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伍
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伍、
あれほど探しても得られなかった弟の消息を、狐面の師は握っていると兎貴に聞いた。
零れ落ちそうに目を見開いて、息を切らせて茶室に向かう。
狐面は「生きてても『生きているだけ』かもしれん」と言った。しかし、それでもあの陰陽師の手によれば、救いはあるのだと。紫苑は深呼吸をして、廊下に座り、声をかけた。
「紫苑です。お呼びでしょうか? 参りました」
「入っておいで」
狐面の声は端的だった。嫌でも暴れる心臓を押さえて、そっと襖を開けた。
「紫苑、弟さんの居場所と状態をお師匠はんが話してくれるよって」
「は、はい」
紫苑は兎の兎貴が差し出してくれた座布団に礼を言って腰掛けた。狐面の隣に座布団を敷いてくれたのがありがたい。正面に向き直った清明は、すっかり足を崩して胡坐を掻いていた。
「さて困った。なにから話そ……」
清明は紫苑を見ると眉尻を下げた。その意味が解らなかったが、紫苑は淀みなく「可能であれば、私と別れてからを順番にお話し頂けたらと思います」と口を開いた。
「ん、解った。お前も、ええんやな?」
なぜか狐面に許可を求める。紫苑はそれに違和感を覚え、隣を見やった。
「僕は構へんよって。――全部話したって下さい」
「なら、長なるけど」
清明はそう前置きして語り始めた。
◇
紫苑と別れてから弟――最澄はわざと里の追手に捕えられ、一旦は里に戻った。父は既に遺骸となり、里長の隣に吊るされていた。
「娘はどうした!?」
「こいつが逃がしやがった――おい、姉貴はどこに逃げたのかを言え!!」
思い切り腹を蹴られ、最澄は強烈な嘔吐感を感じたがなんとか吐くことは止まり、「言います……から、里の連中全員集めてよ」と掠れた声で告げた。
周囲は公開処刑だと騒ぎ立ち、最澄は絞首台に引き立てられ、里をぐるりと見渡す。おおよその人数を目算で数えると、髪を鷲掴みにされて「さあ、吐け!!」と責められた。
しかし、この瞬間に最澄はにやりと笑い、渾身の力で風を呼び、巨大な竜巻を起こした。
竜巻は平たい刃物のように次々と里の者の首を跳ね、身体を切り裂く。
縄が切れ、最澄の力も尽きた時、彼はおびただしい血の海に立っていた。不思議と後悔はないそれどころか、これで姉と自らを脅かすものはいないという高揚感さえ湧き上がる。
「は……ざまあみ、ろ。……ま、僕も所詮は、風魔なんだな……」
自嘲し、せめて最後の力で峯尚山まで向かった姉のところに飛ぼうとしたが、唐突に眼の前が闇に覆われてその場に倒れた。
意識を取り戻したのは、つい最近のことだった。瞼が開かないどころか、聴覚しか生きているものが無かった。これでは風が呼べない。姉との約束があるのにと焦るばかりだ。そこへ聞こえてきたのは複数の男女の声だった。
「まあ……本当に髪が真っ白。これが風魔の最後の一人ですの?」
「左様。捕えられたのは本当に運が良かった。こうして氷の中に封じていれば、力はおろか、歳を経ることもない。どうです? 今夜の競りの目玉としては最高級の品かと思いますが」
「ええ、ええ、それはもう!! 子供達への出資金にも困ることはないでしょう。本当になんと素晴らしい……」
話の内容から判断するに、どうやら自身は人間の子供達への援助金目的の競売にかけられるとの
ことだった。人間でなければ最澄も充分子供の部類に入るはずだ。
しかし「人間でない」というだけで、この扱いの差はなんだと最澄は声高に叫びたかった。一族だけが敵だと思っていたが、自身が随分と狭い世界に居たのだと実感させられた。ぶつけようのない怒りはやがて不安へと変わる。
――では、今、姉さんは?
