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序章
序、ロン・ツーエンの帰還
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【玲眠の真珠姫】
序、
海は等しく麗しく――等しく残忍だ。
その夜は波も穏やかで、長き旅路から戻った彼を歓待しているように思えた。
海底に聳え立つ竜宮の奥深く、本宮から切り離された離宮には巨大な水晶球が鎮座していた。水晶の中は海水で満たされ、完全なる封印とされている。
その中では、胸に剣を突き立てられ、水の揺らぎに揺蕩いながら一人の女が眠っていた、剣には何重にも鎖がかけられ、彼女は腹の上で手を組んで眠っている。
彼女の手の上には、貝殻の皿に乗せられた薄桃色の真珠が乗せられていた。
水晶に隻眼の青年が近づく。黒地に朱色で縁取られた短袍に、黒い下衣。腰には片方がスカートのように短く、反対側が膝丈の三つ留の腰巻に刀と短剣を携え、編み上げの靴子を履いていた。背中に斜め掛けの革袋を背負っている様子から、旅からの帰りだと推測できる。
彼は水晶に手を付いて揺蕩いながら覚めない眠りにつく彼女を見上げた。
「……ロン・ツーエン、ただいま仙界より帰還致しました。セツカ姫様」
コポコポと水の音だけが反響する白い陶床に覆われたドーム型の離宮には、侍女どころか、この宮を護る衛兵の姿すらない。
たとえ居たとしても、そろそろ子の刻になる。殆どの者は夢の中だろう。今のロンにとっては好都合だった。
ロンは黒地に赤で縁取られた短袍の懐に手を入れて、小さな巾着袋を取り出し、慎重に中身である芥子色の練香を掌に転げ出した。
「俺程度の術士が、どこまでできるか解らんが……やれるだけはやってみよう」
ロンは、革袋から赤瑪瑙の小さな香炉を陶床の上に置いて、香炉に練香を入れ焚き始めた。
人差し指の先を歯で食い破り、血で陶器床に呪を唱えながら陣を描く。
陣を描き終えたら、胡坐をかいて印を切り結び、香炉の煙を薙ぐ。
「――清き眠りの底から殻を破れ!! 急々如律令!!」
汗をだくだくとたらし、荒い呼吸をしながらロンは姫を見上げたが、なんの変化も見られない。
「……やはり、たった二十年の修行では意味をなさないか……」
身体がひどくだるい。これだけの力を使っても破れない封印にロンは大きなため息を吐いた。
「ようやく帰ったと思うたら、まさかセツカの封を破る気だったのか。驚いたぞ」
厳かな壮年の男の声にロンは、急いで振り返る。
白地に濃紺の格子柄を縫い取った襟の直裾袍に黒い褙子を纏った老紳士が足音もなく、ロンに近づく。
「――こ、これは、龍王様!! 本来ならば真っ先にご挨拶に向かうべきところを、申し訳もございません!!」
「よい。時刻に配慮してくれたのであろう? 事実、儂は寝所より参った。しかし、仙界への留学はセツカを甦らせる為であったとは……。創世より続く二十一代龍王家の歴史に於いて、最強にして最高の術士と謳われたこの姫の封じは、竜宮が滅びようとも続くほどに強力じゃ。下手をすれば、其方の命が危ういぞ、ロン・ツーエン」
ロンは跪礼のまま、隻眼を瞑り小さく「……己の未熟さを、痛感しております」と拳とそれを覆うように被せた手を龍王に掲げた。
「……先の大戦より五百年。文字通り、全力を竜宮の為に、ひいては龍神族の為に使い果たしたこのお転婆娘は、儂が呼びかけようともうんともすんとも言わぬ。まだ力が戻らぬのか、それとも心を閉ざしているのかを知るは、セツカのみ。其方には酷なことをした……許せとは言えぬ」
水晶に手をついたまま、ひざまずくロンに龍王は哀しく微笑む。ロンは弾かれたように顔を上げた。
