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第三章「恋と欲望」
【結城】10 決起集会
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「やっぱり何事もチームビルディングが大事ですよね! 今夜はみんなでたっぷり飲んで、たっぷり食べて、親睦を深めていきましょう! そして俺たち若手の力で『岩田屋にくにくフェスティバル』を必ず成功させましょう! 乾杯!」
田岡の音頭で『決起集会』と言う名の飲み会が始まった。
会場となったのは、岩田屋町役場から少し東に歩いたところにある創作居酒屋「のんべえ」だった。この周辺は大学生が多いエリアなので、定食屋や居酒屋が集中している。
「のんべえ」も、そういった大学生向けの店の一つだった。
店の奥の座敷に、岩田屋町役場の若手職員――大体三十過ぎまでが若手と呼ばれる――と、『にくにくフェスティバル』関係者の中の年若な者が集まっていた。その数は男女合わせて十五名。
結城もその中に入っていた。
『決起集会』は始まったばかりだが、飲み会好きの人間たちは最初からハイテンションだった。
「マジで!?」
結城の隣の席の男が、馬鹿でかい声で叫ぶ。
「マジマジ!! あいつマジだから!!」
向かいに座っている男がビールを煽って答える。その隣の奴は何がおかしいのかゲラゲラ笑っている。
田岡が声を掛けて集めたメンバーには、岩田屋高校サッカー部のOBも数名いて、既に場の雰囲気を掌握していた。
えーおかしーと斜め向かいの別の課の女の子が笑っている。結城の記憶が確かなら、総務課の女の子だ。
結城は限りなく存在感をゼロにしながら、北村が取り分けてくれた豆腐とちりめんじゃこのサラダをもぐもぐと口に運んだ。
「――って岩高サッカー部、地元愛深すぎじゃないですかー!」
話の流れはさっぱり分からないが、北村がいつにない甲高い声で何かに相槌を打った。
「それ昔からなんだよねー! あとタケマルって分かる? バスケ部の? あいつの話聞く?」
何でこの場に呼ばれているのかよく分からない岩田屋町役場の近くのうどん屋の二代目――おそらく同世代だ――が北村の相槌に食いついていく。北村が、えーききたいですーと被せる。
結城はやたらしょっぱい枝豆を口の中に放り込みながら、壁のえらく古いアサヒスーパードライのポスターを眺める。去年、朝ドラで主演を務めた女優だった。大物になった今ではありえない露出度のビキニを着ている。
その胸の谷間を見ながら、結城はアイに会いたいなと思った。ズボンの尻のポケットからスマホを取り出してLINEを立ち上げる。
『まゆみ』から新しいメッセージは届いていなかった。
宝塚記念を二人で見に行った後、アイはときどきメッセージをくれた。おはようとか、おやすみとか、何を食べたとか、そういう特に意味のないものが多かったが、結城はそれに一言二言返信をするのが楽しみだった。
スマホを仕舞った結城は、次々に運ばれて来る料理を取り分けては口に放り込む。皆あまり口をつけないので、美味しいものは二人分もらった。チキン南蛮はタルタルを山程つけて食べてやった。
「結城さん!」
突然隣に――いつの間にか無人になっていた――田岡がどかっと腰を下ろした。
「飲んでますか!」
「いや、俺は飲めないからウーロン茶だけど」
マジすかと言いながら、田岡は自分のジョッキを傾けてビールをぐびぐびと飲んだ。
「実は俺、結城さんのファンなんですよね」
かなり飲んでいるらしく、田岡の顔はトマトのように赤かった。目も充血している。
「落ち着き感?っていうんですかね。黙々と仕事に向かう姿勢とか。マジリスペクトしてますよ」
体育会系らしく、年長者である結城をしっかり持ち上げようとしてくれていた。具体的に褒めるところがないからか、言葉はファジーなものだったが。