この人間達は、最澄だけが風魔の生き残りだと言った。ならば姉は死んでしまったという可能性が高い。せめて眼だけでも開けられれば外の景色から季節が判断できるのに口惜しいことこの上ない。
そして、何もできないまま最澄は狂乱のような競売にかけられた後、かわるがわる人間達の好奇の視線に晒されている。あれほど煮え滾っていた怒りも消え失せた。今は永劫変わらないこの状況の中で薄れていく感情に身を任せている。
◇
語り終えた清明はふうと一息吐いて白湯を所望した。狐面が茶釜から新しい茶碗に白湯を入れて渡す。紫苑は話を聞き終えると、唇を噛み締めて勢いよく立ち上がった。その手を咄嗟に隣の狐面が握り、制止をかける。
「旦那様、離して下さい……!! 弟が……!!」
「あかん。まだ話は終わっとらへん。君の弟さんを封じた男の正体が解らんやろ。それにのこのこ
と策もなく出て行ったら、君まで弟さんの二の舞や」
正論である狐面の言葉に紫苑は、震える拳はそのままに、すとんと腰を座布団の上に落ち着けた。
「やれやれ……風魔の特性なんか、直情的やな。まずは弟、最澄を捕えた男から話そか」
白湯で喉を潤した清明は碗を弄りながら再び語りを再開した。
「あれは賀茂景道。陰陽師を多数輩出してきた賀茂家のもんや。血が薄れて陰陽師や呪術師の存在は少のうなったが、あれはその中でも異色の能力者やな。風魔の里だけやのうて『裏』に属するもんの里や縄張りは何かしらの護りで、通常なら人間は踏み込めんし、眼にも映らん。しかし、最澄が里人を皆殺しにするために大竜巻を起こしたせいと結界を張っとった祭祀まで殺してしもうたんが仇になった。景道の侵入を許したのはそのせいやろ」
一族全てを葬った咎のように最澄は人間に捕えられ、珍獣が如く見世物にされている。一刻も早く助け出したい。紫苑は焦れて口を開いた。
「清明様、弟は現世のどこに収められているのですか? 競売に掛けられた、とのことでしたが、この鞍馬山よりも遠いところですか?」
「急きな。安心しい。京には居る。鞍馬よりは離れとるが、景道と連れ立っとった女がおったやろ? あれが経営しとる小さい博物館や。あそこの収益は人間の子供の支援金集めが目的にしとる。最澄を飾っとったこの数カ月で、もう元手は取り返したやろ――取り返しにいくなら警備が手薄な夜に行き」
また白湯を一口飲み、清明は紫苑にひらりと一枚の呪符を投げた。
「お守りや。連れて行くのは狐やのうて兎貴の方がええ。封印は帰ってきたら私が解くよって」
「ありがとう……ございます……!!」
紫苑は呪符を抱いたまま、清明に深く頭を下げた。清明はどこか哀しい眼で、紫苑の頭を撫でる狐面を見やった。
無味無臭のはずの白湯から、なぜか塩の味がほのか感じた気がした。
◇
清明から貰った呪符を手にし、すっかり雨が止んだ中庭の床几の上で日が暮れるのを待っていた。雨は止んだが、土に残った雨の匂いは逸る心を僅かながら鎮めてくれる。やっと、やっと弟に逢えると思うと低く垂れこめている雲間から見える太陽が憎らしかった。
そんな紫苑の隣に、音もなく狐面が腰掛けた。
「……良かったなあ」
「すべては旦那様や皆さまのおかげです。……私は、ただ白砂の庭に居ただけ。感謝が言葉では言い尽くせません」
「なんで紫苑はそんなに卑屈になっとるんやろ。君があんなに一生懸命に毎日働きながら、川を覗いてなかったら僕も誰も動かへん。自信持ちい。君が僕らを動かしたんや」
しばしの逡巡の後、紫苑は「はい」と目を伏せて小さく頷いた。
「それにしても寂しなるなあ」
「え?」
