BLUE BLOOD BLOOM

紺坂紫乃

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Ⅳ, 暴走――裏切りの決意

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Ⅳ、「暴走――裏切りの決意」


 世間は盆休みに入った八月某日――。
 今日は水曜日なので、ジュニアコースの日だ。しかし、盆休みの帰省で休むという連絡がちらほら入っていたので、いつもの三分の一程度集まればいかとユーリは起床と共に考える。
 現時刻は朝の六時。のろのろと道着と袴に着替えて、ユーリは洗面台で洗顔を済ませる。その後、道場の床に箒掛けをした後で、雑巾で床を拭く。防具や竹刀のチェックをして母屋に戻ると、台所から香ばしい香りが漂ってくるのだ。

「雪くん、おはようございます」

「おはよう、ユーリ。今朝は子持ちシシャモと、昨日夕飯で残ったひじきのトマト煮などなどです」

「トマト煮はいっぱいできるもんね。私、冷凍してある納豆も追加しよーっと」

「あ、ついでに乾物棚からを出してくれる?」

「はーい」

 すっかり慣れた日常の光景――ユーリが日本にやってきて六度目の夏である。


「今日は誰が来るの?」

「毎年お盆休みは開店休業状態だからねえ。皆勤賞は君と草壁さん宅の航平くんくらいかな」

「ここに住んでるんだから、嫌でも皆勤賞にもなるよ。私は数には入らないよ」

「でも、君、剣道は嫌いじゃないでしょ? 僕の仕事の手伝いよりもよっぽどイキイキしてるよ」

「余計なこと考えなくて済むからかなあ。雪くんのお仕事は暗号だもん。頭脳労働よりも身体を動かしている方が性に合ってるみたい」

「だろうね」

 雪がくすくすと笑う。二人で食卓を挟んだ和やかな朝食の時間は何物にも代えがたい。
 パリと東京から逃げるように住み始めて、あっという間に六年が経過した。十四になったユーリはここに来たばかりの頃よりは少し視野も広くなった。
 パリの家族とは業務連絡のようなメールしかしていない。父と母も、東京の桐嶋家には来てもこちらまでは来ない。ユーリも会いに行かないせいでもある。
 六年も経つのに、未だにどんな顔をして家族に会えばいいのかが解らないのだ。

「――だけど、どうする?」

「え、あ、ごめんなさい……考え事してて聞いてなかった……」

「暑さにやられた? 今日は誰も来なかったら、久しぶりに個人指導しようか。今日は仕事がないからさ」

「う、うん!! お願いします!! 嬉しい――!!」

「決まりだね。今日こそ僕の黒星を期待してるよ」

「……頑張る」

 道場に住み始めた時、ユーリも子供達に混じって雪から剣道を教わるようになった。学生時代から警察に入るまで剣道を続けていた雪は三十二歳にして四段の腕前だ。次の試験でやっと一級になれるかの瀬戸際であるユーリは遠く及ばない。
 雪との生活は心地がいい。
 ただ『BLUE ROSE』である自身に芽生えた淡い想いは、少し甘くて、叶わないと言い聞かせ続けるのは苦しい。
 時折、月や明光が三人で酒を酌み交わしながら「雪の彼女、久しく見てないよね」と話しているのを耳にする。

「そう言えば、最後の子と別れてから何年経つかな?」と、雪は記憶を辿る。結婚式の招待状がポストに入っているのは何度見たことか。雪は披露宴まで出席するものの、絶対に二次会には参加せず、引き出物のお菓子を二人で摘まむことの繰り返しだった。

「雪くんは、結婚しないの?」

 おもいきって尋ねたのは、去年の秋だ。

「んーとね、姉さん達にも言っているけど、僕は待ちの戦法なんだよね」

「待っている人が居るの?」

「内緒。これはね、もう十年以上前に立てた大切な誓い」

 雪の心に住まう女性が居る。十八以上も年齢が離れていれば、必然的に人生経験上抱えているものの違いをまざまざと見せつけられる。ユーリの初恋は伝えることなく散ってしまった。

 その夜、ユーリは日本に来てから、初めて泣いて夜を明かした。





「ユーリー、久しぶりー!!」

「嘩蓮、と――」

 お盆休みもちょうど折り返し地点となった日、ユーリが外の花壇に水をやっていると、珍しく嘩蓮が道場にやってきた。引っ越して来たばかりの頃は嘩蓮と朔夜も週に一度ここに通っていた。しかし、嘩蓮が小学校に入るのと同時にモデル業にスカウトされ、朔夜も東京の友達との付き合いを優先するようになったので自然と二人は剣道から離れた。