ありがたいこったと結城は思った。
「いや、俺も田岡君にはいつも助けられてるから。今度の『にくにくフェスティバル』もよろしくね」
その薄っぺらい言葉を聞くと、田岡は満足そうに笑って、結城の背中をバシバシと叩いて次の人間のところに移動していった。
結城の胸の中に焼けた鉛のようなものが渦巻いていた。
外の空気が吸いたくなった。
靴をつっかけた結城は、人が座って狭くなったカウンター席の後ろをよろよろと通り抜けて「のんべえ」の外に出る。
ガラス戸一枚隔てると、店内の喧騒は一気に遠くなった。
初夏の夜の湿った空気がそこにあった。
そんなに人通りはなかったが、店の前に突っ立ってるのも間抜けだなと思った結城は、路地に繋がる店の横手に移動する。
そこには屋外用のスタンド灰皿が置いてあった。
意外な先客がいた。
北村が煙草を吸っていた。
結城の顔を見た北村は少しバツが悪そうに煙草を灰皿にねじ込んだ。
「いや、吸うんだ」
ポツリと感想をもらすと、北村は苦笑いをした。
「大学時代に悪い先輩に吸わされて。飲むと吸いたくなっちゃうんです」
北村もかなり飲んでいたからか、顔が火照っていた。アイボリーのブラウスに黒のパンツと、格好は役場にいる時と変わらないのだが、薄暗がりの中で見る北村はなんとなく普段と違って見えた。
「楽しそうだったね」
結城は素直に言ったつもりだったが。
「まあ、楽しいは楽しいですよ」
北村は曖昧な返事をした。
「地元ネタが多くてちょっとついて行けないですけど」
「――あれ? 北村さんって岩田屋じゃなかったっけ」
「私、東黒芦ですよ」
「え、俺は西黒芦」
結城は北村が岩田屋町出身だと思い込んでいた。黒芦は山を越えた隣町であり、結城の実家がある土地だった。
「なんか意外だな」
物凄く場に馴染んでいたので、てっきり岩田屋の人間かつ、岩田屋高校出身者だと思ったのだが。
「黒芦のドトールってまだあるのかな? 高校時代よく友達と行ったけど」
結城は大学卒業後は地元にまったく寄り付いていないので、黒芦町がどうなっているのか情報がなかった。
「ありますよ。テスト勉強のときみんなで飲み物一杯でめっちゃ粘ってましたよね」
なつかしいと笑って髪をかきあげた北村の右耳に、金のピアスがちらりと見えた。
北村はスマホを取り出して操作し始めた。画面のライトが暗がりを照らす。誰かとLINEでやりとりをしているようだ。
結城もスマホを取り出す。アイからのメッセージはない。
沈黙の中、耳を澄ますと「のんべえ」店内の騒ぎとは別の音がすることに結城は気付いた。低い音。リズムを刻む音。
それは隣の建物から漏れてくるベースとドラムの音だった。思わずその壁を見つめてしまう。隣の北村も音に気づいたらしく、同じように壁を見つめていた。
「隣、ライブハウスだったんですね」
「いや、知らなかったな。ライブハウスがあったなんて」
「私も。――あ、でももしかしたら高校時代に来たことがあるかも。知り合いのライブで」
「へえ」
音漏れから判断するに、演奏は佳境に入っているようだった。結城は文化不毛の地だと思っていた岩田屋にもこんな一面があるんだなと少し感動していた。
二人が座敷に戻ると、既にデザートが提供されていた。結城は溶けかけたゆずシャーベットを二人分食べた。
「二次会行く人ー!」という絶叫が夜の町に響く。結城はもちろん帰ることにした。一滴も飲んでいないから、役場まで歩いて戻って車で帰るのだ。
田岡がしつこく北村を誘っているのを横目に、結城はその場を離れる。「カラオケ行こう!カラオケ!」と誰かの楽しそうな声がする。
店から遠のくと、一気に夜の静けさが押し寄せてきた。
野良猫が路地から出てきて、結城の顔を見るとまた引っ込んでいった。
自分の足音だけを聞きながら、夜の道を進んでいる。
と。
バタバタと足音が近づいてきた。