「弟さんが目覚めたら、君らはここを出て行く。新しい住処は、先生が世話してくれるよう頼んどいたで。安心して、また二人で幸せに暮らしや」
――狐のその言葉に、紫苑は首を絞められたかのように呼吸を忘れた。
「ここは仮初の宿」と何度も耳にしていたのに、どこか他人事のようにそれを実感していなかった。だが、弟の消息が明確となり、今後の生活が現実的なものとなった途端に自身も『迎賓館』の客体であったと解り、眼の前が真っ暗になった。
どれだけ仕事に精を出そうとも自身の本名は『空海』で、紫苑ではない。決して『迎賓館』の一部にはなれない。カラカラに乾いた喉で、紫苑は太陽を見上げる狐面の横顔に震える声で尋ねた。口から心臓が飛び出しそうなほど激しく脈動している。
「……と、時折、訪ねてきてもよろしいでしょうか?」
狐はゆるく首を横に振った。
「あかん。君らが出て行ったら、白砂の庭への道は閉じるよって」
「……ど、どうしてですか……?」
「もう君らには、仮初の宿も、過去を振り返る必要もないからや。未来だけを見つめるんや」
どこまでも突き放す狐の言葉に、紫苑はとうとう耐え切れずに涙が溢れてきた。とめどなく流れるそれを、狐面はいつかのように優しく拭ってはくれない。
「わ、私、なにか……お気に障ることをしましたか……?」
「なんも。むしろ、よう働いてくれた。楽しかったよ、君と居る時は」
「では、なぜ……もう逢っても下さらないのですか!? 私、なんの御返しもしてません……!! ただ旦那様達に護って頂いただけです……」
「紫苑――いや、空海やったか」
いちいち勘に障る物言いばかりする狐面に紫苑は、彼の単衣に縋りついた。まるでこの憲法黒のように彼の心の内が見えない。
「私には青は似合わぬとおっしゃったのは旦那様ではありませんか!! やめてください!!」
「せやかて、これからは偽りの名を名乗らなくても生きていけるんや」
「そうじゃない、そうじゃないんです……!! どうして……? お嫌いになったのなら、そう言ってください。……期待ばかり、持たせないで……!!」
「嫌いやないよ。――君を嫌えるわけあらへん。なにがあっても、君を嫌うことなんかできひんのや」
「ずるい……旦那様のお考えが解りません。嫌われてもいないのに逢っても頂けないなんて……これなら、これなら最澄が見つからなかった方が」
乾いた音が中庭に響いた。ひりひりと痛む右頬が熱い。
こんな時に正面から対峙するなんて、と紫苑は痛む頬を押さえた。
「それ以上は言うたらあかん。絶対にや」
「……お慕いしているんです」
わななく唇が、勝手に秘めたはずの淡い想いを紡いだ。
「旦那様を、お慕い申し上げているのです……!! 弟すら忘れるくらいに!! だから、もう逢えないのは嫌です……!!」
子供のようなわがままを言っているとは解っている。これでは狐を困らせるだけだとも。
――けれど、紫苑の意に反して狐面はただ一度だけ紫苑を強く抱きしめた。今日も狐面からは甘い白檀の香りがした。
「……僕も紫苑が好きやで。でもな、僕はあかんのや……」
なぜ、と紫苑が口を開きかけたら、まるで罪を犯したかのように紫苑を離して狐面は颯爽と中庭から最も近い茶室の襖の向こうへと速足で逃げ込んだ。訳が解らない紫苑は、何度も狐面が彼女を拒否するように締め切った襖を叩いた。
「……ごめんなあ、紫苑……僕は、僕だけはあかんねん……僕は……」
襖の向こうからは狐を呼ぶ彼女の泣き声が聞こえていた。カラン、と高い音を立てて、狐は面を外した。手で目を覆い隠しても漏れい出る雫は止まらなかった。あんな風に声を上げて泣ければ良かった。
