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第一章 再び始まった君との日々に
第1話
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病院の敷地に入ると、春の陽射しを受けてその身を桃色に染めた花弁が数枚、視界を横切っていった。温かい風はその綺麗な花弁を逃すまいと掬い上げ、筋雲ばかりが流れる青空へと運んでいく。
けれど僕はその行く末を最後まで見守ることなく目を逸らすと、そのままため息混じりにエントランスのある方角へと足先を向けた。
「ふう」
昔から行き慣れたところともなれば、さすがに迷うことも緊張することもない。ただ慣れ過ぎたがゆえに、病院の周囲に咲き誇る見事な桜にすら目を留めなくなったのは残念なことかもしれない。
もっとも、そんな思考とは裏腹に、一ミリも寂しさや悲しさを感じることなく僕は病院の建物内へと入っていく。
ツンと、病院独特の匂いが鼻先を衝いた。外気の春の香りは瞬く間に薄くなり、消毒液や名前も知らない医薬品の匂いに上書きされていく。こちらは何度も嗅いだといえど、さすがに慣れるものではない。僕は僅かに顔をしかめて、足早に受付へと向かった。
いつも通り機械を操作して受付を済ませ、循環器科の外来がある二階に上がる。こちらでも手続きを済ませれば、後は順番が来るまで診察室の前で待っていればいい。
「はあ」
診察室前の長椅子に座り、僕はもう一度肺に溜まった空気を吐いた。
今日から高校二年生になったというのに、新学期早々に通院で遅刻だなんてついてない。まあこれは前回病院に来た時に適当に日にちを指定してしまった僕に責任があるので、自業自得と言えばそれまでだが。
それに、あまり社交的ではない僕は率先して友達を作るつもりもないので、むしろ本格的な授業がない今日は通院するのに打って付けの日といえなくもない。うん、そうだ。そういうことにしよう。
「名執さ~ん、どうぞ~」
自分の中で納得する理由付けをしたと同時に、診察室から顔を出した看護師さんに名前を呼ばれた。促されるがままに診察室に入ると、幼い頃から担当してくれている村河先生と目が合った。
「やあ、健悟くん。前回から二ヵ月経ってるけど、調子はどう?」
「べつに、まったく問題ないですね。すこぶる元気です」
見た目に違わず爽やかな口調で尋ねられた問いに、僕はぶっきらぼうに答えた。しかし最早予想通りとばかりに村河先生は気にした様子もなく、「それは良かった」とこれまた涼し気な笑顔を見せてきた。
僕は、生まれつき心臓があまり強くない。命に関わるようなものではないが、二~三ヵ月に一度、こうして診察に通い、時には血液検査やレントゲン検査をしている。けれど、これといって薬を処方されるわけでもなく、すっかり聞き飽きた注意事項の説明を受けて終わる。
「それじゃあ、今日は血液検査だけしていこうか。そっちの診察台に座ってくれるかな?」
そして前回説明された通り、今日は検査のある日らしい。注射は特段苦手ではないが、血液検査のある日は結果が出るまでそれなりの時間待たされることになる。いつもなら学校の課題なんかをして時間を潰しているのだが、こと今日に限ってはまだ高校二年生の授業も始まっていないのでやることもない。ちょうど読んでいる文庫本も家に忘れてきたし、本当に何をしていようか。
看護師さんが手際よく採血をしているのをぼんやりと見つめながら、僕はこの後に生まれる暇な時間の使い方を考えていた。けれど、短時間で思い浮かぶはずもなく、早々に血を取られると、一時間後くらいにまた診察室の前にある廊下で待っているよう言われた。
一時間か、結構あるな。
病院に来るまでの道中でスマホもいじり飽きた僕は、久しぶりに院内やその敷地内を散策してみることにした。先ほど横目でスルーした桜も、こういう時間ができるのであれば話はべつだ。推奨されている適度な運動にもなるし、ちょうどいい。
僕は指定された時間までの間、病院内を歩き回った。
幼い頃は、今以上の頻度でこの病院に通っていた時期があった。我ながら今の僕は冷めていて捻くれている自覚があるが、当時の僕は実に年齢相応の素直さと明るさがあった。校外の一軒家である自分の家よりも数十倍は広い総合病院に興味津々で、父や母を置き去りにしてはあちこちを探検していた。おかげで、この病院の構造については関係者でもないのにそれなりに詳しい。
ほんと、全然変わってないな。
