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第7章:移り香の幻術
深夜二時。
「胡蝶」の店内から、騒がしい喧騒が消えた。代わりに満ちてきたのは、甘く、重く、そしてどこか懐かしい香りだった。
空調の吹き出し口から、アゲハが調香した特殊な香が流され始めたのだ。
成分は、最高級の香木・伽羅(きゃら)をベースに、リラックス効果のあるラベンダー、そして伊賀の山奥にしか自生しない幻覚作用を持つ薬草「夢見草(ゆめみぐさ)」のエキス。
さらに、そこへ極微量のスコポラミン誘導体――自白剤の一種――が配合されている。
「忍法・香道 夢化粧(こうどう・ゆめげしょう)」。
この香りを吸い込んだ者は、前頭葉の論理フィルター(理性)が強制的に解除され、現実と記憶の境界が曖昧になる。
店内の照明が一段階落とされた。
紫煙と香煙が混じり合い、空間そのものが揺らいでいるように見える。そこはもう、歌舞伎町のビルの中ではない。男たちの心の奥底にある「帰るべき場所」へと変貌していた。
ボックス席の隅。
昼間は鬼のような交渉術で恐れられる不動産王・権藤(ごんどう)が、新人の繭の膝に縋り付いて、子供のように泣いていた。
「俺は……本当は画家になりたかったんだ……ビルなんて建てたくなかった……」
権藤の瞳は虚ろだ。彼は今、繭の中に、死んだ母親の面影を見ている。
繭は優しく男の頭を撫でる。その指の動きは、一定のリズムを刻んでいる。
トン、トン、トン。
心拍数よりもわずかに遅いリズム。相手の脈拍を強制的に落ち着かせ、深いトランス状態へと誘導する**「接触催眠(タッチ・ヒプノ)」**だ。
「よしよし、辛かったですねえ。……でも社長、貴方が描こうとしている『新しい街』の絵、私見てみたいわ」
繭は耳元で囁く。
声色を変える。母音を強調し、高周波成分を含ませた「ゆらぎ」のある声。
「忍法・聖母の囁き(マリア・ウィスパー)」。
それは鼓膜ではなく、脳幹に直接響く。
「ええ、分かりますわ。……ところで、西新宿の地下には、どんな色(・)を塗るおつもりなんですか?」
質問ではない。「共感」という包装紙に包まれた尋問だ。
「うん……あそこはな、黒だ……」
権藤は夢心地のまま、口を開く。
「地下五階に、伊賀幕府の……秘密のデータセンターを作るんだ……入り口は、地下鉄の……」
男の口から、驚くべき都市計画の全貌が漏れ出す。
繭は、自分の帯留めに仕込まれた超小型ボイスレコーダーを作動させながら、決して書くことのできない機密情報を記録していく。
隣の席でも同様の光景が広がっていた。
ベテランホステスの麗華が、大手銀行の支店長に膝枕をしている。
支店長は、赤子のように指をくわえながら、架空口座の暗証番号を譫言(うわごと)のように繰り返していた。
店内は、異様な「癒やし」の空間と化していた。
男たちは皆、社会的な鎧を脱がされ、裸の魂をさらけ出している。彼らは幸せそうだ。たとえその口から、自身の破滅につながる秘密を吸い上げられているとしても。
アゲハはカウンターの中から、その光景を静かに見守っていた。
彼女が焚く香は、記憶の扉をこじ開ける鍵。
無理やり開ければ壊れる。だから、優しく、甘く、自ら開けさせる。
「……良い夢を」
アゲハが扇子を一振りすると、香りの流れが変わった。
男たちは更に深い眠りへと落ちていく。
翌朝、彼らが目を覚ました時、昨夜の記憶は「最高の酒を飲んで、素晴らしい夢を見た」という多幸感だけが残り、何を喋ったかは綺麗に消え去っているだろう。
それが「忘却の香り」の慈悲であり、残酷さだった。
移り香の幻術。
