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第三章 君と交わしたサヨナラの先に
第26話
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白山が帰ると、病室は急に静かになった。
「はあ~ほんと、楽しかったなあ~~」
幸は白山からもらったコスメボックスをしげしげと見つめながら、余韻に浸るようにつぶやいた。
「来年は、きっと、もっと楽しくなると思うよ」
白山の思いを勝手に引き継いで僕が言えば、幸はまた嬉しそうに目を細める。
「え~ほんとに~?」
「ほんともほんと」
「ふふっ、そっか。それは楽しみだなあ」
幸はコスメボックスを撫で上げると、そっとサイドボードの上に置いた。
そこに諦めたような色はない。
しかも、手術への不安とか、恐怖とか、悲しさすら感じられなかった。
どうして……?
僕が思わず問いかけようとしたところで、幸は再びサイドボードの引き出しを開けて例のノートを取り出して言った。
「ねえ、健悟くん。ちょっと抜け出そうか」
「え?」
「ほら、早く」
幸は身軽な動作でベッドから降りると、少しよろめきつつも確かな足取りで出入り口のほうへ向かう。その際に、そっと僕の袖を掴んで引いた。
僕はまた、幸に促されるがままに歩いた。一応はまだ面会時間の終わり際ということもあって、廊下にはちらほらと来院者の姿が見えた。看護師さんたちも数名いたが、幸は特に気にした様子もなくエレベーターに乗ると、迷いなく五階のボタンを押した。
道中、僕らは無言だった。
エレベーターに乗ってからも、それは変わらなかった。
横目で幸を見れば、彼女は右手であのノートを抱き締め、左手は僕の袖を掴みつつ、静かに目を閉じていた。
やがてエレベーターは目的の階へと到着し、僕らはゆったりとした足取りで廊下を歩いていく。
目的地は、尋ねるまでもなかった。
「わぁ……見て」
誰もいない屋上庭園を越えた、遥か彼方まで続く空は、茜色から群青色までのグラデーションに彩られていた。群青色の中には微かに光を放つ星が見え、昼と夜の狭間が淡く、儚げに広がっていた。
「綺麗だね」
僕はしばらく間を置いてから、やっとそれだけを言った。
どちらともなく屋上庭園の際まで歩くと、敷設されたベンチに腰を下ろす。
「健悟くん。ほんとに、ありがとね」
幸はしみじみと味わうようにお礼を口にした。昼とは異なる夜の涼風が、幸の髪を嫋やかにたなびかせる。
「さっきも聞いたよ」
「いいじゃん。お礼は何回言っても」
「まあ、いいけど」
また、風が吹きつけた。雨の匂いがした。けれど、空にはほとんど雲はない。
「私、明日からまた手術に向けてたくさん検査とかするらしくて。もしかしたら話せないかもしれないから、今のうちに言っておこうかと思って」
「なにを?」
「だから、お礼」
風につられて、僕は彼女のほうへと目を向けた。自然、目が合う。
「私、健悟くんと出会えてよかった。そこだけは、神様に感謝してる」
心の底から嬉しそうに幸は笑う。
「なに、いきなり」
でも、僕は笑えなかった。
正直、戸惑っていた。
なんで幸は、今になってそんなことを言うのか。
「大きな病気になっちゃって、余命宣告をされて、薬をたくさん飲んでなんとか毎日生きてきて、数日後には生死を賭けた手術を受けて……なんて、波乱万丈もいいとこな人生を送ってきたけど、健悟くんと一緒に死ぬまでにやりたいことをいろいろやれて、本当に楽しかった。だから、ありがとう」
「待って、幸」
「ううん、待たない。こういうことは言わないポリシーで来たけど、気持ちは思ってるだけじゃ伝わらないから。だから、伝えたい気持ちは言える時に言っておきたいんだ」
幸の声は真っ直ぐだった。
怯えや諦めは一切なくて、どうしてそんな表情ができるのかと思うくらいに、柔らかかった。
「……それも、死ぬまでにやりたいこと?」
僕は一度息を呑んでから訊いた。すると幸は、迷うことなく頷いてみせた。
「うん。そだよ」
「そっか。だったら僕も、言いたいことがある」
それほどまでの覚悟に当てられて、僕が怖気づいているわけにはいかないと思った。
またひとつ、息を吸って、吐いた。
幸はそんな僕の様子を見つめながら、待っていた。
待って、くれていた。
だから僕は、恐怖で震えそうな心を、悲しみで締め付けられそうな心を、迫り来る現実から逃げてしまいそうな心を抑えて、口を開いた。
「僕は、幸のことが好きだ」
風が止んだ。
心臓の音ばかりが響いていた。
幸は僕を見つめていた。
僕も、幸を見つめていた。
いつの間にか月が出ていて、やがて、幸の瞳の中で薄く揺らいだ。
「……ありがとう」
そこで初めて、幸の声が震えていた。
幸は、それ以上なにも言わなかった。
「はあ~ほんと、楽しかったなあ~~」
幸は白山からもらったコスメボックスをしげしげと見つめながら、余韻に浸るようにつぶやいた。
「来年は、きっと、もっと楽しくなると思うよ」
白山の思いを勝手に引き継いで僕が言えば、幸はまた嬉しそうに目を細める。
「え~ほんとに~?」
「ほんともほんと」
「ふふっ、そっか。それは楽しみだなあ」
幸はコスメボックスを撫で上げると、そっとサイドボードの上に置いた。
そこに諦めたような色はない。
しかも、手術への不安とか、恐怖とか、悲しさすら感じられなかった。
どうして……?