「とんでもございません!! 王はこの醜い左眼のせいで、両親のみならず縁者すべてに見放された私に手を差し伸べてくださいました。斯様な大恩を受けて感謝こそあれ……私が、分不相応な想いを姫に――義姉上に叶わぬ想いを抱いてしまったせいでございます……」
「そう自身を卑下するでないよ。セツカの性格は、付き人であった其方がよく知っておろう。聡明にして慈悲深く、堅牢な心を持ちながらも謙虚で璃々としていた。儂の自慢の姪じゃ。この娘を産んで儚くなったわが妹の忘れ形見。想い合う其方らを見守っていながら、姫を戦の最前線に立たせねばならぬ状況を招いたのは、儂の失態に違いない――のう、ロンよ」
「はい」
「口ばかりやかましい長老どもは、儂が黙らせておく。今宵、其方が仙界から帰ったことも秘しておこう。其方には、ひとつ命を下す。儂の願いと言い換えてもよい」
「他ならぬ龍王様の命なれば、なんなりとお申し付けください」
龍王は「うむ」とひとつ頷くと、また水晶に視線を戻した。
「儂の推論でしかないが、セツカが目覚めぬは、大戦で弱った龍脈に自身の魔力を注ぎ、この竜宮の柱となっているせいであろうな。この娘の気性ならやりかねん。魂を真珠に封じ、肉体から宝剣を通して海と竜宮を支えている。ゆえに、ロンよ。地上に行き、空を司る神龍の空石と、地上に住まう龍人族の肉石を持ってきて欲しい。どちらも停戦中の間柄だ。交渉は困難を極めよう――やってくれるか?」
「謹んで拝命致します。龍王様とセツカ姫の為に、必ずや宝玉を持ち帰りましょう。密命なれば人目につかぬが吉。私はこのまま再び竜宮を出ます」
「うむ。儂はここで其方の安全を願うとしよう」
「ありがたき幸せ――では、御前を失礼致します」
ロンは立ち上がり、革袋を背負い直すと、再び王に礼をして離宮を後にした。
これから彼を待ち受ける試練に命など惜しくはない――初めて俺の手を取ってくれた愛しい貴女様の為ならば。
続...
序、
海は等しく麗しく――等しく残忍だ。
その夜は波も穏やかで、長き旅路から戻った彼を歓待しているように思えた。
海底に聳え立つ竜宮の奥深く、本宮から切り離された離宮には巨大な水晶球が鎮座していた。水晶の中は海水で満たされ、完全なる封印とされている。
その中では、胸に剣を突き立てられ、水の揺らぎに揺蕩いながら一人の女が眠っていた、剣には何重にも鎖がかけられ、彼女は腹の上で手を組んで眠っている。
彼女の手の上には、貝殻の皿に乗せられた薄桃色の真珠が乗せられていた。
水晶に隻眼の青年が近づく。黒地に朱色で縁取られた短袍に、黒い下衣。腰には片方がスカートのように短く、反対側が膝丈の三つ留の腰巻に刀と短剣を携え、編み上げの靴子を履いていた。背中に斜め掛けの革袋を背負っている様子から、旅からの帰りだと推測できる。
彼は水晶に手を付いて揺蕩いながら覚めない眠りにつく彼女を見上げた。
「……ロン・ツーエン、ただいま仙界より帰還致しました。セツカ姫様」
コポコポと水の音だけが反響する白い陶床に覆われたドーム型の離宮には、侍女どころか、この宮を護る衛兵の姿すらない。
たとえ居たとしても、そろそろ子の刻になる。殆どの者は夢の中だろう。今のロンにとっては好都合だった。
ロンは黒地に赤で縁取られた短袍の懐に手を入れて、小さな巾着袋を取り出し、慎重に中身である芥子色の練香を掌に転げ出した。
「俺程度の術士が、どこまでできるか解らんが……やれるだけはやってみよう」
ロンは、革袋から赤瑪瑙の小さな香炉を陶床の上に置いて、香炉に練香を入れ焚き始めた。
人差し指の先を歯で食い破り、血で陶器床に呪を唱えながら陣を描く。
陣を描き終えたら、胡坐をかいて印を切り結び、香炉の煙を薙ぐ。