「結城さん、同じ方向ですよね。乗せてってください」
振り返ると北村が少し息を切らせて立っていた。どうやら田岡から逃げ出してきたらしい。
断る理由もないので、結城は北村を送って帰ることにした。
「疲れてる?」
ゼスト・スパークの助手席に北村を乗せて、彼女が借りているアパートまで夜の道を飛ばす。
北村はぼんやり車窓から外を眺めていた。窓の外は、真っ暗な海――のようにも見える水田だった。岩田屋の夜は街灯が少ない。
北村は結城の言葉を無視して自分の話を始めた。
「昨日、大学時代の友達と電話で話してたらワーキングホリデーでオーストラリアに行くみたいな話になって」
「へえ」
ワーキングホリデーとは若者向けのある種の海外留学制度だ。その内容は、提携国の間で結ばれた協定により、若者が海外で休暇を取りながら滞在費のために就労をすることが認められるというものだった。十八歳から三十歳までの人間だけが利用できる。
「私も行きたいなぁって」
北村はシートに身体をもたれさせた。いつも溌剌と働いているイメージしかなかったので、そんなことを考えているとは思いもしなかった。今回の『にくにくフェスティバル』も、率先して様々な仕事をこなしているように思ったが。
やはりなかなか合格しない正規採用の試験を受けながら、非正規の仕事をするのはしんどいのだろうか。自分と同じように。
「そっちでいい仕事もいいパートナーも見つかるかもよ」
結城は無責任な軽口を叩いた。
それを聞いた北村は黙り込んだ。怒らせてしまったのかと焦るが、そうではなかったらしい。
「――実はマッチングアプリで知り合った男の人がいて。県外に住んでる人なんですけど」
突然、そういう話題に入ったので結城は一瞬呼吸が止まる。
北村は、とつとつとその相手の話を始めた。酔っているからなのか、内容が行ったり来たりして分かりづらかったが、まとめるとこうだ。
県外に住んでいる、古着屋を経営している四十代の男と一回お茶をして、今後どうするか悩んでいる。
「北村さんってそういう人好きそうだもんね」
「それどういう意味ですか」
少し険しい声で北村。
「なんか、特別感のある人が好きっていうか。昨日会ったキリンジさんもそうだったけど、ああいう自分の世界がある人が好きだよね。自分以上がいいっていうか」
「ナチュラルに暴言ですよ、それ」
結城は口を滑らせたかもしれないと自覚した。一滴も飲んではいないが、飲み会の場の空気にあてられていたのかもしれない。
北村は少し不機嫌そうに、
「結城さんはどうなんですか」
と言った。
「俺は何もないよ」
アイの顔を思い浮かべながら、するりと言い放つ。
「ないことないでしょ。最近ずっとスマホ見てるじゃないですか」
北村の目ざとさに少し驚いた。
「いや、ほんと全然だよ。俺なんか相手にしてくれるのはキャバクラとか風俗とかの女の子ぐらいじゃないの。いや、そういうの行ったことないけど」
車のハンドルを握ってお互い視線を合わせないと、平気で嘘が言えるのだなと結城は発見した。実は給料の大半を注ぎ込んで風俗に行っている、なんて同僚の女性には絶対に話せる内容ではない。
「それは恋愛じゃなくて、そういうサービスじゃないですか」
北村はやれやれと肩をすくめる。そして、ぼそりと言った。
「風俗とかやってる子って、私全然理解できないな」
思った以上の鋭さで、その言葉は結城の胸に刺さった。自分がその存在に気づいていながらも、あえて意識しないでおいた部分を、深く貫くような感触だった。
「そうなの」
渇いた口でその四文字だけを口にした。結城の内心など知らない北村は続ける。
「お金のために、自分の一番大事なものを売ってる訳じゃないですか。好きでもない男の人とそういうことをして」
好きでもない男。
「いや、でもさ、それぞれ事情があるかもしれないし。好きでそういう仕事してる人もいるかもしれない」