 そして、実に四年ぶりに嘩蓮が道場を訪れたのだが、彼女が連れ立ってきた白髪の少年に、ユーリは目の色を変える。

「――……ノラ……!?」

「え、ユーリ……NORAくんと知り合いなの?」

「そいつから離れて、嘩蓮!!」

 ユーリはシャワーヘッドが付いたホースを放り出して、嘩蓮を引き寄せて嘩蓮を背後に庇う。強引に引き寄せたせいで、嘩蓮の大きな麦わら帽子が飛んだ。

「な、なにすんのよ――!!」

「……場所を変えよう。カレンちゃん、このお姉さんと少し話してくるって叔父さんに伝えて」

 ノラは静かな声で嘩蓮に伝言を頼むと、くるりと背を向ける。ユーリはっ道着のまま、嘩蓮を離してノラの後に付いて行った。

「な、なんなのよお……」

 その場に取り残された嘩蓮だけが呆然と立ち尽くし、水色のワンピースのスカートが熱気を孕んだ風に靡いた。





 ユーリは殺気立ったまま、できる限り道場から離れた裏山の中に入って行った。万が一、ノラの仲間に囲まれたら終わりだと周囲への警戒も怠らない。
 そんなユーリの姿に、ノラが背中越しに話しかける。

「安心して。ボク一人だ。そもそもボクに仲間なんていないしね。今日は君に大事な話が合って来たんだ」

「私と話す為だけにわざわざ嘩蓮に近づいたの? 忙しいから要点だけ言ってよ」

「あまり邪険にされるとつらいな」

「私はあなたと仲良しになる気なんかないもの」

 ノラが歩みを止めてユーリを正面から見たのは、山の中腹にある湧き水が小川になっている場所だった。

「……それでもいいよ。じゃあ、手短に話すけど『魔界』との交渉が決裂した『異界』は人界への侵攻準備を始めた」

「な、んですって……!?」

「犬神――父さんは神界と人界の両方を強く恨んでいるから。最終的には最も犬神伝承が盛んだった日本の四国・山陰地方まで下るらしい。それまでは世界各地に悪神をばら撒いて、神界の目を逸らす」

「その情報を私が信じると思っているの?」

「さあ。信じるか否かは君次第だ。でも、嘘じゃないよ。偽の情報をリークする為にわざわざ人間のフリをしてここまで来るほど、ボクも暇ではない」

 ノラは茶色のカラーコンタクトを外してその場に捨てた。ユーリと同じ『BLUE ROSE』の青い瞳を露わにし、掲げた右手には空間が歪んで彼の手には大薙刀が握られた。
 大きな刃がピタリとユーリの白い喉笛に付きつけられる。

「交渉しよう。今、ここで君がボクと共に来ると誓うなら、桐嶋家とパリの家族だけは手出ししないようにカモフラージュしてあげる。もし、拒んだら――ボクらの前に立ちはだかる前に、この喉を斬り裂く――!!」

 風切り音がユーリの頬を通り過ぎて行った。

「きゃあ!!」

「嘩蓮!?」

 二人の後をつけてきた嘩蓮が隠れていた樹の木肌が露わになる。

「次は当てる」

「嘩蓮、逃げて!! 早く!!」

 腰を抜かしているのか、嘩蓮は涙でぐしゃぐしゃになったまま震えながら首を横に振った。
 ユーリは歯噛みする。
 力が欲しい――大切な存在を護る力が。

(……私は……こんなにも無力だ……!!)

 小川のせせらぎが嫌に大きく聞こえる。夏場でも山の中は涼しい。だが、ユーリは眼の前が怒りで真っ赤になった。

「……か」

「なに? 聞こえない」

「誰が『異界』なんかに屈するものか――!!」

 ユーリの咆哮で大薙刀の刃にびしりとヒビが入った。

「――……な、にが――っ!!」

 小川の水が逆巻いて龍のようにノラに浴びせられる。
 大地は肩で息をするユーリの呼吸に合わせて揺れ、木々からは鳥たちが逃げ出して行った。

「いったい、なにが……!?」

 混乱したノラが一歩後ろに下がると、懐にはユーリが飛び込んできていた。

 ――速い。

 薙刀でユーリの拳を止めると、薙刀を支えていた両腕に激烈な痛みが走った。骨がみしりとなる感覚に、ノラの表情は苦悶する。

「なんなんだ、君は……」

 これが同じ『BLUE ROSE』の力だろうか。
 目と口から血をだらだらと垂らしながらも、ユーリはギラギラと瞳孔の開いた狂犬のように身構える。

「やめるんだ、ユーリ!! それ以上は君の身体が――」

 ノラの声はユーリには届かない。
 ノラを殺すことだけに特化した姿は悪神よりも性質タチが悪い。

(どうして……ボクはただ君と話したいだけなのに……!!)

