紅の忍法帖 ~伊賀幕府・ラスト・アナログ~

TAKAHARA HIROKI

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第15章:朝霧の帰還、そして日常へ

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東の空が白み始めた。
 歌舞伎町のビルの谷間から、青白い朝の光が差し込み、アスファルトの水たまりを照らしている。
 「胡蝶」の窓から見える空は、嵐が嘘のように澄み渡っていた。
 店内では、事後処理が迅速に行われていた。
 VIP客たちは、駆けつけた伊賀幕府の正規軍によって秘密裏に保護され、護送されていった。彼らは今夜見たことを生涯口外しないだろう。それが「命を救われた代償」だからだ。
 倒れていた甲賀の兵士たちも、アゲハの手配によって闇医者の元へと運ばれていった。彼らが今後、敵として現れるか、それとも新たな顧客となるかは、神のみぞ知る。
 残されたのは、二十名のくノ一たち。
 彼女たちは今、箒と塵取りを手に、黙々と床を掃いていた。
「あーあ、お気に入りの着物がボロボロ。これ、お気に入りだったのに」
「マユ、愚痴らない。生きてるだけで丸儲けでしょ」
 麗華がテキパキと指示を出しながら、割れたグラスの破片を集めている。
 そこにいるのは、数時間前に特殊部隊と死闘を繰り広げた修羅たちではない。
 メイクは崩れ、髪は乱れ、あちこちに絆創膏を貼った、仕事明けの疲れた女性たちだ。
 繭は、カウンターの隅に落ちていたアイスピックを拾い上げた。
 先端が少し欠けている。
 彼女はそれを愛おしそうに布で拭い、そっとポケットにしまった。
(守れた……)
 POSレジは黒焦げになってしまったけれど、本当に大切なものは何一つ失わなかった。
 その事実は、彼女の胸に小さな誇りとなって灯っていた。
 アゲハが、店の入り口に立った。
 彼女は振り返り、破壊された店と、誇り高き愛娘たちを見渡した。
 壁には弾痕。絨毯には焦げ跡。シャンデリアは砕け散っている。
 普通なら絶望する光景だ。
 だが、アゲハは眩しそうに目を細め、微笑んだ。
「お疲れ様。……みんな、今までで一番いい顔をしてるわよ」
 その言葉に、全員が顔を見合わせ、照れくさそうに笑った。
 高級ブランドの化粧よりも、戦い抜いた素顔の汗の方が、今の彼女たちを輝かせていた。
 午前六時。
 彼女たちは店の裏口から外へ出た。
 早朝の歌舞伎町。カラスがゴミ袋を漁り、始発列車がガタンゴトンと音を立てて走る。
 酔いつぶれて路上で寝ているサラリーマン。看板の撤去作業をする業者。
 いつもの、ありふれた日常がそこにあった。
「ねえ、お腹すいたー! 焼肉行こうよ焼肉!」
「ちょっと繭、朝から重いわよ。せめてお蕎麦にしなさい」
「えー! じゃあ牛丼! 特盛!」
 きゃあきゃあと騒ぎながら、彼女たちは駅の方へと歩き出す。
 すれ違う通勤客たちは、誰も知らない。
 この華奢な背中が、昨夜、日本の経済危機を救い、一晩で数億円の情報を動かし、そして命がけで国を守り抜いたことを。
 彼女たちは名乗らない。称賛も求めない。
 ただ、この街の平和という結果だけを残して、朝霧の中へと消えていく。
 アゲハは一人、店の前に残った。
 看板の「Club 胡蝶」のネオンを、パチンと消す。
 そして、静かにシャッターを下ろした。
 ガラガラガラ……。
 重い金属音が、昨夜の伝説を封印していく。
 アゲハは空を見上げた。
 今日もまた、夜が来れば店を開ける。
 男たちが夢を求め、秘密を抱えてやってくる限り、蝶たちは舞い続けるだろう。
 
「……また今夜、この迷宮でお待ちしております」
 アゲハは小さく呟くと、凛とした足取りで歩き出した。
 その背中に、朝日が降り注ぐ。
 伊賀幕府の影に咲く、一輪の黒百合。
 紅の忍法帖、外伝。これにて、閉幕。
 (完)
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