拗らせた恋の行方は

山田太郎

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突きつけられた距離

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 そのことに浩司が気がついたのは、年の瀬も差し迫った十二月も末に近い日のことだった。
「……ん?」
 仕事納めまでもう少しということで、今年取引を行った請求書の写しをパラパラと確認していた最中のことだ。浩司はふとそのうちの一枚に小さな違和感を覚え、書類をめくる手を止めた。気になったのは、ちょうど加賀たちと共に取り組んでいる合同プロジェクトの請求書だ。請求自体はもうすでに通っていて、年始から作業ができるよう部品の発注も行われているはずだった。
 値段の欄を上から下まで見てみるが、きちんと正しい値になっている。気のせいかとも思ったが、なぜおかしいと思ったのかが気になってその表と最終の見積書を引っ張り出してきて見比べる。やはり値段は合っているのだがーー。
「あ……」
 浩司はゆっくりと瞬きした。頭の中は冷静なのに、心臓だけがドキドキと鼓動を早めていくのがわかる。目の前のパソコンを動かして見積書のフォルダを開く。ざっと並ぶフォルダの中で、最新のものとその一つ前のファイルを開け、数字を確認する。何かの間違いなのではと思ってもう一度端から確認したが、間違いない。部品の発注数が、足りないのだ。
 それを理解した瞬間、浩司は真っ先に発注先の業者の電話番号を確認して電話を掛けた。社内は節電の関係でやや肌寒いのだが、脇にじっとりと汗がにじむ。数回のコールでプツリと相手と繋がった瞬間、助かったと思った。今ならまだ無理を言えば年始の作業に間に合わられるだろうと。
『〇〇○でございます。ただいまの時間は営業時間外でございますーー』
「っ、クソッ!」
 聞こえてきたのは無情な電子音だった。営業日を確認すると、ちょうど昨日から年末休みに入ったようだった。浩司は受話器を戻し、唇を噛む。心臓はうるさいほど音を鳴らしていて、胃の腑がひっくり返って口から出てきそうだと思った。
 足りないのは最後に安藤に見積書の変更を頼んだ部品だった。おそらく、見積書を作成した計算ファイルが以前の数字を記憶しており、値段の変化を発注数にまで反映していたのだ。何度も変更があった部分であり、数字の羅列が多すぎてそこまで気が回らなかったのだろう。安藤に確認を取りたかったが、今はちょうど取引先との年内の挨拶に出ていて不在である。
 浩司は請求書と見積書を引っ掴み、ガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。何はともあれ、まずは加賀に知らせなければならない。浩司は青ざめながら革靴を踏み鳴らし、技術部へと急いだ。
 呼び出しを受け、廊下で浩司からの説明を聞いている間、加賀は腕を組んだまま表情を変えずに壁に寄りかかっていた。その目の下にはうっすらと隈が浮かび上がっている。年末が近くなってから技術部の忙しさはかなり増しており、最近は浩司も加賀と会えていなかった。こんなに忙しい時期だというのに、自分の失態のせいでさらに加賀の手を煩わせることになる。だが、そんなことは言っていられなかった。部品が足りず、納品できないなんてことになれば、浩司だけの責任ではない。取引先にも大きな迷惑をかけることになるし、社の信用を落とすことにも繋がるのだ。
 ぴくりとも反応しない加賀に、ことの経緯を話しながら、浩司はだんだん加賀の目を見ていられなくなった。俯いて視線を落とし、深々と頭を下げる。
「すまない。俺の責任だ。一から確認するべきだった」
 確認はした。したが、修正箇所がきちんと直っていたので、ずらりと並んだ表の隅から隅まではざっと流し見ただけだった。いや、そんなのは言い訳でしかない。浩司は今までこれほど大きなミスを犯した事はなかった。それは幸運だったのもあるが、毎回しつこいほど確認を行なっていたからだ。自覚はなかったが、加賀のあの言葉を聞いてから、浩司はきっと浮かれていたのだ。加賀に合わせる顔がなかった。
 下を向いた浩司の上で、はあとため息をつく音が聞こえた。浩司はぎゅっと掌を握りしめ、叱責の声に耐える準備をする。
「悪かったな」
 しかし、降ってきたのは謝罪の声だった。目を見開く浩司の肩を、加賀がぽんと叩く。
「顔、上げろ。お前だけの責任じゃない。俺だって請求書は確認したが、そこまで見れていなかった。他の部のやつらだってそうだ」
「しかし…」
 請求書に責任を持つのは営業の仕事だ。尚も言いつのろうとする浩司を押さえ、加賀は真剣な顔で言う。
「しかしもクソもない。俺たちの責任だ。工場は開いてなかったんだな? 他のプロジェクトから回してもらえないか、こっちで確認してみるから、お前はまず他の部のリーダーにこのことを説明してくれ」
 加賀の台詞にはそれ以上の謝罪を許さない響きがあった。浩司は感謝の念を込めて、もう一度深々と頭を下げた。
「ありがとう。頼む」