 脅すようなフリをしたのは他に方法を知らないせいだ――だって君は、最初に出逢った時からボクを敵視していたから。

 地震はますますひどくなる。
 ノラも収集方法が見つからず、混乱している。
 
 ――すると、ノラの脇を黒い影が音速で通り過ぎた。
 
 影はユーリの前に立った。
 同時にユーリはがくりと糸の切れたマリオネットのように影の腕に崩れ落ちる。
 地震もぴたりと止んだ。

「……ヴィンセント……シルバ……」


「久しいな、ガキ。話は馬鹿娘の使い魔から聞いた。俺が武器を手にする前に去れ」

「ボクを、見逃すのか?」

「てめえを斬ったところで『異界侵攻』が納まるならとうに斬ってる」

 血のように紅い眼に僅かに怯んだ。先ほどのユーリと同じ眼をしていたからだ。
 ノラは俯いたまま、空間の歪みに入っていった。

 ――父の腕の中で眠るユーリに後ろ髪を引かれながら。

「さて、と……こいつ、どうしたものかな……」

 六年ぶりの生身の娘との思わぬ再会に、ヴィンセントは大きな溜息を吐いた。離れた樹の後ろで失神している嘩蓮は赤い犬が背に乗せて、道場まで戻ったはずだ。
 ヴィンセントはユーリを抱き上げ、ずるりと影の中に埋没した。





 道場と繋がる母屋で、雪はドリップしたコーヒーをマグカップに移して、黒いVネックシャツとジーンズに着替えたヴィンセントの前に置いた。

「そう、あの地震はユーリが……」

 ユーリは自室に寝かせてある。嘩蓮は離れの客間だ。

「赤い犬が嘩蓮を背負ってきた時は何が起こったのかと思ったけど、暴走、ね……」

「悪いが嘩蓮の記憶は改ざんさせてもらったぞ。下手に吹聴されると困るんでな」

 ヴィンセントは熱いブラックコーヒーを啜る。雪も反対はしなかった。
 二人が最も恐れているのはユーリがこれ以上傷つくことだ。

「ねえ、ヴィンセントさん。『BLUE ROSE』には、あんな自然災害を誘発させるほどの力が備わっているの?」

 自分の分のコーヒーには手をつけず、雪はヴィンセントに問うた。

「わからん。なにせこの世に二人しかいないんだ。実証実験もできん。ユーリにさせる気も無いが、もう一人は敵方と来たもんだ」

「ユーリは、ただ嘩蓮やここを護りたかっただけだと思うよ」

「そうだとしても、自制コントロールできねえ以上は万神庁パンテオンも黙ってはいない。ただでさえ十年前の奇襲でNORAに虚を突かれたんだ。『BLUE ROSE』への偏見は強まる一方だな。なにかユーリに自衛と自制の方法を教えられればいいんだが……」

「方法は無いの? あの子、剣術はいい筋をしているよ?」

「師範のお前には悪いが、竹の刀もどきを振り回しているだけじゃあ、所詮はオママゴト。ユーリに必要なのは、生きるか死ぬか、殺すか殺されるかの剣だ」

 ヴィンセントの容赦ない正論に雪は目を閉じた。

  ただ幸せを願ってきた愛し子――彼女が何者であれ、何者でもなくともここで生きがいを見出せればと願って連れてきたのに、残酷な現実は彼女を嫌でも戦いの中に引きずり込む。


 ――生きるか死ぬか、殺すか殺されるかの剣。

 板張りの廊下で、音も無く涙を流しながらユーリは父と雪の会話を聴いていた。そろりと廊下が鳴かないよう、ユーリは幽鬼のように歩き出した。


(……パパ、雪くん……ごめんなさい……)


 バケモノ、という言葉が頭によぎった。
 ユーリは昼間の自身の姿を覚えている。あれではバケモノと呼ばれ、罵られても仕方がない。
 自室に戻ったユーリは寝間着にしている浴衣から、動きやすいTシャツとショートパンツに着替え、窓から外に出た。


「……さようなら」


 別れの言葉は誰にも聞こえないように――。


to be continued...
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