KARMA

紺坂紫乃

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第三部 影喰み-shadow bite-篇

3-10

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十、


 バスケットの中身は、きのこのクリーム和えやツナサラダにゆで卵スライスのサンドイッチ、ハムと山羊チーズのバジルソースのバゲットサンド、ミートボールのデミグラスソース和え、レモン風味の鶏肉をそば粉のクレープで包んだものなどなど……デュークが朝から腕によりをかけた内容である。

「アンリ、身体は冷えぬか?」
「うん。ちょうど良いよ」

 九月も終わりに近づいたパリは、朝晩が冷え込むようになった。家で籠っているだけでは腐りそうと言うアンリがZEROから許可を得て、刹那とルイーズ、リチャードの四人でピクニックとなった。
 場所は隠れ家から徒歩十分もないモンマルトル美術館の裏の葡萄畑だ。
 スカーレット・ピンパーネル、ワイルド・キャロット、セルフヒール――四人は小さな野花を潰さないように場所を探した。

 十月になれば、葡萄の収穫祭でパリ祭のような祭りになる。農家の者達は大わらわだが、残念ながら手伝えない刹那達は大判のシートを広げて、バスケットを開ける。
 少し離れたところに、壮年の男がスケッチをしていた。見覚えがあるので、ご近所さんの美術家だろう。男は青いキャスケット帽を上げて、手を振るアンリに挨拶を返してくれた。

「左文字達も来ればよかったのにね」

 ルイーズがアンリの車いすを固定して、リチャードとバスケットの中身を広げていく。

「敵の十八番は奇襲だからな。残念ながら、全員がアーヤとデュークの傍を離れられぬ。それに、あやつは今続き物のミステリー小説に熱を上げているからなあ」

「……あの性格で趣味が読書ってのが意外だよねえ」

 今更だな、と思うが改めて口に出されると刹那も笑いがこみ上げる。

「まあ、そうだな。だが、意外と左文字は勉強家だぞ」
「それが意外なんだ」

 リチャードまで便乗して、アンリと意見の一致を果たす。日頃の行いの賜物がこれとは、刹那は相方に多少の同情を覚えというものだ。

「あ、このサンドイッチ……キンレンカが入ってる」
「養生だと思って食え」

 独特の刺激があるキンレンカがアンリは苦手だった。しかし、デュークはしっかりと入れてきているので、リチャードに珍しく形勢逆転し、叱られながらもアンリはサンドイッチを頬張る。

「あ、それ、狙ってたのに!!」
「人数分あるだろうが!!」

 子供同士のような喧嘩をアンリとリチャードは繰り広げていた。刹那とルイーズは、もう放っておいたまま小さなポットに入れて持ってきたストレートの紅茶を口にし、パリの街並みを一望する。

「リチャードが子供っぽいのか、アンリの食い意地がはってるのか、難しいところね」
「どちらも当たっているな」

 草の匂いを運んでくる緩やかな風は「こんなに平和でいいのだろうか」と不安になるが、アンリの脚の経過は順調だ。今は休息を謳歌しようと刹那はデザートだったマロン・グラッセを口に運んだ。
 腹も膨らんだ頃には、絵描きの男は消えていた。誰の視線を気にすることも無かったので、刹那がバスケットを片付け終わったシーツの上に寝転んで、流れゆく雲を眺めていた。
 今日はいわし雲が見られた。
 ふと考えるよりも先に、刹那の口をついて出たのは懐かしい歌だった。誰に教わったのかももう思い出せない。

「ここにして いえやもいずく しらくもの たなびく山を 越えてきにけり」

「なに、それ?」

 アンリがきょとんと目を丸くする。

「千年近く前に詠まれた歌だ。無学な私はこれしか知らぬが、自然と天気を読んで、太陽や風を読んで、その日を生きるのに必死だった」

「歌なんだ。どういう意味?」

「ここからだと家はどこにあるのか。白雲がたなびく山を越えてきたのだなあ、と言ったところか」

「……ヤラズノアメだっけ? あれと言い、読書が趣味の左文字が歌とか雅なことは言えないのに、刹那はぽろっと口にするよね」

 アンリの鋭い指摘に「あいつはミステリーや推理小説しか読まないせいだろう」とリチャードが最もな相槌を打つ。それがあまりに的確だったので、刹那からも笑いが漏れた。

 そんな笑いもかき消されたのは、奇襲だった。開けた野原で影が薄いと安堵していたが、三体の式鬼がずるりと現れる。殺気を感じた時点で、鯉口を切っていた刹那が、寝転んでいたところを素早く起き上がるがアンリが「僕に寄って!!」と叫んだ。