結城の反論は、自動で流れ出す音声のようだった。きっとそれは、いつかこんな時が来たときのために、無意識に用意していたものだったのかもしれない。それは自己弁護と呼ばれるものだった。
「そういう事情につけ込んで、女性をそのシステムの中に取り込んじゃうんですよね。で、取り込まれた側はきっと『好きでやってます』って言わざるを得ないんですよ」
北村はよどみなく言葉を紡いだ。きっとこれは、女性が持つ一般論に近いものなのだろう。
「ちょっと職業差別入ってない?」
まともに反論できそうにない結城は論点をずらした。北村は酔っているからか、特にそんなことには気を留めない。
「うーん、確かにそういう仕事をしてる知り合いがいないから、想像だけで喋ってるところはあるかもしれないです」
腕を組んで北村は言った。そして最後に、結城の頭を特大のハンマーでぶったたくようなことを言い放った。
「でも、そういう仕事をしてる女性の彼氏さんって、自分の彼女がそういう仕事をしてるって知っても、受け入れられるんですかね」
結城はハンドルを握る手が汗で滑らないことを祈った。夜の県道は、槻本山の山道よりも恐ろしい道になった。心臓が嫌になるぐらい速く鼓動を刻んでいた。
北村は結城を追い詰めたことなど知りもせず、
「あーあ、こんなつまんないことばっかり言ってるから、私も彼氏ができないんだろうな」
と笑った。
そのからっとした笑顔は、いつもの北村だった。
「俺もできないから」
気の利いた返しができるほど頭が働かない結城。
車はもう北村のアパートの近所まで来ていた。
と。
「――このままずっと二人共彼氏も彼女もできないままだったらどうします?」
暗い走る密室の中に放たれた北村の声は、今まで結城が聞いたこともないような複雑なニュアンスを含んでいるように思われた。
その言葉の意味は何なのか。
結城の脳裏に、イルミネーションの前ではしゃぐアイの姿がよぎった。
「――もしそうだったら」
車は走り続ける。点滅の赤信号を超える。
「――北村さんは迫水課長の愛人にでもなったらいいよ」
冗談めかして言ったつもりだったが。
北村はしばらく無言になった後、ぽつりと課長独身ですよと言った。
田岡の音頭で『決起集会』と言う名の飲み会が始まった。
会場となったのは、岩田屋町役場から少し東に歩いたところにある創作居酒屋「のんべえ」だった。この周辺は大学生が多いエリアなので、定食屋や居酒屋が集中している。
「のんべえ」も、そういった大学生向けの店の一つだった。
店の奥の座敷に、岩田屋町役場の若手職員――大体三十過ぎまでが若手と呼ばれる――と、『にくにくフェスティバル』関係者の中の年若な者が集まっていた。その数は男女合わせて十五名。
結城もその中に入っていた。
『決起集会』は始まったばかりだが、飲み会好きの人間たちは最初からハイテンションだった。
「マジで!?」
結城の隣の席の男が、馬鹿でかい声で叫ぶ。
「マジマジ!! あいつマジだから!!」
向かいに座っている男がビールを煽って答える。その隣の奴は何がおかしいのかゲラゲラ笑っている。
田岡が声を掛けて集めたメンバーには、岩田屋高校サッカー部のOBも数名いて、既に場の雰囲気を掌握していた。
えーおかしーと斜め向かいの別の課の女の子が笑っている。結城の記憶が確かなら、総務課の女の子だ。
結城は限りなく存在感をゼロにしながら、北村が取り分けてくれた豆腐とちりめんじゃこのサラダをもぐもぐと口に運んだ。
「――って岩高サッカー部、地元愛深すぎじゃないですかー!」
話の流れはさっぱり分からないが、北村がいつにない甲高い声で何かに相槌を打った。
「それ昔からなんだよねー! あとタケマルって分かる? バスケ部の? あいつの話聞く?」
何でこの場に呼ばれているのかよく分からない岩田屋町役場の近くのうどん屋の二代目――おそらく同世代だ――が北村の相槌に食いついていく。北村が、えーききたいですーと被せる。