「――清き眠りの底から殻を破れ!! 急々如律令!!」
汗をだくだくとたらし、荒い呼吸をしながらロンは姫を見上げたが、なんの変化も見られない。
「……やはり、たった二十年の修行では意味をなさないか……」
身体がひどくだるい。これだけの力を使っても破れない封印にロンは大きなため息を吐いた。
「ようやく帰ったと思うたら、まさかセツカの封を破る気だったのか。驚いたぞ」
厳かな壮年の男の声にロンは、急いで振り返る。
白地に濃紺の格子柄を縫い取った襟の直裾袍に黒い褙子を纏った老紳士が足音もなく、ロンに近づく。
「――こ、これは、龍王様!! 本来ならば真っ先にご挨拶に向かうべきところを、申し訳もございません!!」
「よい。時刻に配慮してくれたのであろう? 事実、儂は寝所より参った。しかし、仙界への留学はセツカを甦らせる為であったとは……。創世より続く二十一代龍王家の歴史に於いて、最強にして最高の術士と謳われたこの姫の封じは、竜宮が滅びようとも続くほどに強力じゃ。下手をすれば、其方の命が危ういぞ、ロン・ツーエン」
ロンは跪礼のまま、隻眼を瞑り小さく「……己の未熟さを、痛感しております」と拳とそれを覆うように被せた手を龍王に掲げた。
「……先の大戦より五百年。文字通り、全力を竜宮の為に、ひいては龍神族の為に使い果たしたこのお転婆娘は、儂が呼びかけようともうんともすんとも言わぬ。まだ力が戻らぬのか、それとも心を閉ざしているのかを知るは、セツカのみ。其方には酷なことをした……許せとは言えぬ」
水晶に手をついたまま、ひざまずくロンに龍王は哀しく微笑む。ロンは弾かれたように顔を上げた。
「とんでもございません!! 王はこの醜い左眼のせいで、両親のみならず縁者すべてに見放された私に手を差し伸べてくださいました。斯様な大恩を受けて感謝こそあれ……私が、分不相応な想いを姫に――義姉上に叶わぬ想いを抱いてしまったせいでございます……」
「そう自身を卑下するでないよ。セツカの性格は、付き人であった其方がよく知っておろう。聡明にして慈悲深く、堅牢な心を持ちながらも謙虚で璃々としていた。儂の自慢の姪じゃ。この娘を産んで儚くなったわが妹の忘れ形見。想い合う其方らを見守っていながら、姫を戦の最前線に立たせねばならぬ状況を招いたのは、儂の失態に違いない――のう、ロンよ」
「はい」
「口ばかりやかましい長老どもは、儂が黙らせておく。今宵、其方が仙界から帰ったことも秘しておこう。其方には、ひとつ命を下す。儂の願いと言い換えてもよい」
「他ならぬ龍王様の命なれば、なんなりとお申し付けください」
龍王は「うむ」とひとつ頷くと、また水晶に視線を戻した。
「儂の推論でしかないが、セツカが目覚めぬは、大戦で弱った龍脈に自身の魔力を注ぎ、この竜宮の柱となっているせいであろうな。この娘の気性ならやりかねん。魂を真珠に封じ、肉体から宝剣を通して海と竜宮を支えている。ゆえに、ロンよ。地上に行き、空を司る神龍の空石と、地上に住まう龍人族の肉石を持ってきて欲しい。どちらも停戦中の間柄だ。交渉は困難を極めよう――やってくれるか?」
「謹んで拝命致します。龍王様とセツカ姫の為に、必ずや宝玉を持ち帰りましょう。密命なれば人目につかぬが吉。私はこのまま再び竜宮を出ます」
「うむ。儂はここで其方の安全を願うとしよう」
「ありがたき幸せ――では、御前を失礼致します」
ロンは立ち上がり、革袋を背負い直すと、再び王に礼をして離宮を後にした。
これから彼を待ち受ける試練に命など惜しくはない――初めて俺の手を取ってくれた愛しい貴女様の為ならば。
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