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最終章「あいとゆうき」
【結城】 22 魂の相似
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結城は混乱の中、地面に這いつくばっていた。
目を閉じているのに視界がぐるぐる回っているのが分かるというのは、ある種のホラーだ。拳を叩きつけられた頬と爪先でえぐられた横腹の痛みよりも、揺らされた脳のダメージの方が甚大だった。立とうとするが、足にふんばりが効かない。関節がこんにゃくになったかのように、力が尽くあらぬ方向へ逃げていくのだった。
回転する闇の中で、結城は自分を殴った人間の声を聞いていた。
「そうだな、身の上話でも聞いてくれ。私とミハネの――母さんの馴れ初めの話だ」
迫水は雄弁だった。その声は職場では聞いたことがない程、ハイテンションだった。語られる内容は、狂人の妄想としか言いようのないものだったが。
ようは、あるアイドルのファンだった迫水が、そのアイドルと同棲することになったという話だった。そして迫水の前から突然姿を消したそのアイドルこそが――
「光――お前を身籠ったミハネは、私に迷惑を掛けたくないという一心で私の元を去ったのだ」
光の母親だったのだ。
その女性は光を産み落として、この世を去った。
結城は視界が闇の中からゆっくりと戻って来るのを感じた。そこで、自分は目を閉じていたのではなかったということに気づく。脳震盪で一時的に視力を失っていたのだ。
床に頬を付けて横たわっている結城の目の前には、琥珀色の液体に満たされたガラスの棺があった。液体の中に漂う白い女性の肢体。恐らくこの女性は、浜岡ミハネ――迫水の愛したアイドルであり、光の母親――なのだろう。信じがたいことだが。
光の表情は結城の位置からはうかがえなかった。いったいどんな顔で迫水の話を聞いているのだろうか。死んだはずの母親とこんな形で再会して、父親を名乗る男から嘘か本当かも判然としない話を聞かされ続けて――
迫水の話には客観性というものがなかった。ただ、自分とミハネの関係性――というよりは一方的なミハネへの感情――が語られるのみだ。歓喜も絶望も全てが一人称だった。
結城の胸には、迫水への呆れと嫌悪感の両方があった。だが同時に――
――俺と似てるんだ、この人は。
結城は迫水と自分に共通する何かも感じ取っていた。
アイドルに入れ込んで、ひょんなことから同棲することになった迫水。ソープ嬢に入れ込んで、ひょんなことから同棲することになった自分。何が違うというのか。陶酔しながら自分語りを続ける迫水の姿は、自分の写し鏡だった。
「そして、この町のために生涯を捧げることが、ミハネに対する贖罪になると確信した」
迫水が堂々とした声で発した言葉が、結城の耳を通過していった。
最愛の人を死なせてしまったことを悔いた迫水は、彼女の生まれ故郷で一生働き続けることを選んだ。地元の人間ではないのに、誰よりも岩田屋町のために仕事熱心な迫水課長――その原点はここだったのだ。
もしアイが死んでしまったら、自分もきっと似たようなことをするに違いないと結城は思った。アイの故郷である北海道に自分も赴くだろう。そして、その大地に骨を埋めたいと思うに違いない。
そんな風に迫水に対する共感がある一方で、結城の心の中には、蚊帳の外に置かれ続けている光に対する同情も生まれていた。
きっとヒトは子供が生まれた瞬間に親になる訳では無いのだ。子供と過ごす時間の中で、少しずつ親になっていくのだろう。その時間がまったくない迫水が、父親として振る舞えないのは仕方がないことなのかもしれない。それでも、目の前にいる自分の子供への愛情を示すことができないのは、あまりにも酷いのではないか。
結城の胸に、いつかアイとベッドに寝転がりながら述懐した光景が浮かんだ。
夜、家の外に放り出されて泣いている自分。「あんたなんかウチの子じゃない」という母親の言葉。玄関のドアを叩き続けるが、いつまでもドアは開かない。自分の頭の中にある、一番古い記憶だった。
