい喉が鳴る。
氷室の目が驚愕に見開かれた。
(飲んだ……!? 馬鹿な、あれは即死ではないが、確実に内臓を……)
「……ふふ、おいしいですわね」
アゲハは空になったグラスを置き、氷室の目を真っ直ぐに見据えた。
「貴方の『殺意』のような、深みのある味がします」
その言葉に、氷室は凍りついた。
バレている。いや、それどころか、毒そのものを無効化された?
アゲハの瞳は、全てを見通す慈母のようであり、同時に裏切り者を断罪する処刑人のそれでもあった。
すかさず繭が背後に回り込み、氷のように冷えたお絞りを、氷室の頸動脈にピタリと押し当てる。逃げ道は塞がれた。
「氷室様、お顔色が優れませんわ。……当店のお酒は、悪いこと(・・・・)を考える方には、少々強すぎたようで」
繭の囁きが、止めを刺す。
阿吽の呼吸。
アゲハの「静」と、繭の「動」。二つの忍法が噛み合い、敵の悪意を完封したのだ。
氷室は震える手で財布を掴むと、会計も忘れて逃げるように席を立った。
「し、失礼する!」
背中を見せて逃走する男を見送りながら、アゲハと繭は顔を見合わせた。
アゲハが扇子で口元を隠し、目だけで笑う。
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