紅の忍法帖 ~伊賀幕府・ラスト・アナログ~

TAKAHARA HIROKI

文字の大きさ
37 / 50

第7章:移り香の幻術

深夜二時。
 「胡蝶」の店内から、騒がしい喧騒が消えた。代わりに満ちてきたのは、甘く、重く、そしてどこか懐かしい香りだった。
 空調の吹き出し口から、アゲハが調香した特殊な香が流され始めたのだ。
 成分は、最高級の香木・伽羅(きゃら)をベースに、リラックス効果のあるラベンダー、そして伊賀の山奥にしか自生しない幻覚作用を持つ薬草「夢見草(ゆめみぐさ)」のエキス。
 さらに、そこへ極微量のスコポラミン誘導体――自白剤の一種――が配合されている。
 「忍法・香道 夢化粧(こうどう・ゆめげしょう)」。
 この香りを吸い込んだ者は、前頭葉の論理フィルター(理性)が強制的に解除され、現実と記憶の境界が曖昧になる。
 店内の照明が一段階落とされた。
 紫煙と香煙が混じり合い、空間そのものが揺らいでいるように見える。そこはもう、歌舞伎町のビルの中ではない。男たちの心の奥底にある「帰るべき場所」へと変貌していた。
 ボックス席の隅。
 昼間は鬼のような交渉術で恐れられる不動産王・権藤(ごんどう)が、新人の繭の膝に縋り付いて、子供のように泣いていた。
「俺は……本当は画家になりたかったんだ……ビルなんて建てたくなかった……」
 権藤の瞳は虚ろだ。彼は今、繭の中に、死んだ母親の面影を見ている。
 繭は優しく男の頭を撫でる。その指の動きは、一定のリズムを刻んでいる。
 トン、トン、トン。
 心拍数よりもわずかに遅いリズム。相手の脈拍を強制的に落ち着かせ、深いトランス状態へと誘導する**「接触催眠(タッチ・ヒプノ)」**だ。
「よしよし、辛かったですねえ。……でも社長、貴方が描こうとしている『新しい街』の絵、私見てみたいわ」
 繭は耳元で囁く。
 声色を変える。母音を強調し、高周波成分を含ませた「ゆらぎ」のある声。
 「忍法・聖母の囁き(マリア・ウィスパー)」。
 それは鼓膜ではなく、脳幹に直接響く。
「ええ、分かりますわ。……ところで、西新宿の地下には、どんな色(・)を塗るおつもりなんですか?」
 質問ではない。「共感」という包装紙に包まれた尋問だ。
「うん……あそこはな、黒だ……」
 権藤は夢心地のまま、口を開く。
「地下五階に、伊賀幕府の……秘密のデータセンターを作るんだ……入り口は、地下鉄の……」
 男の口から、驚くべき都市計画の全貌が漏れ出す。
 繭は、自分の帯留めに仕込まれた超小型ボイスレコーダーを作動させながら、決して書くことのできない機密情報を記録していく。
 隣の席でも同様の光景が広がっていた。
 ベテランホステスの麗華が、大手銀行の支店長に膝枕をしている。
 支店長は、赤子のように指をくわえながら、架空口座の暗証番号を譫言(うわごと)のように繰り返していた。
 店内は、異様な「癒やし」の空間と化していた。
 男たちは皆、社会的な鎧を脱がされ、裸の魂をさらけ出している。彼らは幸せそうだ。たとえその口から、自身の破滅につながる秘密を吸い上げられているとしても。
 アゲハはカウンターの中から、その光景を静かに見守っていた。
 彼女が焚く香は、記憶の扉をこじ開ける鍵。
 無理やり開ければ壊れる。だから、優しく、甘く、自ら開けさせる。
「……良い夢を」
 アゲハが扇子を一振りすると、香りの流れが変わった。
 男たちは更に深い眠りへと落ちていく。
 翌朝、彼らが目を覚ました時、昨夜の記憶は「最高の酒を飲んで、素晴らしい夢を見た」という多幸感だけが残り、何を喋ったかは綺麗に消え去っているだろう。
 それが「忘却の香り」の慈悲であり、残酷さだった。
 移り香の幻術。
 煙の中に漂うのは、救済という名の、完全なる情報の搾取だった。

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

サイレント・サブマリン ―虚構の海―

来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。 科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。 電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。 小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。 「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」 しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。 謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か—— そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。 記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える—— これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。 【全17話完結】

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

身体交換

廣瀬純七
SF
大富豪の老人の男性と若い女性が身体を交換する話

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。