たった一枚の薄い襖は、天の岩戸のように舞を披露したところで決して開いてはくれないだろう。これは狐の心そのものなのだから。
◇
子の刻となった。
昼間の清明の言葉通り、紫苑は人間になった兎貴と共に白砂の庭に立った。
「扉は五分も持たん。それ以上はバレてしまうよってなあ」
「はい」
瞼を真っ赤に腫らした紫苑と姿を見せない狐については、二人は承知の上なのだろう。言及されなかったのはありがたかった。
「ほな――開門」
清明が開いたのは鳥居ではなく、死期音が聞こえてきそうな真っ暗な穴だった。穴の向こうはゆっくりと道を作っているのだろうか、徐々に氷塊に閉じ込められた弟の姿が露わになった。
「最澄!!」
「行くで、紫苑!!」
真っ先に穴に飛び込んだ兎貴に続いて紫苑も穴に入った。分厚い玻璃の箱を破壊すると警報が鳴り響いた。だが、どこにそんな力があるのか、箱を拳だけで破壊した兎貴に続いて、紫苑は思いの外軽い氷塊ごと最澄を抱き上げて、警備員の足音と警報音を聴きながら再び穴の中に戻った。
破壊されたガラスケースだけを見て、駆けつけた警備員二人はただ立ち尽くすしかなかった。
◇
白砂の上に氷塊をそっと寝かせると、清明は口の中で呪を唱え、指で五芒星を描く。
「――疾っ!!」
五芒星が描き終わると、氷は弾けてパラパラと降り注ぐ霙となった。
「……さいちょう?」
弟の胸に、耳を当てると確かに心臓が動いている。その身体を念入りに清明が調べ上げる。腕を持ち上げ、首の脈をとり、掌や額まで検分し終わると「うん。術士の名残は無い。あとは二、三日もすれば目が覚めるやろ」と紫苑ににっこりと笑った。
「……よかった……お二方、ありがとうございます!! ありがとう、ございます……!!」
まだ冷たい弟に縋りながら紫苑は涙ながらに二人に礼を言い続けた。兎貴と清明は顔を見合わせ、複雑な表情のまま紫苑の背を撫でた。
そこに一番居て欲しい、あの穏やかな間延びした声はない。
◇
その後、紫苑は兎の兎貴から「いつ目が覚めるか解らんのやから、側におったり」と言われ、布団に寝かされて静かな寝息を立てる弟の傍でずっと小さくなっていた。
清明は「なにかあったら、駆けつけるよって」と言い残して、帰って行った。狐面は紫苑を徹底的に避けているのか、まったく顔を見せようとしない。
「……最澄、早く目を開けて。ここに居るのはつらいから……また二人だけの生活に戻ろう? 今度こそ、白い百日紅を……」
ぽろぽろと流れる涙が、最澄の頬を濡らした。
――逢いたい。
誰に、と言うその願いは口にはしなかった。言葉にしてしまったら、矢も楯も堪らず、弟の側を離れて彼を探してしまうからだ。だから、この数日は食事もこの部屋で取っている。だが、身体が受け付けないのか、雀の涙ほどしか食べられなかった。
今日も食事を終えて、弟に寄り添い、あの憲法黒の広い背中を思い出していた。無意識に首飾りを握る癖がついたことを紫苑は知らない。一粒、頬を熱い滴が流れれば小さな声が耳に入る。
「……また、泣いてるの……?」
「……最澄……?」
「……約束、破ってごめんね」
ふるり、と紫苑は首を横に振った。やっと……
「やっと、逢えたから……良い。少し時期がずれた……だけ……」
泣き虫の姉は、そっと差し出した最澄の手を大切に頬に当てて、しとしとと泣いた。確かに気の弱い姉だが、こんな泣き方をする姿は初めて見る。弟の名を呼びながら、誰かに想いを馳せている。それくらいは最澄にも解った。
しかし、今はただ彼女の涙を受け止めておく。
――今は百日紅ではなく、なにが咲いているのだろうか。
★続...
