変わりたいと願うから

矢田川いつき

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変わりたいと願うから

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「好きな人の隣に、ずっといさせてあげようか?」

 窓をたたく雨音が強い日の深夜だった。
 雷が怖くて、掛け布団にくるまって好きな人のことを思い出して寝たら、夢の中で言われたのだ。

「できるの!?」

「もちろん」

「だったらお願い! 私、高野くんの隣にいたい!」

 相手の姿は覚えていない。無我夢中で、私はそう口にしていた。もしかしたら、現実でも寝言で叫んでいたのかもしれない。それくらい、確かな実感と意思を持って願った。

 だって、私は所詮、クラスで隅っこにいる目立たない地味な女子。得意なことはないし、特別可愛いわけでもオシャレなわけでもない。
 一方、高野くんはクラスでも人気者。明るくて優しくて、私みたいな女子にも気にかけてくれる。体育祭のリレーの時、あんなに迷惑をかけたのに彼は気遣ってくれた。「南が上手くバトン渡してくれたから、良いスタートが切れた! 二人も抜けたよ!」って。私が遅かったせいなのに、彼は柔らかな笑顔を向けてくれたのだ。
 でも、高野くんの隣にはいつも幼馴染の唐渡さんがいる。私と違って、可愛くて、オシャレで、天真爛漫な笑顔を振りまいている。しかも、高野くんと同じでとても優しい。同性の私でも憧れてしまう、そんな存在。
 お似合いの二人。私なんかが入り込む余地はない。
 でも、それでも。
 もし私が、高野くんの隣にいられるなら。いてもいいのなら……!

「よし、わかった。お前の願い、叶えてやる」


 朝。目を開けると、見慣れない天井が広がっていた。

「え……うそ……」

 部屋にあった立ち鏡の前に立つ。
 いつもの私、冴えない南透華の顔じゃなかった。

 とっても可愛い、唐渡千佳さんの顔が映り込んでいた。

 *

 これは夢だ。絶対に夢だ。
 登校中も、生徒玄関を抜けてからも、廊下でも、教室に入ってからも、私は「これは夢だ」と言い聞かせていた。
 だって、ありえない。
 私が、唐渡さんの身体の中にいるなんてこと。そんな映画みたいなこと、ありえるはずがない。それなのに。

「千佳ちゃん、おはよ!」

「唐渡先輩、おはようございます」

「千佳、おはよう!」

 誰も彼も、あの高野くんでさえ私のことを唐渡さんの名前で呼んできた。慣れない挨拶の山に、しどろもどろになりつつどうにか切り抜けたけれど、もう頭の中は大混乱だ。
 
 さらに驚くべきことに、教室には「私」がいた。

 教室の隅にある自席で、いつもようにひとりで本を読んでいる。何も変わったところはなく、ただ静かに座っている。
 どういうこと……?
 混乱が混乱を呼ぶ。ほかの誰か、一番可能性としてあるのは唐渡さんの意識が、「私」の中に入っているはずなのに、そんな気配は微塵もない。
 休み時間のほとんどを読書に費やし、数少ない友達とたまに話すその姿は、まさにいつもの「私」そのものだ。
 話しかけてみようかとも思ったけれど、私自身が唐渡さんに慣れるのに大変で、そんな余裕はまったくなかった。不思議と、唐渡さんの両親や友達のことは記憶にあり、日常生活に支障をきたすことはなかった。まるで、唐渡さんの記憶が知識として入っているような感覚で、決していいものではなかったけれど。
 それに……。

「よう、千佳。お前、まだ眠いのか?」

「あ、高……じゃなくて、周人。もう、大丈夫!」

「って、また言いかけただろ。眠いなら……ほーれっ!」

「わっ!」

 高野くんのデコピンが額をつく。本当に軽く、じゃれる程度のものなので痛くはない。

「はははっ、目覚めたか?」

「とっくに覚めてるよー!」

 普段の唐渡さんの様子を真似て、高野くんに笑いかける。おでこはまったく痛くない。痛いのは、痛いほど高鳴っているのは、私の心臓。

 高野くんの隣にいられるのなら、これも……。

 彼の柔らかな笑顔を見て、私はそう思った。


 *


 そう思った、はずだった。
 高野くんは、幼馴染らしくずっとそばにいた。
 朝は、私のだらしなさに笑いつつも、優しい笑顔を向けてくれて。
 少し慣れてきた休み時間は、前の授業が眠かったとか、部活の次の大会でベストを出したいだとか、たわいのない話に花を咲かせて。
 お昼休みは、友達も交えてみんなでご飯を食べて、写真なんかも撮ったりして。
 本当に楽しくて、充実した時間が過ぎていった。
 遠くから眺めるだけだった昨日までとは違う。なんでもない話すらできる、そんな高野くんの隣にいられることが、幸せだった。
 明日からも、ずっと隣にいられるなら、案外悪くないのかもと思い始めていた。
 けれど。

