紅の忍法帖 ~伊賀幕府・ラスト・アナログ~

TAKAHARA HIROKI

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第8章:黒いVIPルーム

その部屋は、クラブ「胡蝶」の最深部、一般客の目には決して触れない隠し通路の先にあった。
 通称『羽化の間(うかのま)』。
 壁、床、天井の全てが、電波を吸収する特殊なフェライト塗料と防音材で覆われた、完全なる密室。窓はなく、外部との通信は一切遮断される。
 ここが開かれるのは、日本の歴史が裏側で書き換えられる夜だけだ。
 今宵、その重い扉が開かれた。
 円卓を囲むのは三人の男。伊賀幕府の国防長官、大手軍需企業のCEO、そして正体不明の外国人武器商人。
 卓上に広げられているのは、料理のメニューではない。次期主力戦闘用アンドロイド「阿修羅(アシュラ)」の設計図と、裏金の見積書だ。
 給仕に抜擢されたのは、女帝アゲハと、新人の繭(マユ)の二人だけ。
 入室前、アゲハは繭の耳元で短く囁いた。
「いいこと、繭。この部屋では『人間』であることを捨てなさい。気配、呼吸、心音、すべてを消し去るのよ」
 「忍法・無の奉仕(ゼロ・サービス)」。
 それは伊賀のくノ一における最高難度の接客術だ。
 客の視界に入らず、意識にも登らず、しかし客が「欲しい」と脳が認識するコンマ一秒前に、その欲求を満たす。
 そこに「人」はいない。「快適な環境」という現象だけが存在する。
 緊張で心臓が破裂しそうになるのを、繭は**「丹田呼吸法」**でねじ伏せた。
 心拍数を極限まで下げ、体温を周囲の気温と同調させる。
 繭は影のように部屋の隅に控えた。
 国防長官が葉巻に手を伸ばす。その指が動いた瞬間、繭は音もなく移動し、長官の視界の外側から、絶妙な角度で灰皿を差し出した。
 長官は繭を見ることなく、当たり前のように灰を落とす。彼にとって、灰皿は最初からそこにあったのだ。
 武器商人が喉を鳴らす。乾き。
 繭はボトルの重さと液体の粘度を手先の感覚だけで計り、グラスに氷が当たる音(カラン)という鋭い音を立てずに、滑らかに水を注ぎ足す。
 「水遁・無音注ぎ」。
 水面が揺れることすらない静寂の技。商人は会話を途切れさせることなく、自然にグラスを口に運んだ。
 (……すごい。誰も私を見ていない)
 繭は透明人間になっていた。
 だが、その眼球だけは、猛禽類のように卓上の設計図を捉えていた。
 彼女が装着しているのは、伊賀の科学班が開発した**「コンタクトレンズ型スキャナー」**。瞬きをするたびに、高解像度で図面を撮影(キャプチャ)していく。
 カシャッ、カシャッ。
 脳内でシャッター音が響く。
 「阿修羅」の関節構造、動力炉の仕様、そして裏金の振込先口座番号。
 国家反逆罪に相当する証拠の数々が、給仕という奉仕の裏で、次々と繭の網膜に吸い込まれていく。
 一時間後。密談が終わった。
 男たちは満足げに席を立つ。彼らは最後まで、部屋に若い女がいたことさえ覚えていないだろう。
 客が去った後の無人の部屋で、繭はその場に崩れ落ちそうになった。
 極度の緊張と、気配遮断(ステルス)による精神消耗。
 アゲハが、そっと繭の肩に手を置いた。
「よくやったわ、繭。……貴方の瞳の中に、国の未来が入っているわよ」
 アゲハの労いの言葉に、繭は深く息を吐き出した。
 黒いVIPルーム。そこは、空気のように振る舞うことでしか生き残れない、真空の戦場だった。

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