「あーあ、いい気分が台無し――とっとと消えてよ」

 アンリは掲げた右手をグッと握りしめると式鬼らは砂のように霧散していった。
 三体の式鬼を分解してしまったアンリは「仕切り直したいよ、もう!!」と、怒りを露わにする。

「アンリ……物質の分解や結合は触れないと発動しないんじゃなかったか?」

 リチャードが為すすべもなく、呆然としているとアンリは何事も無かったかのように手を開いては閉じてを繰り返した。

「僕がただ大人しくベッドに寝転んでいるだけだと思う? 遠隔分解もできるように頑張っていたんだよ」

 転んでもただでは起きない彼らしい考えだと刹那は、不可視の刀を鞘に戻した。

「時折、ベッド脇のたらいが空になっていたのはそういうことか」

「うん。でも、もう半径二メートルくらいなら分解も生成もできるよ。これなら車いすでも戦えるでしょ?」

 ニカリと笑った戦いの申し子は常に進化を遂げる。負けてはいられないとリチャードに火を点けたとは、アンリは知らない。



 刹那は草まみれになった着物を着がえると、ZEROから呼び出された。
「どうした?」
「悪いな、ボスからお前にこの封書を渡せと託されてよお。読んだら燃やせとさ」
「わかった。感謝する、とルィアン殿に伝えてくれ」
 ZEROから渡された白い封書にはご丁寧に封蝋が押されていた。刹那はそれを持ったまま、屋上へと向かう。
 手紙の内容は報告書と注意喚起だった。

曰く、『もう五年前の情報提供なので時効とする。客の情報は漏らさないのが我らのポリシーだが、現在の我々は共同戦線下にある。ゆえに貴殿には伝える義務があると判断し、筆を取った。五年前、君の旧名である冬月瞬太郎なる新撰組隊士とその恋人であった紅緒なる遊女の消息を求めて一人の女が我らにコンタクトを求めてきた。冬月瞬太郎は新撰組の公式記録の通り、五稜郭にて殉死じゅんし。また紅緒も原因不明の事故で焼死と情報を売った。当時はそれでひと段落がついたのだ。しかし、先日その女が『夢幻泡影』に取り込まれたという情報を手に入れた。女の名は、セノウ・ミドリ。死んだ紅緒の実妹だ。裏付けも取ってある。今は『夢幻泡影』でタラークという名で異能を与えられて暗躍している。笠木刹那、彼女は君への復讐に燃えている。友人として、今一度の警戒を呼びかけたい。同時に君の『籠釣瓶』が鈍るようなことがないことを切に願う』

 ルィアンからの手紙はこのような内容だった。

「紅緒の妹が敵となった、か。その刃を私は受けるべきなのか、それとも修羅として斬るべきか……」
 刹那は袖に封書を入れると、眉間の傷を撫でた。

  ――紅緒、すまない。

「因果応報。斬るしかないな」

 無情に帰って行く心に、刹那は一抹の不安を覚えた。ミドリを斬ったら、『夢幻泡影』を斬り払った後の己は、人間に還れるだろうか。

「いや、考えまい」

 刹那はZEROに持たされたマッチで封書を燃やした。紅緒を殺した凶器で地下組織に身を落とした彼女の血縁を斬るのか、と煙の匂いを嗅ぎながら刹那は踊る焔に見入った。



 応接室に戻れば、今度は左文字の怒鳴り声とサンクの金切り声が聞こえてきた。目をすわらせて二人を見ていたアーヤに「今度は何が原因だ?」と問うと「びっくりするくらいくだらないわよ」
と返答する。

「だろうな。あのリチャードまで無関心でおる」

「サンクが買い物の荷物持ちって建て前でデートに誘おうとしたんだけど、左文字が『嫌だ』って。そこから舌戦に発展したの」

 ルイーズがこっそりと通り様に教えてくれる。惚れっぽいサンクと朴念仁の左文字では正反対だろうに、恋に恋する乙女の執念に感服するがくだらないのは確かだ。
 刹那も無視を決め込んで、姉の喧嘩を見守っていたシスの対面に腰掛けた。基本的に、ルィアンか姉か菓子にしか興味が無いシスの前では、刹那も置物と同等のようだ。
 少し仮眠を取りたかった刹那は、一度腰掛けたものの、大音量の喧嘩が続く中では無理だと判断し、寝室に上がった。
 当然ながら、ここまでは声が届かない。刹那は紅緒の腕の中に居るような心地で浅い眠りに埋没していった。
  窓辺に止まったコマドリの存在にも気がつかない。

 ――Who killed Coak robin?

 誰がコマドリ殺したの? と、夢とうつつのあわいで聞こえた気がした。

★続...
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