結城はやたらしょっぱい枝豆を口の中に放り込みながら、壁のえらく古いアサヒスーパードライのポスターを眺める。去年、朝ドラで主演を務めた女優だった。大物になった今ではありえない露出度のビキニを着ている。
その胸の谷間を見ながら、結城はアイに会いたいなと思った。ズボンの尻のポケットからスマホを取り出してLINEを立ち上げる。
『まゆみ』から新しいメッセージは届いていなかった。
宝塚記念を二人で見に行った後、アイはときどきメッセージをくれた。おはようとか、おやすみとか、何を食べたとか、そういう特に意味のないものが多かったが、結城はそれに一言二言返信をするのが楽しみだった。
スマホを仕舞った結城は、次々に運ばれて来る料理を取り分けては口に放り込む。皆あまり口をつけないので、美味しいものは二人分もらった。チキン南蛮はタルタルを山程つけて食べてやった。
「結城さん!」
突然隣に――いつの間にか無人になっていた――田岡がどかっと腰を下ろした。
「飲んでますか!」
「いや、俺は飲めないからウーロン茶だけど」
マジすかと言いながら、田岡は自分のジョッキを傾けてビールをぐびぐびと飲んだ。
「実は俺、結城さんのファンなんですよね」
かなり飲んでいるらしく、田岡の顔はトマトのように赤かった。目も充血している。
「落ち着き感?っていうんですかね。黙々と仕事に向かう姿勢とか。マジリスペクトしてますよ」
体育会系らしく、年長者である結城をしっかり持ち上げようとしてくれていた。具体的に褒めるところがないからか、言葉はファジーなものだったが。
ありがたいこったと結城は思った。
「いや、俺も田岡君にはいつも助けられてるから。今度の『にくにくフェスティバル』もよろしくね」
その薄っぺらい言葉を聞くと、田岡は満足そうに笑って、結城の背中をバシバシと叩いて次の人間のところに移動していった。
結城の胸の中に焼けた鉛のようなものが渦巻いていた。
外の空気が吸いたくなった。
靴をつっかけた結城は、人が座って狭くなったカウンター席の後ろをよろよろと通り抜けて「のんべえ」の外に出る。
ガラス戸一枚隔てると、店内の喧騒は一気に遠くなった。
初夏の夜の湿った空気がそこにあった。
そんなに人通りはなかったが、店の前に突っ立ってるのも間抜けだなと思った結城は、路地に繋がる店の横手に移動する。
そこには屋外用のスタンド灰皿が置いてあった。
意外な先客がいた。
北村が煙草を吸っていた。
結城の顔を見た北村は少しバツが悪そうに煙草を灰皿にねじ込んだ。
「いや、吸うんだ」
ポツリと感想をもらすと、北村は苦笑いをした。
「大学時代に悪い先輩に吸わされて。飲むと吸いたくなっちゃうんです」
北村もかなり飲んでいたからか、顔が火照っていた。アイボリーのブラウスに黒のパンツと、格好は役場にいる時と変わらないのだが、薄暗がりの中で見る北村はなんとなく普段と違って見えた。
「楽しそうだったね」
結城は素直に言ったつもりだったが。
「まあ、楽しいは楽しいですよ」
北村は曖昧な返事をした。
「地元ネタが多くてちょっとついて行けないですけど」
「――あれ? 北村さんって岩田屋じゃなかったっけ」
「私、東黒芦ですよ」
「え、俺は西黒芦」
結城は北村が岩田屋町出身だと思い込んでいた。黒芦は山を越えた隣町であり、結城の実家がある土地だった。
「なんか意外だな」
物凄く場に馴染んでいたので、てっきり岩田屋の人間かつ、岩田屋高校出身者だと思ったのだが。
「黒芦のドトールってまだあるのかな? 高校時代よく友達と行ったけど」
結城は大学卒業後は地元にまったく寄り付いていないので、黒芦町がどうなっているのか情報がなかった。
「ありますよ。テスト勉強のときみんなで飲み物一杯でめっちゃ粘ってましたよね」
なつかしいと笑って髪をかきあげた北村の右耳に、金のピアスがちらりと見えた。