お菓子の品揃えがちょっとマニアックな売店、オムライスが美味しいレストラン、かつて飴をくれたおじいちゃんと出会ったエントランスホール、暇すぎたあまり入って遊び、びしょ濡れになって怒られた病院裏を流れる小川。
そして、行きしなにも視界に収めた春の訪れを感じさせる桜並木も、十年以上まったく変わっていなかった。
「十年、か」
無意識に口からつぶやきが漏れる。普段はまったくと言っていいほど動かない心が、今日ばかりは少しばかり揺れ動いていた。
院内を散策していると、どうしてもあの日のことが脳裏を過ぎった。
今となっては誰もが持っているような幼き日の思い出の一片で、現在の生活には一ミリも影響を及ぼさない記憶だ。時おり胸中に去来する懐かしさや一抹の物寂しさを感じさせるばかりで、それ以上の効果はまるでない。
ただそれでも、今日ばかりはそんなセピア色の情景が、僕の足を自然と五階にある屋上庭園に向かわせていた。
大きめのエレベーターに乗り、到着までのひと時を壁に設置された鏡に映る自分と過ごす。そこにいる自分は男子高校生にしては小柄で痩せており、物言いたげな表情で僕を見つめ返していた。
ポーンという楽器のような音色が到着を告げると、僕は踵を返してエレベーターを降りる。屋上庭園へは、真っ直ぐに伸びる廊下を二回ほど曲がり、外と仕切られたサッシ戸を開けば行くことができる。一般開放されており、季節に応じた花々が咲いているその場所では、入院患者や一般来院者が束の間のリラックスタイムを過ごしていた。
随分と久しぶりに訪れた屋上庭園には、今日も病衣に身を包んだ入院患者と思しき人がひとり、花壇に咲いたワスレナグサを愛でていた。髪が長く、しゃがんだ華奢な後ろ姿から察するに、おそらく女性だろうか。
すると唐突に、その女性は振り返った。
きっと、僕が開けた扉が立てた音に反応したんだと思う。
自然、目が合う。普通なら無視するか、軽く会釈するだけの一場面のはずだが、そうはならなかった。
「君は――」
「わーっ、久しぶりだね! もしかしてもしかしなくても、名執健悟くん、だよね?」
一拍の間を置いた後、その女性の表情はみるみるうちに緩んでいった。
僕の脳裏にずっと浮かんでいたセピア色の記憶が、彩りを取り戻していく。
「そういう君は、もしかして幸?」
「うん、そうだよ! 野寄幸! 良かった、覚えててくれて!」
十年ぶりに再会した彼女は、あの日と変わらない満面の笑顔を向けてきた。
これが、僕と彼女の再会だった。
けれど僕はその行く末を最後まで見守ることなく目を逸らすと、そのままため息混じりにエントランスのある方角へと足先を向けた。
「ふう」
昔から行き慣れたところともなれば、さすがに迷うことも緊張することもない。ただ慣れ過ぎたがゆえに、病院の周囲に咲き誇る見事な桜にすら目を留めなくなったのは残念なことかもしれない。
もっとも、そんな思考とは裏腹に、一ミリも寂しさや悲しさを感じることなく僕は病院の建物内へと入っていく。
ツンと、病院独特の匂いが鼻先を衝いた。外気の春の香りは瞬く間に薄くなり、消毒液や名前も知らない医薬品の匂いに上書きされていく。こちらは何度も嗅いだといえど、さすがに慣れるものではない。僕は僅かに顔をしかめて、足早に受付へと向かった。
いつも通り機械を操作して受付を済ませ、循環器科の外来がある二階に上がる。こちらでも手続きを済ませれば、後は順番が来るまで診察室の前で待っていればいい。
「はあ」
診察室前の長椅子に座り、僕はもう一度肺に溜まった空気を吐いた。
今日から高校二年生になったというのに、新学期早々に通院で遅刻だなんてついてない。まあこれは前回病院に来た時に適当に日にちを指定してしまった僕に責任があるので、自業自得と言えばそれまでだが。
それに、あまり社交的ではない僕は率先して友達を作るつもりもないので、むしろ本格的な授業がない今日は通院するのに打って付けの日といえなくもない。うん、そうだ。そういうことにしよう。
「名執さ~ん、どうぞ~」
自分の中で納得する理由付けをしたと同時に、診察室から顔を出した看護師さんに名前を呼ばれた。促されるがままに診察室に入ると、幼い頃から担当してくれている村河先生と目が合った。
「やあ、健悟くん。前回から二ヵ月経ってるけど、調子はどう?」
「べつに、まったく問題ないですね。すこぶる元気です」
見た目に違わず爽やかな口調で尋ねられた問いに、僕はぶっきらぼうに答えた。しかし最早予想通りとばかりに村河先生は気にした様子もなく、「それは良かった」とこれまた涼し気な笑顔を見せてきた。