あれほど探しても得られなかった弟の消息を、狐面の師は握っていると兎貴に聞いた。
零れ落ちそうに目を見開いて、息を切らせて茶室に向かう。
狐面は「生きてても『生きているだけ』かもしれん」と言った。しかし、それでもあの陰陽師の手によれば、救いはあるのだと。紫苑は深呼吸をして、廊下に座り、声をかけた。
「紫苑です。お呼びでしょうか? 参りました」
「入っておいで」
狐面の声は端的だった。嫌でも暴れる心臓を押さえて、そっと襖を開けた。
「紫苑、弟さんの居場所と状態をお師匠はんが話してくれるよって」
「は、はい」
紫苑は兎の兎貴が差し出してくれた座布団に礼を言って腰掛けた。狐面の隣に座布団を敷いてくれたのがありがたい。正面に向き直った清明は、すっかり足を崩して胡坐を掻いていた。
「さて困った。なにから話そ……」
清明は紫苑を見ると眉尻を下げた。その意味が解らなかったが、紫苑は淀みなく「可能であれば、私と別れてからを順番にお話し頂けたらと思います」と口を開いた。
「ん、解った。お前も、ええんやな?」
なぜか狐面に許可を求める。紫苑はそれに違和感を覚え、隣を見やった。
「僕は構へんよって。――全部話したって下さい」
「なら、長なるけど」
清明はそう前置きして語り始めた。
◇
紫苑と別れてから弟――最澄はわざと里の追手に捕えられ、一旦は里に戻った。父は既に遺骸となり、里長の隣に吊るされていた。
「娘はどうした!?」
「こいつが逃がしやがった――おい、姉貴はどこに逃げたのかを言え!!」
思い切り腹を蹴られ、最澄は強烈な嘔吐感を感じたがなんとか吐くことは止まり、「言います……から、里の連中全員集めてよ」と掠れた声で告げた。
周囲は公開処刑だと騒ぎ立ち、最澄は絞首台に引き立てられ、里をぐるりと見渡す。おおよその人数を目算で数えると、髪を鷲掴みにされて「さあ、吐け!!」と責められた。
しかし、この瞬間に最澄はにやりと笑い、渾身の力で風を呼び、巨大な竜巻を起こした。
竜巻は平たい刃物のように次々と里の者の首を跳ね、身体を切り裂く。
縄が切れ、最澄の力も尽きた時、彼はおびただしい血の海に立っていた。不思議と後悔はないそれどころか、これで姉と自らを脅かすものはいないという高揚感さえ湧き上がる。
「は……ざまあみ、ろ。……ま、僕も所詮は、風魔なんだな……」
自嘲し、せめて最後の力で峯尚山まで向かった姉のところに飛ぼうとしたが、唐突に眼の前が闇に覆われてその場に倒れた。
意識を取り戻したのは、つい最近のことだった。瞼が開かないどころか、聴覚しか生きているものが無かった。これでは風が呼べない。姉との約束があるのにと焦るばかりだ。そこへ聞こえてきたのは複数の男女の声だった。
「まあ……本当に髪が真っ白。これが風魔の最後の一人ですの?」
「左様。捕えられたのは本当に運が良かった。こうして氷の中に封じていれば、力はおろか、歳を経ることもない。どうです? 今夜の競りの目玉としては最高級の品かと思いますが」
「ええ、ええ、それはもう!! 子供達への出資金にも困ることはないでしょう。本当になんと素晴らしい……」
話の内容から判断するに、どうやら自身は人間の子供達への援助金目的の競売にかけられるとの
ことだった。人間でなければ最澄も充分子供の部類に入るはずだ。
しかし「人間でない」というだけで、この扱いの差はなんだと最澄は声高に叫びたかった。一族だけが敵だと思っていたが、自身が随分と狭い世界に居たのだと実感させられた。ぶつけようのない怒りはやがて不安へと変わる。
――では、今、姉さんは?