北村はスマホを取り出して操作し始めた。画面のライトが暗がりを照らす。誰かとLINEでやりとりをしているようだ。
結城もスマホを取り出す。アイからのメッセージはない。
沈黙の中、耳を澄ますと「のんべえ」店内の騒ぎとは別の音がすることに結城は気付いた。低い音。リズムを刻む音。
それは隣の建物から漏れてくるベースとドラムの音だった。思わずその壁を見つめてしまう。隣の北村も音に気づいたらしく、同じように壁を見つめていた。
「隣、ライブハウスだったんですね」
「いや、知らなかったな。ライブハウスがあったなんて」
「私も。――あ、でももしかしたら高校時代に来たことがあるかも。知り合いのライブで」
「へえ」
音漏れから判断するに、演奏は佳境に入っているようだった。結城は文化不毛の地だと思っていた岩田屋にもこんな一面があるんだなと少し感動していた。
二人が座敷に戻ると、既にデザートが提供されていた。結城は溶けかけたゆずシャーベットを二人分食べた。
「二次会行く人ー!」という絶叫が夜の町に響く。結城はもちろん帰ることにした。一滴も飲んでいないから、役場まで歩いて戻って車で帰るのだ。
田岡がしつこく北村を誘っているのを横目に、結城はその場を離れる。「カラオケ行こう!カラオケ!」と誰かの楽しそうな声がする。
店から遠のくと、一気に夜の静けさが押し寄せてきた。
野良猫が路地から出てきて、結城の顔を見るとまた引っ込んでいった。
自分の足音だけを聞きながら、夜の道を進んでいる。
と。
バタバタと足音が近づいてきた。
「結城さん、同じ方向ですよね。乗せてってください」
振り返ると北村が少し息を切らせて立っていた。どうやら田岡から逃げ出してきたらしい。
断る理由もないので、結城は北村を送って帰ることにした。
「疲れてる?」
ゼスト・スパークの助手席に北村を乗せて、彼女が借りているアパートまで夜の道を飛ばす。
北村はぼんやり車窓から外を眺めていた。窓の外は、真っ暗な海――のようにも見える水田だった。岩田屋の夜は街灯が少ない。
北村は結城の言葉を無視して自分の話を始めた。
「昨日、大学時代の友達と電話で話してたらワーキングホリデーでオーストラリアに行くみたいな話になって」
「へえ」
ワーキングホリデーとは若者向けのある種の海外留学制度だ。その内容は、提携国の間で結ばれた協定により、若者が海外で休暇を取りながら滞在費のために就労をすることが認められるというものだった。十八歳から三十歳までの人間だけが利用できる。
「私も行きたいなぁって」
北村はシートに身体をもたれさせた。いつも溌剌と働いているイメージしかなかったので、そんなことを考えているとは思いもしなかった。今回の『にくにくフェスティバル』も、率先して様々な仕事をこなしているように思ったが。
やはりなかなか合格しない正規採用の試験を受けながら、非正規の仕事をするのはしんどいのだろうか。自分と同じように。
「そっちでいい仕事もいいパートナーも見つかるかもよ」
結城は無責任な軽口を叩いた。
それを聞いた北村は黙り込んだ。怒らせてしまったのかと焦るが、そうではなかったらしい。
「――実はマッチングアプリで知り合った男の人がいて。県外に住んでる人なんですけど」
突然、そういう話題に入ったので結城は一瞬呼吸が止まる。
北村は、とつとつとその相手の話を始めた。酔っているからなのか、内容が行ったり来たりして分かりづらかったが、まとめるとこうだ。
県外に住んでいる、古着屋を経営している四十代の男と一回お茶をして、今後どうするか悩んでいる。
「北村さんってそういう人好きそうだもんね」
「それどういう意味ですか」
少し険しい声で北村。
「なんか、特別感のある人が好きっていうか。昨日会ったキリンジさんもそうだったけど、ああいう自分の世界がある人が好きだよね。自分以上がいいっていうか」