僕が思わず問いかけようとしたところで、幸は再びサイドボードの引き出しを開けて例のノートを取り出して言った。
「ねえ、健悟くん。ちょっと抜け出そうか」
「え?」
「ほら、早く」
幸は身軽な動作でベッドから降りると、少しよろめきつつも確かな足取りで出入り口のほうへ向かう。その際に、そっと僕の袖を掴んで引いた。
僕はまた、幸に促されるがままに歩いた。一応はまだ面会時間の終わり際ということもあって、廊下にはちらほらと来院者の姿が見えた。看護師さんたちも数名いたが、幸は特に気にした様子もなくエレベーターに乗ると、迷いなく五階のボタンを押した。
道中、僕らは無言だった。
エレベーターに乗ってからも、それは変わらなかった。
横目で幸を見れば、彼女は右手であのノートを抱き締め、左手は僕の袖を掴みつつ、静かに目を閉じていた。
やがてエレベーターは目的の階へと到着し、僕らはゆったりとした足取りで廊下を歩いていく。
目的地は、尋ねるまでもなかった。
「わぁ……見て」
誰もいない屋上庭園を越えた、遥か彼方まで続く空は、茜色から群青色までのグラデーションに彩られていた。群青色の中には微かに光を放つ星が見え、昼と夜の狭間が淡く、儚げに広がっていた。
「綺麗だね」
僕はしばらく間を置いてから、やっとそれだけを言った。
どちらともなく屋上庭園の際まで歩くと、敷設されたベンチに腰を下ろす。
「健悟くん。ほんとに、ありがとね」
幸はしみじみと味わうようにお礼を口にした。昼とは異なる夜の涼風が、幸の髪を嫋やかにたなびかせる。
「さっきも聞いたよ」
「いいじゃん。お礼は何回言っても」
「まあ、いいけど」
また、風が吹きつけた。雨の匂いがした。けれど、空にはほとんど雲はない。
「私、明日からまた手術に向けてたくさん検査とかするらしくて。もしかしたら話せないかもしれないから、今のうちに言っておこうかと思って」
「なにを?」
「だから、お礼」
風につられて、僕は彼女のほうへと目を向けた。自然、目が合う。
「私、健悟くんと出会えてよかった。そこだけは、神様に感謝してる」
心の底から嬉しそうに幸は笑う。
「なに、いきなり」
でも、僕は笑えなかった。
正直、戸惑っていた。
なんで幸は、今になってそんなことを言うのか。
「大きな病気になっちゃって、余命宣告をされて、薬をたくさん飲んでなんとか毎日生きてきて、数日後には生死を賭けた手術を受けて……なんて、波乱万丈もいいとこな人生を送ってきたけど、健悟くんと一緒に死ぬまでにやりたいことをいろいろやれて、本当に楽しかった。だから、ありがとう」
「待って、幸」
「ううん、待たない。こういうことは言わないポリシーで来たけど、気持ちは思ってるだけじゃ伝わらないから。だから、伝えたい気持ちは言える時に言っておきたいんだ」
幸の声は真っ直ぐだった。
怯えや諦めは一切なくて、どうしてそんな表情ができるのかと思うくらいに、柔らかかった。
「……それも、死ぬまでにやりたいこと?」
僕は一度息を呑んでから訊いた。すると幸は、迷うことなく頷いてみせた。
「うん。そだよ」
「そっか。だったら僕も、言いたいことがある」
それほどまでの覚悟に当てられて、僕が怖気づいているわけにはいかないと思った。
またひとつ、息を吸って、吐いた。
幸はそんな僕の様子を見つめながら、待っていた。
待って、くれていた。
だから僕は、恐怖で震えそうな心を、悲しみで締め付けられそうな心を、迫り来る現実から逃げてしまいそうな心を抑えて、口を開いた。
「僕は、幸のことが好きだ」
風が止んだ。
心臓の音ばかりが響いていた。
幸は僕を見つめていた。
僕も、幸を見つめていた。
いつの間にか月が出ていて、やがて、幸の瞳の中で薄く揺らいだ。
「……ありがとう」
そこで初めて、幸の声が震えていた。
幸は、それ以上なにも言わなかった。
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