 結論から言うと、部品は間に合った。しかし、それは取引先の別のプロジェクトから回してもらったものだった。
「この度は、本当に申し訳ありませんでした!」
 取引先との年始の打ち合わせの場で、浩司と加賀は揃って深々と頭を下げて謝罪した。あの後色々なところを駆けずり回ったのだが、社内で調達できる分だけではどうにもならないということが判明しただけだった。浩司の上司が話を聞き、苦渋の判断で取引先に相談することにしたところ、呆気なく別のプロジェクトでこれから使う予定だった部品を回してもらえたのだった。
 間に合ったからと言って失態がなくなったわけではない。自社のみで解決できなかったことで、少なからず信用も落とした。浩司はチームリーダーを下されても文句は言えないと思っていた。俯く浩司たちに、会議室の端に座っていた気の良さそうな眼鏡をかけた壮年の男性がまあまあと笑って声をかける。
「大事にならんかったんやからそない気にせんといてもろて。そちらさんがようやってくれてはるんは知ってますし、これから頑張って貰えたらこっちとしては全然構いませんのでね」
 男性がそう言うと、周囲に座っていた面々も次々に同意する。彼が部品を融通してくれた、向こうの会社の技術部のリーダーだった。一番迷惑をかけられた人が快く浩司たちの失態を許したことで、場の雰囲気がかなり緩む。ただそれは、中央に座っていた恰幅の良い女性が口を開いた途端にぴたりと止んだ。
「ええ、ほんまに。困ったときはお互い様や言うしねえ…」
 浩司はゴクリと唾を飲み込んだ。彼女は以前飲み会で同席した、加賀を気に入っている役員であった。この場では彼女が断トツで偉い。本来ならこんな一会議に出席するような立場ではないはずなのだが、なぜ同席しているのか、不思議に思うとともに何かあるとは覚悟していた。他のリーダーが許しても、彼女の一声で浩司の首は吹き飛ぶのだ。
 しかしそんな浩司の思いとは裏腹に、彼女の表情はにこにこと明るい。今回のミスはしょうがなかった、大事なくてよかったと言う趣旨の話をした後、彼女はこう続けた。
「せやけど、うちもちょっと困ったことになってましてねえ。腕のいいエンジニアが一人、退職してしまいはったんです」
 その視線は加賀の方を向いていた。その瞬間、その場にいた誰もが彼女の言いたいことを理解した。要は、今回のことを不問にする代わりに、加賀を引き抜こうというのだ。
(しまった……)
 浩司は内心で唇を噛んだ。加賀を連れてくるべきではなかった。いや、連れてくるべきではあったのだが、加賀と二人きりで来るべきではなかったのだ。この場では加賀の方が歳上で、責任を持っている立場である。浩司が割り込んで取り成すこともできない。
「そうなんですか。それは大変ですね」
「そうなんですよ。このままやったらおたくのとことの取引もスムーズにいかんのやないかと思って、ヒヤヒヤしてます」
 しかも来ないのであれば今後の取引を打ち切ってもいいのだぞという脅しまでかけてきた。加賀はいつもと変わらない様子で受け答えしているが、明確に言われない以上、断ることもできない。結局保留という形にまでは持って行ったが、遠くないうちに正式にヘッドハンティングの申し込みがあるだろうということは容易に想像できた。そして、それを断わる力が浩司たちの会社にないということも。
 実のない話し合いの後、浩司たちはビルから出て駅へと歩き出した。辺りはすっかり暗くなっており、街灯がポツポツと灯っているのがそこかしこに見えた。二人は黙りこくって歩いていたが、浩司は我慢できずにポツリと呟いた。
「………行くのか」
「うーん。断れないだろうなあ、あれは」
 加賀はなんでもないことのようにそう言った。浩司は思わず加賀の方を振り向いたが、何も言えずに俯いた。加賀とは会社の話はあまりしなかったが、今の職場を気に入っていて、仕事にも満足しているという話は聞いたことがあった。
「……すまない」
「は?」
「俺のせいだ。俺がちゃんと確認していれば」
 浩司は唇を震わせてそう言った。白い息が薄闇に溶けて消える。加賀は浩司の台詞に驚いたように振り向き、顔をしかめた。
「おいおい、何言ってるんだ。俺たちのせいだって言ったろ」
「でも!」
 尚も言いつのろうとする浩司の肩を、加賀は優しく押しとどめ、その腕を掴んだ。
「でもじゃない。今回のことは俺たちみんなの責任だ。お前だけのせいじゃない」
 加賀にそう言われて、浩司はもう何も言えなくなった。自分のせいじゃないといくら言われても、加賀は浩司のせいで今の会社を辞めなくてはならないかもしれないのだ。先程の、女性役員の舐めるような視線を思い出す。あんな人のもとへ、加賀を送り出したくない。あの会社に行って、加賀がどんな目に遭うのかなんて、火を見るよりも明らかだ。浩司は子供のように頭を振った。
「行くな……」
 発した声は震えていた。加賀は大きな目を見開き、浩司のことを凝視していた。ここでやめなければならない。これ以上は引き返せなくなる。そう思うのに、浩司の口はとまってくれなかった。
「行かないでくれ……」
 情けない、縋り付くような声が口からこぼれ落ちる。視界が大きくにじみ、浩司の目から涙がこぼれ落ちた。


「あんたのことが、好きだ……」


 そこだけ時が止まったかのようだった。薄暗い路地の中、街灯に照らされてそこだけが明るかった。ずいぶんと長い間加賀は黙っていたが、そして、ゆっくりと浩司の腕を掴んでいた手を離した。
「そうか」
 浩司を見る加賀の顔は、ぞっとするほど冷たかった。
「じゃあお前とはお別れだな」
 加賀はそう言ってくるりと踵を返した。浩司は呆然とその背中を見つめた。

「言っただろ。恋人にはしてやれないって」
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