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可愛い本には旅をさせよ

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可愛い子には旅をさせよ。
日本古来より存在する有名な諺である。
自分の子供が可愛いのであれば、1人旅へと送り出し、艱難辛苦、相互扶助、一宿一飯等、喜怒哀楽に関わる事をその身に経験させ立派な大人へと成長させよと言う意味である。
自身も両親に恵まれ、幼き頃より千尋の谷(集団社会)に放り込まれて此の身に人間として必要な経験思考を蓄えて来た。御蔭で今、大人社会に片足を突っ込める程度には成長した。だから両親には足を向けて寝る事ができないのである。

此の事は本にも当て嵌まるのではないだろうか。
可愛い本には旅をさせよ。
自身が生み出した本ではないが、自身が一目惚れし、はたまた何と無く手に取り愛読した本はまさしく我が子のようなものである。
大抵の人は我が子を増やし続け、大所帯を成し、其れ等を養うための宿を購入・増築するのである(自分も漏れなくその一人)。図書館等で借りれば良いではないかと言う声もちらほら聞こえてきそうであるが、やはり我が子に迎え舐めるように隅々まで見回したいので耳を閉じてしまおう。図書館で拝借してきて決められた期間内を共に過ごし、別れを惜しみながらも手放さなければならない歯痒さを味わう(レンタル彼氏/彼女を想わせる)のも一興ではあるが。

本は人に読まれる度にアジを得て行くものだと私自身感じている。
革製品や服と同じで、それを可愛がった人の温もりや生活感、使用感等が本を成長させて行くからだ。表紙やページの擦り切れ、色褪せ、紫外線や皮脂による変色。同じ本だとしても、一度人の手に渡れば多様な個性が現れ、異なる本と成る。山田くんが持つ「\」という本と、桜木くんが持つ「\」という本は別物である。世界に二つとない愛子が誕生するのである。そして気持ちが落ち着いた頃、宿に落ち着かせ再び愛でる時が来るまで眠らせるのだ。眠りの最中に被った埃や湿気が、出汁となって味に深みを持たせる。
しかし、此のアジの深みには自身のみでは限界がある。例えば昆布で出汁を取ったら昆布の味しかしない。昆布で出汁を取ったのに椎茸や煮干しや貝類の味がするなんて事は、あり得ない。それと同じ様に、何れだけ自分がその本を愛でてアジを深めようと、コーヒーを零して染みが出来ようと、全部自分のアジなのだ。
では、どうすれば椎茸や煮干しや貝類の出汁が染み込むのだろう。

旅だ。

自身が愛でて育てた本を、旅に出すのだ。

それは良い旅かもしれないし、悪い旅かもしれない。旅路は誰も解らない。

それでも、アジが染み込む。

違う部屋で違う角度で浴びる日差し、湿気、空気。異なる人の皮脂、汗。零された菓子、飲み物の染み。雨水。動物の涎。
そして、新な宿主の新たな視点。

全部出汁となって染み込んでゆく。

自身だけでは出す事ができない出汁だ。
色々な人の「アジ」が染み込むことによって千変万化し、色気を増して行く。
人も本も同じである。

送り出した本が、いつか巡り巡って手元に戻ってきた時、それは初めて手にした時よりも一層輝きを増し、可愛く見えるはずである。

私自身、未だ我が子を送り出した事はないけれども。




【追記】
古本屋で出会う小説の良いところ、面白いところ、楽しいところ。
それは前に誰かがこの本を読んでいて、思考を巡らせていて、感情を巡らせていて、自分とは異なった視点で読んでいる、ということ。
本に呼ばれる者たちが老若男女隔たりがないこと。
特に難しい小説に関しては身の入れ方が千差万別であること。

古本屋で買う長編小説には、メモ書きが挟まったままの物がよくある。そのメモ書きを見て、思いを馳せる。字体から自分と同じくらいの子かな、爺ちゃんと字が似てるから70過ぎくらいの人かな。少し覚束ない筆跡だから中学生くらい?なんて。自分より若い人の筆跡であれば、感嘆する気持ちを抱く反面、どこか悔しい様な先を越された気持ちになることがある。

メモ書きが挟まったままの小説を見つけた時、心が少年に戻って宝物を探し当てた気分になる。
何処かの誰かが読んだと言う確たる証拠。後読者宛のメッセージ。
これを手にした私たちは、新たなメッセージと共に新たな人の下へと送り出さなければいけないのかもしれない。
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