この人間達は、最澄だけが風魔の生き残りだと言った。ならば姉は死んでしまったという可能性が高い。せめて眼だけでも開けられれば外の景色から季節が判断できるのに口惜しいことこの上ない。
そして、何もできないまま最澄は狂乱のような競売にかけられた後、かわるがわる人間達の好奇の視線に晒されている。あれほど煮え滾っていた怒りも消え失せた。今は永劫変わらないこの状況の中で薄れていく感情に身を任せている。
◇
語り終えた清明はふうと一息吐いて白湯を所望した。狐面が茶釜から新しい茶碗に白湯を入れて渡す。紫苑は話を聞き終えると、唇を噛み締めて勢いよく立ち上がった。その手を咄嗟に隣の狐面が握り、制止をかける。
「旦那様、離して下さい……!! 弟が……!!」
「あかん。まだ話は終わっとらへん。君の弟さんを封じた男の正体が解らんやろ。それにのこのこ
と策もなく出て行ったら、君まで弟さんの二の舞や」
正論である狐面の言葉に紫苑は、震える拳はそのままに、すとんと腰を座布団の上に落ち着けた。
「やれやれ……風魔の特性なんか、直情的やな。まずは弟、最澄を捕えた男から話そか」
白湯で喉を潤した清明は碗を弄りながら再び語りを再開した。
「あれは賀茂景道。陰陽師を多数輩出してきた賀茂家のもんや。血が薄れて陰陽師や呪術師の存在は少のうなったが、あれはその中でも異色の能力者やな。風魔の里だけやのうて『裏』に属するもんの里や縄張りは何かしらの護りで、通常なら人間は踏み込めんし、眼にも映らん。しかし、最澄が里人を皆殺しにするために大竜巻を起こしたせいと結界を張っとった祭祀まで殺してしもうたんが仇になった。景道の侵入を許したのはそのせいやろ」
一族全てを葬った咎のように最澄は人間に捕えられ、珍獣が如く見世物にされている。一刻も早く助け出したい。紫苑は焦れて口を開いた。
「清明様、弟は現世のどこに収められているのですか? 競売に掛けられた、とのことでしたが、この鞍馬山よりも遠いところですか?」
「急きな。安心しい。京には居る。鞍馬よりは離れとるが、景道と連れ立っとった女がおったやろ? あれが経営しとる小さい博物館や。あそこの収益は人間の子供の支援金集めが目的にしとる。最澄を飾っとったこの数カ月で、もう元手は取り返したやろ――取り返しにいくなら警備が手薄な夜に行き」
また白湯を一口飲み、清明は紫苑にひらりと一枚の呪符を投げた。
「お守りや。連れて行くのは狐やのうて兎貴の方がええ。封印は帰ってきたら私が解くよって」
「ありがとう……ございます……!!」
紫苑は呪符を抱いたまま、清明に深く頭を下げた。清明はどこか哀しい眼で、紫苑の頭を撫でる狐面を見やった。
無味無臭のはずの白湯から、なぜか塩の味がほのか感じた気がした。
◇
清明から貰った呪符を手にし、すっかり雨が止んだ中庭の床几の上で日が暮れるのを待っていた。雨は止んだが、土に残った雨の匂いは逸る心を僅かながら鎮めてくれる。やっと、やっと弟に逢えると思うと低く垂れこめている雲間から見える太陽が憎らしかった。
そんな紫苑の隣に、音もなく狐面が腰掛けた。
「……良かったなあ」
「すべては旦那様や皆さまのおかげです。……私は、ただ白砂の庭に居ただけ。感謝が言葉では言い尽くせません」
「なんで紫苑はそんなに卑屈になっとるんやろ。君があんなに一生懸命に毎日働きながら、川を覗いてなかったら僕も誰も動かへん。自信持ちい。君が僕らを動かしたんや」
しばしの逡巡の後、紫苑は「はい」と目を伏せて小さく頷いた。
「それにしても寂しなるなあ」
「え?」
「弟さんが目覚めたら、君らはここを出て行く。新しい住処は、先生が世話してくれるよう頼んどいたで。安心して、また二人で幸せに暮らしや」