「ナチュラルに暴言ですよ、それ」
結城は口を滑らせたかもしれないと自覚した。一滴も飲んではいないが、飲み会の場の空気にあてられていたのかもしれない。
北村は少し不機嫌そうに、
「結城さんはどうなんですか」
と言った。
「俺は何もないよ」
アイの顔を思い浮かべながら、するりと言い放つ。
「ないことないでしょ。最近ずっとスマホ見てるじゃないですか」
北村の目ざとさに少し驚いた。
「いや、ほんと全然だよ。俺なんか相手にしてくれるのはキャバクラとか風俗とかの女の子ぐらいじゃないの。いや、そういうの行ったことないけど」
車のハンドルを握ってお互い視線を合わせないと、平気で嘘が言えるのだなと結城は発見した。実は給料の大半を注ぎ込んで風俗に行っている、なんて同僚の女性には絶対に話せる内容ではない。
「それは恋愛じゃなくて、そういうサービスじゃないですか」
北村はやれやれと肩をすくめる。そして、ぼそりと言った。
「風俗とかやってる子って、私全然理解できないな」
思った以上の鋭さで、その言葉は結城の胸に刺さった。自分がその存在に気づいていながらも、あえて意識しないでおいた部分を、深く貫くような感触だった。
「そうなの」
渇いた口でその四文字だけを口にした。結城の内心など知らない北村は続ける。
「お金のために、自分の一番大事なものを売ってる訳じゃないですか。好きでもない男の人とそういうことをして」
好きでもない男。
「いや、でもさ、それぞれ事情があるかもしれないし。好きでそういう仕事してる人もいるかもしれない」
結城の反論は、自動で流れ出す音声のようだった。きっとそれは、いつかこんな時が来たときのために、無意識に用意していたものだったのかもしれない。それは自己弁護と呼ばれるものだった。
「そういう事情につけ込んで、女性をそのシステムの中に取り込んじゃうんですよね。で、取り込まれた側はきっと『好きでやってます』って言わざるを得ないんですよ」
北村はよどみなく言葉を紡いだ。きっとこれは、女性が持つ一般論に近いものなのだろう。
「ちょっと職業差別入ってない?」
まともに反論できそうにない結城は論点をずらした。北村は酔っているからか、特にそんなことには気を留めない。
「うーん、確かにそういう仕事をしてる知り合いがいないから、想像だけで喋ってるところはあるかもしれないです」
腕を組んで北村は言った。そして最後に、結城の頭を特大のハンマーでぶったたくようなことを言い放った。
「でも、そういう仕事をしてる女性の彼氏さんって、自分の彼女がそういう仕事をしてるって知っても、受け入れられるんですかね」
結城はハンドルを握る手が汗で滑らないことを祈った。夜の県道は、槻本山の山道よりも恐ろしい道になった。心臓が嫌になるぐらい速く鼓動を刻んでいた。
北村は結城を追い詰めたことなど知りもせず、
「あーあ、こんなつまんないことばっかり言ってるから、私も彼氏ができないんだろうな」
と笑った。
そのからっとした笑顔は、いつもの北村だった。
「俺もできないから」
気の利いた返しができるほど頭が働かない結城。
車はもう北村のアパートの近所まで来ていた。
と。
「――このままずっと二人共彼氏も彼女もできないままだったらどうします?」
暗い走る密室の中に放たれた北村の声は、今まで結城が聞いたこともないような複雑なニュアンスを含んでいるように思われた。
その言葉の意味は何なのか。
結城の脳裏に、イルミネーションの前ではしゃぐアイの姿がよぎった。
「――もしそうだったら」
車は走り続ける。点滅の赤信号を超える。
「――北村さんは迫水課長の愛人にでもなったらいいよ」
冗談めかして言ったつもりだったが。
北村はしばらく無言になった後、ぽつりと課長独身ですよと言った。
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