「へぇー! 南って、マジで花に詳しいんだな!」

 放課後。先生からの用事を済ませ、教室で待ってくれていた高野くんを呼びに行こうとして、私は目を見張った。

「うん。だから、きっと高野くんの助けにもなれると思うよ」

 今日から定期考査に向けた部活停止期間で、クラスメイトはみんな帰ったはずの教室。
 高野くんだけが待っているはずの教室には、彼のほかにもう一人……「私」がいた。

「おぉ! すげー助かる! 妹の高校受験、めっちゃ応援したくてさ。ほんと頑張ってるけど緊張強いだから、勝つとか受かるとか、縁起のいい花をあげたかったんだ」

「ふふっ、優しいね」

「えーそうかー? 南ほどじゃないと思うけどな」

「えーそうかなー?」

「真似をするでない、真似を」

「あははっ。はーいっ」

 なんなの、これ……。
 夕暮れ時。淡い夕陽に包まれた教室は、いい雰囲気に包まれていた。
 窓際の席に座る「私」は、とても楽しそうだった。地味で目立たないのは変わらないはずなのに、なぜか可愛く見えた。
 それ以上に驚いたのは、高野くんだった。
 すごく、幸せそう……。
 高野くんは、今日一日ずっと私の隣で笑っていた。
 朗らかに、意地悪に、快活に、柔らかに、ずっと。
 でも、今の高野くんの表情は、さらにその上をいっていた。
 心から幸せそうで、喜びに溢れていた。
 きゅっと、心が苦しくなる。
 ああ、そうか。
 あの笑顔は、昼休みに写真で見た、私の笑顔にそっくりだった。好きな人に向ける、その笑顔に。

 涙があふれてきた。
 今になって、デコピンをされた額がズキズキとうずいてきた。
 バカだと思った。
 私は、何を思い上がっていたんだろう。

 結局。私はその日、ひとりで家に帰った。


 *


「カカカッ、こんばんは~」

 学校のトイレで涙が渇くのを待ち、夜になってどうにか家……唐渡さん家の自室まで辿り着き、ベッドに倒れ込むと、ふいにどこからか声が響いた。

「……だれ?」

 どのくらい経ったのか。枕に顔を埋めたまま、力無い言葉で問いかける。けれど、その声の主は聞かずともわかった。

「もう忘れたのか? 昨日の夜に、契約しただろ?」

「……つき」

「なに?」

「嘘つき! 私は、唐渡さんと入れ替わりたいなんて言ってない!」

 そうだ。私は確かに「高野くんの隣にいたい」とは言ったけど、こんな形では望んでいなかった。契約なら、こんなの無効だ。

「嘘、ねぇ~。高野くんの隣にいたーいとしか、聞いてないけどねぇ~」

「そんなの、私だって唐渡さんの中に入るなんて聞いてない!」

「そりゃあ、言ってないんだから当然だろう?」

 身勝手だと思った。
 ……でも、それは私も同じだ。

「……戻してよ」

 けれど、私はさらにわがままな要求を口にした。

「なに?」

「戻して! 私を、私の身体の中に戻して!」

 もう、こんな気持ちはしたくなかった。
 高野くんは、きっと私のことを好きでいてくれた。少なくとも、意識してくれていた。それに気づかず、私は自分を貶めて、悪魔みたいなやつに願ってしまった。
 そして今、私は唐渡さんの中にいる。
 現状、高野くんに一番近い、隣に長くいれる存在になっている。
 でもそれは、幻だった。幻の居場所だった。
 高野くんの笑顔が、ずっと脳裏から離れてくれない。
 私に向けられるはずだった笑顔を、大好きな笑顔を、まさか遠くから、また眺めることになるなんて。

「クックック、ハハハハハハッ!」

「……な、なに?」

「さすがは人間だな。なんとも自己中心的で、身勝手で、わがままな存在なんだろうな。恥ずかしいったらありゃしない」

「そ、それは……」

 返す言葉もない。
 勝手に願って、唐渡さんの身体に入れられた時は戸惑ったけれど、一時はこのままでもいいかもと思っておいて、今度は本来の自分に好意が向けられていると知ったら戻せ、だ。確かに、何様なんだろう。

「お前もお前だが、あやつもあやつだ。まったく、あとは本人同士で話し合え」

「え?」

 跳ね起きると、そこは唐渡さんの部屋ではなかった。
 なぜか、いつもの教室にいた。

「こんにちは、南さん……ううん。今は唐渡さん、かな?」

「え……?」

 そしてそこにいたのは、ひとりのクラスメイト。
 地味で目立たない、なんともパッとしないその格好は……紛れもない、「私」だった。
 小さな笑みを口元にたたえて、静かに歩み寄ってくる。