――狐のその言葉に、紫苑は首を絞められたかのように呼吸を忘れた。
「ここは仮初の宿」と何度も耳にしていたのに、どこか他人事のようにそれを実感していなかった。だが、弟の消息が明確となり、今後の生活が現実的なものとなった途端に自身も『迎賓館』の客体であったと解り、眼の前が真っ暗になった。
どれだけ仕事に精を出そうとも自身の本名は『空海』で、紫苑ではない。決して『迎賓館』の一部にはなれない。カラカラに乾いた喉で、紫苑は太陽を見上げる狐面の横顔に震える声で尋ねた。口から心臓が飛び出しそうなほど激しく脈動している。
「……と、時折、訪ねてきてもよろしいでしょうか?」
狐はゆるく首を横に振った。
「あかん。君らが出て行ったら、白砂の庭への道は閉じるよって」
「……ど、どうしてですか……?」
「もう君らには、仮初の宿も、過去を振り返る必要もないからや。未来だけを見つめるんや」
どこまでも突き放す狐の言葉に、紫苑はとうとう耐え切れずに涙が溢れてきた。とめどなく流れるそれを、狐面はいつかのように優しく拭ってはくれない。
「わ、私、なにか……お気に障ることをしましたか……?」
「なんも。むしろ、よう働いてくれた。楽しかったよ、君と居る時は」
「では、なぜ……もう逢っても下さらないのですか!? 私、なんの御返しもしてません……!! ただ旦那様達に護って頂いただけです……」
「紫苑――いや、空海やったか」
いちいち勘に障る物言いばかりする狐面に紫苑は、彼の単衣に縋りついた。まるでこの憲法黒のように彼の心の内が見えない。
「私には青は似合わぬとおっしゃったのは旦那様ではありませんか!! やめてください!!」
「せやかて、これからは偽りの名を名乗らなくても生きていけるんや」
「そうじゃない、そうじゃないんです……!! どうして……? お嫌いになったのなら、そう言ってください。……期待ばかり、持たせないで……!!」
「嫌いやないよ。――君を嫌えるわけあらへん。なにがあっても、君を嫌うことなんかできひんのや」
「ずるい……旦那様のお考えが解りません。嫌われてもいないのに逢っても頂けないなんて……これなら、これなら最澄が見つからなかった方が」
乾いた音が中庭に響いた。ひりひりと痛む右頬が熱い。
こんな時に正面から対峙するなんて、と紫苑は痛む頬を押さえた。
「それ以上は言うたらあかん。絶対にや」
「……お慕いしているんです」
わななく唇が、勝手に秘めたはずの淡い想いを紡いだ。
「旦那様を、お慕い申し上げているのです……!! 弟すら忘れるくらいに!! だから、もう逢えないのは嫌です……!!」
子供のようなわがままを言っているとは解っている。これでは狐を困らせるだけだとも。
――けれど、紫苑の意に反して狐面はただ一度だけ紫苑を強く抱きしめた。今日も狐面からは甘い白檀の香りがした。
「……僕も紫苑が好きやで。でもな、僕はあかんのや……」
なぜ、と紫苑が口を開きかけたら、まるで罪を犯したかのように紫苑を離して狐面は颯爽と中庭から最も近い茶室の襖の向こうへと速足で逃げ込んだ。訳が解らない紫苑は、何度も狐面が彼女を拒否するように締め切った襖を叩いた。
「……ごめんなあ、紫苑……僕は、僕だけはあかんねん……僕は……」
襖の向こうからは狐を呼ぶ彼女の泣き声が聞こえていた。カラン、と高い音を立てて、狐は面を外した。手で目を覆い隠しても漏れい出る雫は止まらなかった。あんな風に声を上げて泣ければ良かった。
たった一枚の薄い襖は、天の岩戸のように舞を披露したところで決して開いてはくれないだろう。これは狐の心そのものなのだから。