煙の中に漂うのは、救済という名の、完全なる情報の搾取だった。
「胡蝶」の店内から、騒がしい喧騒が消えた。代わりに満ちてきたのは、甘く、重く、そしてどこか懐かしい香りだった。
空調の吹き出し口から、アゲハが調香した特殊な香が流され始めたのだ。
成分は、最高級の香木・伽羅(きゃら)をベースに、リラックス効果のあるラベンダー、そして伊賀の山奥にしか自生しない幻覚作用を持つ薬草「夢見草(ゆめみぐさ)」のエキス。
さらに、そこへ極微量のスコポラミン誘導体――自白剤の一種――が配合されている。
「忍法・香道 夢化粧(こうどう・ゆめげしょう)」。
この香りを吸い込んだ者は、前頭葉の論理フィルター(理性)が強制的に解除され、現実と記憶の境界が曖昧になる。
店内の照明が一段階落とされた。
紫煙と香煙が混じり合い、空間そのものが揺らいでいるように見える。そこはもう、歌舞伎町のビルの中ではない。男たちの心の奥底にある「帰るべき場所」へと変貌していた。
ボックス席の隅。
昼間は鬼のような交渉術で恐れられる不動産王・権藤(ごんどう)が、新人の繭の膝に縋り付いて、子供のように泣いていた。
「俺は……本当は画家になりたかったんだ……ビルなんて建てたくなかった……」
権藤の瞳は虚ろだ。彼は今、繭の中に、死んだ母親の面影を見ている。
繭は優しく男の頭を撫でる。その指の動きは、一定のリズムを刻んでいる。
トン、トン、トン。
心拍数よりもわずかに遅いリズム。相手の脈拍を強制的に落ち着かせ、深いトランス状態へと誘導する**「接触催眠(タッチ・ヒプノ)」**だ。
「よしよし、辛かったですねえ。……でも社長、貴方が描こうとしている『新しい街』の絵、私見てみたいわ」
繭は耳元で囁く。
声色を変える。母音を強調し、高周波成分を含ませた「ゆらぎ」のある声。
「忍法・聖母の囁き(マリア・ウィスパー)」。
それは鼓膜ではなく、脳幹に直接響く。
「ええ、分かりますわ。……ところで、西新宿の地下には、どんな色(・)を塗るおつもりなんですか?」
質問ではない。「共感」という包装紙に包まれた尋問だ。
「うん……あそこはな、黒だ……」
権藤は夢心地のまま、口を開く。
「地下五階に、伊賀幕府の……秘密のデータセンターを作るんだ……入り口は、地下鉄の……」
男の口から、驚くべき都市計画の全貌が漏れ出す。
繭は、自分の帯留めに仕込まれた超小型ボイスレコーダーを作動させながら、決して書くことのできない機密情報を記録していく。
隣の席でも同様の光景が広がっていた。
ベテランホステスの麗華が、大手銀行の支店長に膝枕をしている。
支店長は、赤子のように指をくわえながら、架空口座の暗証番号を譫言(うわごと)のように繰り返していた。
店内は、異様な「癒やし」の空間と化していた。
男たちは皆、社会的な鎧を脱がされ、裸の魂をさらけ出している。彼らは幸せそうだ。たとえその口から、自身の破滅につながる秘密を吸い上げられているとしても。
アゲハはカウンターの中から、その光景を静かに見守っていた。
彼女が焚く香は、記憶の扉をこじ開ける鍵。
無理やり開ければ壊れる。だから、優しく、甘く、自ら開けさせる。
「……良い夢を」
アゲハが扇子を一振りすると、香りの流れが変わった。
男たちは更に深い眠りへと落ちていく。
翌朝、彼らが目を覚ました時、昨夜の記憶は「最高の酒を飲んで、素晴らしい夢を見た」という多幸感だけが残り、何を喋ったかは綺麗に消え去っているだろう。
それが「忘却の香り」の慈悲であり、残酷さだった。
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