「今日一日、あなたの身体を使わせてもらって、すごく楽しかった。あなたもすごく楽しそうにしていたし、良かったら一生このままでいない? “私"は、大歓迎だよ」

「あ、あなたはもしかして……」

 その姿は、「私」のはずだった。
 でも、放課後の教室で見た時と同じく、なぜかいつもよりも可愛く見えた。なにより、さらに深めたその笑顔には、見覚えがあった。

「唐渡、さん?」

 ずっと、私は高野くんを遠くから眺めていた。
 そしてそれは、必然的に唐渡さんも視界を収めることを意味していた。いつも彼の隣で笑う彼女の笑顔は可愛くて、本当に心から憧れていた。
 私もあんなふうになれたら。
 そう思っていた姿が、目の前にあった。
 私の身体に入った唐渡さんは、さらに近づいてきた。

「そうだよ。今日一日、あなたと私は入れ替わっていたんだ。あなたと、私のお願いのせいで、ね」

 そしてまた、衝撃的な言葉を口にした。

「え? どういう、こと?」

「そのままの意味だよ。あなたは周人の隣にいたいと願い、私もまた彼の好きな人になりたいと願った。その結果、あなたと私は入れ替わったみたいなんだ」

「ど、どうして……」

 驚きのあまり、うまく言葉が出てこない。
 どうして、あの唐渡さんが?
 あんなに可愛くて、ずっと憧れて、羨ましく思っていたほどの唐渡さんが……?

「……私は、あなたが羨ましかった。いつからか、周人はあなたのことを見ていることが多くなっていた。気づいてなかったでしょ?」

「う、うん……」

「私ね、どうしようもなく悔しかった。ずっと昔から周人のことが好きだったから。周人に相応しい人になろうって思って、メイクとかオシャレとか周人の好みに必死に合わせて、姿勢とか表情も勉強してたんだよ」

 すぐ目の前にある「私」の顔が歪む。彼女は、すごく悲しそうに笑った。

「なのに……周人は私を見てくれなかった。好きになってもらう努力をしていないあなたに。自分を卑下して、可哀想って慰めて、それでも変わろうとしない、あなたに……っ!」

「ひっ!」

 胸ぐらを掴まれた。
 いつの間にか、「私」だったはずの悲しい笑顔は、唐渡さんの笑顔になっていた。身体が、元に戻っていた。

「不公平だと思わない? だから私は、周人の好きな人になりたいって願った! そうして目覚めたら、あなたの身体に入ってた。戸惑ったけど、同時に嬉しくもあった。ようやく、周人の好きな人になれたんだから……!」

 ひと息に、彼女は言葉をまくしたてた。私は何も言えず、ただただなされるがままになっていた。
 そんなに、唐渡さんが努力をしていたなんて思ってもみなかった。才能だと、持って生まれた性格なんだと、ずっと思っていた。私は……本当にバカだ。
 
「そして放課後に、周人がいる教室に行って、周人とお喋りをした。楽しかった! すっごく楽しかった! あんな表情……見たことなかった。あの笑顔を、ずっと向けてほしかった笑顔を……私に向けてくれた」

 そこで、彼女は手を離した。胸の辺りがズキズキと痛んだ。

「向けて、くれたのに……悲しかった」

 可愛くて、憧れていた笑顔は、そこになかった。
 彼女は、唐渡さんは……まるで、いつもの私みたいに泣いていた。

「あの笑顔は……私じゃなくて、あなたに向けられたもの。それがわかった時、どうしようもなく悲しくなった。やっぱり私に、私に……向けてほしかった……っ!」

「唐渡、さん……」

 彼女も、私と何も変わらなかった。
 同じ人間で、恋に悩む普通の女子高校生だった。
 唐渡さんは強く目元を擦ると、そのまま右手を差し出した。

「一生このままで大歓迎って言ったけど、あれは嘘。大嘘。絶対に嫌だ。やっぱり私は、諦めきれない。だから、元の身体に戻りたい。戻って、今度こそ周人を振り向かせてみせる。あなたに、負けたくない!」

 今日の放課後と同じ、夕陽の色に染められた教室で、私と唐渡さんは向かい合っていた。
 差し出された右手は、宣戦布告。
 高野くんの気持ちは、今は私に向いているみたいだけど、油断はできない。
 それに、唐渡さんの言うとおり、私はぜんぜん努力をしてこなかった。仮に高野くんとデートをしても、すぐに幻滅されてあっという間にひっくり返されるかもしれない。
 ……でも。それでも。
 やるなら、変わるなら……今しかない!

「……っ! 私も! 私も、遠くから高野くんを眺め続けるなんて絶対嫌だ! 元の身体に戻って、唐渡さんみたいに努力して、変わって……私自身として、高野くんの隣にずっといたい!」

 私は、唐渡さんの右手を強く握った。視界の端に、光が満ち始める。

「いい啖呵だね。まあ、そう簡単に変われないと思うけど」

「か、唐渡さんも! そう簡単に高野くんの気持ちは渡さないから!」

「臨むところ!」

 唐渡さんも、強く私の右手を握ってきた。
 痛かったけれど、なぜかとても心地良かった。

 そこで、視界いっぱいに光が溢れ出した。

 夢から覚める時。

 そして。覚めた時からが、本当の勝負だ。

 新しい朝の、始まりだ。

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