◇
子の刻となった。
昼間の清明の言葉通り、紫苑は人間になった兎貴と共に白砂の庭に立った。
「扉は五分も持たん。それ以上はバレてしまうよってなあ」
「はい」
瞼を真っ赤に腫らした紫苑と姿を見せない狐については、二人は承知の上なのだろう。言及されなかったのはありがたかった。
「ほな――開門」
清明が開いたのは鳥居ではなく、死期音が聞こえてきそうな真っ暗な穴だった。穴の向こうはゆっくりと道を作っているのだろうか、徐々に氷塊に閉じ込められた弟の姿が露わになった。
「最澄!!」
「行くで、紫苑!!」
真っ先に穴に飛び込んだ兎貴に続いて紫苑も穴に入った。分厚い玻璃の箱を破壊すると警報が鳴り響いた。だが、どこにそんな力があるのか、箱を拳だけで破壊した兎貴に続いて、紫苑は思いの外軽い氷塊ごと最澄を抱き上げて、警備員の足音と警報音を聴きながら再び穴の中に戻った。
破壊されたガラスケースだけを見て、駆けつけた警備員二人はただ立ち尽くすしかなかった。
◇
白砂の上に氷塊をそっと寝かせると、清明は口の中で呪を唱え、指で五芒星を描く。
「――疾っ!!」
五芒星が描き終わると、氷は弾けてパラパラと降り注ぐ霙となった。
「……さいちょう?」
弟の胸に、耳を当てると確かに心臓が動いている。その身体を念入りに清明が調べ上げる。腕を持ち上げ、首の脈をとり、掌や額まで検分し終わると「うん。術士の名残は無い。あとは二、三日もすれば目が覚めるやろ」と紫苑ににっこりと笑った。
「……よかった……お二方、ありがとうございます!! ありがとう、ございます……!!」
まだ冷たい弟に縋りながら紫苑は涙ながらに二人に礼を言い続けた。兎貴と清明は顔を見合わせ、複雑な表情のまま紫苑の背を撫でた。
そこに一番居て欲しい、あの穏やかな間延びした声はない。
◇
その後、紫苑は兎の兎貴から「いつ目が覚めるか解らんのやから、側におったり」と言われ、布団に寝かされて静かな寝息を立てる弟の傍でずっと小さくなっていた。
清明は「なにかあったら、駆けつけるよって」と言い残して、帰って行った。狐面は紫苑を徹底的に避けているのか、まったく顔を見せようとしない。
「……最澄、早く目を開けて。ここに居るのはつらいから……また二人だけの生活に戻ろう? 今度こそ、白い百日紅を……」
ぽろぽろと流れる涙が、最澄の頬を濡らした。
――逢いたい。
誰に、と言うその願いは口にはしなかった。言葉にしてしまったら、矢も楯も堪らず、弟の側を離れて彼を探してしまうからだ。だから、この数日は食事もこの部屋で取っている。だが、身体が受け付けないのか、雀の涙ほどしか食べられなかった。
今日も食事を終えて、弟に寄り添い、あの憲法黒の広い背中を思い出していた。無意識に首飾りを握る癖がついたことを紫苑は知らない。一粒、頬を熱い滴が流れれば小さな声が耳に入る。
「……また、泣いてるの……?」
「……最澄……?」
「……約束、破ってごめんね」
ふるり、と紫苑は首を横に振った。やっと……
「やっと、逢えたから……良い。少し時期がずれた……だけ……」
泣き虫の姉は、そっと差し出した最澄の手を大切に頬に当てて、しとしとと泣いた。確かに気の弱い姉だが、こんな泣き方をする姿は初めて見る。弟の名を呼びながら、誰かに想いを馳せている。それくらいは最澄にも解った。
しかし、今はただ彼女の涙を受け止めておく。
――今は百日紅ではなく、なにが咲いているのだろうか。
★続...
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