裏鞍馬妖魔大戦

紺坂紫乃

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第一部 風の魔物と天狗の子

第五話 諏訪の主 (前)

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五、
「諏訪の主 前篇」


 真夜中に秋葉山のホテルをチェックアウトした最澄は、黒い薄手のトレンチコートとジーパンだけという軽装だ。荷物など持たずに月明かりの中を一路、北へと飛んだ。信州は諏訪地方から南東に三十数キロメートルにも及ぶ「八ヶ岳やつがたけ」と呼ばれる火山群の結界に、あと一キロ弱というところで最澄はピタリと空中で止まる。

「……双葉、これは……?」

 隣を紙人形の姿で飛んでいた双葉に、怪訝な声音で最澄は尋ねた。こんな中空からでも解る。地上には妖だけでなく、明らかに生者でない者がふわふわと彷徨っているのだ。双葉も固い声で答える。

「浮遊霊のようですが、あまりにも数が多いですわね。もうここは諏訪湖の主様の結界内でしょうに……なぜこんなにも集まっているのでしょう」

 双葉に問うたところで彼女が知る由もない。最澄は険しい表情になって「先を急ごう」と呟いた。



 月が高々と天頂で輝く――美しいことに叢雲むらくもがかかって薄紫色の彩雲ができていた。月の影が水面にゆらゆらと漂う諏訪湖畔公園は美しい。しかし、最澄が湖の畔に降り立つと同時に湖面が妖しく揺らめき、地響きにも似た低い声が問う。

『不浄の身が神域に何用か?』

 紙人形だった双葉がするりと最澄と湖の間に立ったが、双葉の背に護られていても最澄は身体が小刻みに震えだしそうだった。

「不敬は重々承知。それでも、貴方様に謁見したく参上仕りました。私は――」

『風魔よ、我ら神族は閉じられた黄泉の門を巡って大わらわよ。風の魔物が全国の天狗衆と妖を相手取って復讐戦争を仕掛けた話は、この諏訪にも届いておる。しかし、我らはそれどころではない』

 月明かりに照らされて水面から顔を出したのは、ゆうに五メートルを超える龍神の頭部だった。この信州・諏訪地方という国の中心部から全国を護る最強にして最大の天神である。その神々しい姿を直視することさえ目が痛みを放つ。だが、そんなことよりも最澄は龍神の一言に刮目する。

「黄泉の門が、閉じられた……? ここに来るまでに見た大量の浮遊霊はそのせいか」

 最澄は苦々しい顔をして額に手を当てる、が、すぐに弾かれたように龍神に視線を戻した。

「失礼ながら、門はいつ、なぜ閉じられたのですか? まさか……姉さん達の霊魂まで隠り世に行けてないだなんてことは……。なぜ隠り世の川で確かめなかったんだ、くそっ!!」

 最澄が顔を歪めると龍神は変わらず腹の底を揺さぶるような声でゆったりと語る。

『安堵せよ。貴様の姉共は特別に閉じられた門の中に入れられた――なにせ、隠り世の永久牢から逃げ出した罪人が手に掛けた被害者なのだからなあ』

「なん、ですって……? じゃあ姉達を殺したのは死者だとおっしゃるのですか?」

『左様。これ以上は黄泉よもつ大神おおかみに尋ねよ。我は彷徨う諏訪の霊魂が悪霊や妖の餌食にならぬよう見守る義務がある』

「待ってください。死者が滝丸という天狗をそそのして姉達を殺したならば、僕はなおのこと貴方様にお縋りしたい!! 風魔如きが不遜ふそんなことは覚悟の上で申し上げる――龍神の鱗を一枚頂きたく、この諏訪の地に参りました」

『ならぬ!!』

 最澄の鋭い眼つきと反対に紡がれる切なる願いに、龍神は絶叫した。龍神の咆哮だけで湖面は高く波打ち、公園の木々がミシミシと嫌な音を立てて震えた。最澄だけでなく、双葉も身が散り散りになりそうな恫喝どうかつに吹き飛ばされないよう踏ん張るしかできなかった。

 ――ただ吠えただけなのに。なんて威力だ……!!

 なんとか風を紡いで、強風の勢いを殺す。それでも魔物の身では龍神が起こす風は神力が混じりすぎていてうまく纏まらない。神と崇められる存在の絶大な力を目にして、最澄は思わず舌打ちが漏れた。

『龍鱗はたった一枚でも与えた者を絶対強者にしてしまう。貴様も師から聞かされておろう。稲荷明神を始め我ら神は魔物と妖の戦には加担せぬ。黙って退くがよい。復讐が如何に馬鹿げているかを理解していながら、なにゆえ今以上の力を求める?』

「……助けて、と言ったからですよ」

 最澄はしばしの沈黙の後に首を絞められながらも吐き出すような声音で心情を吐露する。

「姪が、浅葱が!! 最期に『たすけて』と言ったのに、僕は間に合わなかった。姉達が復讐を望んでいないことなど説法されずとも知っている!! だけど、浅葱の末期の願いは救済だった。宣戦布告が為された以上、僕はもう止まらない――!!」

『……哀しい風魔よ。姪御の一言で世界を滅ぼすか。しかし、龍麟を与えることとは話が別。如何する?』

「――力づくでもっ!!」

 双葉が「おやめ下さい!!」と叫んだのは空耳だろうか。最澄はそんな事を考えながら、月に手を掲げ、ありったけの風を呼んだ。
 龍の鱗はどんな強靭な鋼を以てしても傷はつけられない、とは最澄も知っている。仮に傷がつけられるのは神話で語り継がれる神剣の類だけ。頭では解っていた。最澄は愚かだが、馬鹿では無い。
 しかし神に挑むという無謀な行動にでたのは、ひとえに可愛い姪の一言の為だった。

 助けられなかった、あんなに愛していたのに――ただそれだけの事実が最澄を突き動かす。

 風が猛り狂う。
 木々や湖面が悲鳴を上げる。
 まるで最澄の心を代弁するかのように風はうねり、刃となる。だが、龍神は表情が読めないまま、最澄の風を浴び続けた。

「うぐっ……!!」

 時も忘れて最澄は風を纏って微動だにしない龍神に挑み続けた。とうとう目や鼻から血が流れ、肩で呼吸をし始めても狂った血が咲く彼の黒い瞳に宿る焔は消えない。

「主様、これ以上はお身体が壊れてしまいます!! 後生ですからおやめくださいまし!!」

 双葉がとうとう泣き叫ぶが、最澄はそれすら耳に届いていないようだった。

『……姪の祈りは聞こえて、仕えてくれる狐の嘆願は聞こえぬ、か。愚かな』

 暴れ狂う猛獣のように牙を向ける最澄に、龍神はまた無感情にそう言い捨てた。双葉の祈りも虚しく、最澄は血の涙を流しながら最後の力を振り絞って風を呼ぶ。逆巻く風だけが最澄の味方だった。
 

 ――信じるものはなにもない。僕の涙は姉達と共に死んでしまったから。
 
 最澄は血を滴らせながら、龍神へと再び突撃していった。


続...
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