僕は、生まれつき心臓があまり強くない。命に関わるようなものではないが、二~三ヵ月に一度、こうして診察に通い、時には血液検査やレントゲン検査をしている。けれど、これといって薬を処方されるわけでもなく、すっかり聞き飽きた注意事項の説明を受けて終わる。
「それじゃあ、今日は血液検査だけしていこうか。そっちの診察台に座ってくれるかな?」
そして前回説明された通り、今日は検査のある日らしい。注射は特段苦手ではないが、血液検査のある日は結果が出るまでそれなりの時間待たされることになる。いつもなら学校の課題なんかをして時間を潰しているのだが、こと今日に限ってはまだ高校二年生の授業も始まっていないのでやることもない。ちょうど読んでいる文庫本も家に忘れてきたし、本当に何をしていようか。
看護師さんが手際よく採血をしているのをぼんやりと見つめながら、僕はこの後に生まれる暇な時間の使い方を考えていた。けれど、短時間で思い浮かぶはずもなく、早々に血を取られると、一時間後くらいにまた診察室の前にある廊下で待っているよう言われた。
一時間か、結構あるな。
病院に来るまでの道中でスマホもいじり飽きた僕は、久しぶりに院内やその敷地内を散策してみることにした。先ほど横目でスルーした桜も、こういう時間ができるのであれば話はべつだ。推奨されている適度な運動にもなるし、ちょうどいい。
僕は指定された時間までの間、病院内を歩き回った。
幼い頃は、今以上の頻度でこの病院に通っていた時期があった。我ながら今の僕は冷めていて捻くれている自覚があるが、当時の僕は実に年齢相応の素直さと明るさがあった。校外の一軒家である自分の家よりも数十倍は広い総合病院に興味津々で、父や母を置き去りにしてはあちこちを探検していた。おかげで、この病院の構造については関係者でもないのにそれなりに詳しい。
ほんと、全然変わってないな。
お菓子の品揃えがちょっとマニアックな売店、オムライスが美味しいレストラン、かつて飴をくれたおじいちゃんと出会ったエントランスホール、暇すぎたあまり入って遊び、びしょ濡れになって怒られた病院裏を流れる小川。
そして、行きしなにも視界に収めた春の訪れを感じさせる桜並木も、十年以上まったく変わっていなかった。
「十年、か」
無意識に口からつぶやきが漏れる。普段はまったくと言っていいほど動かない心が、今日ばかりは少しばかり揺れ動いていた。
院内を散策していると、どうしてもあの日のことが脳裏を過ぎった。
今となっては誰もが持っているような幼き日の思い出の一片で、現在の生活には一ミリも影響を及ぼさない記憶だ。時おり胸中に去来する懐かしさや一抹の物寂しさを感じさせるばかりで、それ以上の効果はまるでない。
ただそれでも、今日ばかりはそんなセピア色の情景が、僕の足を自然と五階にある屋上庭園に向かわせていた。
大きめのエレベーターに乗り、到着までのひと時を壁に設置された鏡に映る自分と過ごす。そこにいる自分は男子高校生にしては小柄で痩せており、物言いたげな表情で僕を見つめ返していた。
ポーンという楽器のような音色が到着を告げると、僕は踵を返してエレベーターを降りる。屋上庭園へは、真っ直ぐに伸びる廊下を二回ほど曲がり、外と仕切られたサッシ戸を開けば行くことができる。一般開放されており、季節に応じた花々が咲いているその場所では、入院患者や一般来院者が束の間のリラックスタイムを過ごしていた。
随分と久しぶりに訪れた屋上庭園には、今日も病衣に身を包んだ入院患者と思しき人がひとり、花壇に咲いたワスレナグサを愛でていた。髪が長く、しゃがんだ華奢な後ろ姿から察するに、おそらく女性だろうか。
すると唐突に、その女性は振り返った。
きっと、僕が開けた扉が立てた音に反応したんだと思う。
自然、目が合う。普通なら無視するか、軽く会釈するだけの一場面のはずだが、そうはならなかった。
「君は――」
「わーっ、久しぶりだね! もしかしてもしかしなくても、名執健悟くん、だよね?」
一拍の間を置いた後、その女性の表情はみるみるうちに緩んでいった。
僕の脳裏にずっと浮かんでいたセピア色の記憶が、彩りを取り戻していく。
「そういう君は、もしかして幸?」
「うん、そうだよ! 野寄幸! 良かった、覚えててくれて!」
十年ぶりに再会した彼女は、あの日と変わらない満面の笑顔を向けてきた。
これが、僕と彼女の再会だった。
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