結城は首を動かして迫水の顔を見上げた。
そこにいたのは、わめき続ける一人の孤独な男だった。この男もまた、真っ暗な夜の中に放り出された一人なのか。迫水の声はいつしか、狂気を孕んだそれに変わっていた。闇にのたうつ蛇が、己の欲望を吐き出している。
「――だが、私は物足りなくなってしまったのだ。こんなに美しい町に、なぜミハネがいないのかと――」
迫水は光に向き直った。その血走った目を、光がどんな表情で見返しているのかは結城には見えなかった。
「私はミハネに会いたくなった――私はミハネとこの町で暮らしたいと考えるようになった」
結城は息を呑む。迫水の妄執が、どんな形で現実化されるのかを悟ったのだ。
その予想は当たった。
迫水はグロッサーヒューゲル社で動物のクローニング実験を担当していたことを話し始めた。絶滅した動物をも再生する、その驚くべき技術の存在。
「――競走馬のクローン作りはいい小遣い稼ぎになったよ。買っていった人間は替え玉としてレースに出走させると言っていたが……まあ、私の関知するところではないな」
牢屋にあったノーザンダンサーのネームプレートは、本当にノーザンダンサーのものだったのだ。あの馬鹿馬鹿しい水族館じみた部屋が、クローン馬の生産施設だったということだろう。あの水槽は、人工的に作り出されたナタルマの子宮だ。
競走馬のクローンを作り、それを売りさばく。それはサラブレッドの血の歴史を土足で踏みにじる行為だった。だれも書き換えることができない歴史だからこそ、ヒトはそれに敬意を払う。憧れを抱く。夢を見る。連綿と続くサラブレッドの血に、ロマンを滾らせる。過去の馬を再生してもう一度歴史をやり直すなど、競馬のすべてを愚弄する行為だった。
結城とアイが満員のスタンドで観た宝塚記念。小さな牝馬インビジブルレインが2200メートルの芝の上に描いた軌跡。それは二度とない、たった一度きりの物語だ。結城はその思い出まで汚されたような気分になった。
だが迫水はそんなことはどうでもいいという口ぶりだった。実際、金になれば何でもよかったのだろう。
迫水の目はただ一つのことだけを見つめている。
「――私はミハネを再生させることにした」
予想通りの言葉だった。
迫水を衝き動かす妄念の前には、禁忌など存在しないということだろう。
サラブレッドのクローンを作ったように、ヒトの――最愛の人のクローンを作り出す。結城は、迫水が正常な判断力を完全に失っていることを思い知らされた。
「カタチは再現できるが、記憶の継承という問題があった。これに関しては情報生命体仮説でも手の出しようがない領域だ。死者から記憶をそっくりそのまま写し取る。これはまさに『奇跡』の領域だよ。だから求めたのだ。『奇跡』を――」
肉体を再生させたからと言って、記憶まで再生される訳ではない。だが、その人間をその人間たらしめるものの大部分は、記憶だ。迫水にとっては、むしろそれが全てと言っても過言ではないだろう。器の中身こそ、迫水が求めるものだ。
「『奇跡』を起こす神代のUMAをここに現出させる」
最愛の女性との真の再会を果たすために。
失われてしまった可能性の世界を見るために。
迫水の世界は、きっとミハネを失ったと感じたその日から停止している。
「『巫女』とUMAを一体化させ、どんな願いも叶えることができる神に等しい力を手に入れ――そして、浜岡ミハネをもう一度、この世界というステージに呼び戻すのだ」
そのためにアイや撫子が必要だったのだ。神に生贄として捧げる、ただそれだけのために。結城は腹の底から怒りが湧いてくるのを感じた。しかし、その怒りの裏で、もう一人の自分が冷静に告げてくる。もしお前が同じ状況に置かれて、それが可能だと分かれば、お前も同じようなことをするのではないか、と。
自らの欲望のために他者を犠牲にする迫水のやり方は、唾棄すべきものでしかない。だが、自分が迫水の立場だったらどうだろうか。失われたのがミハネではなくアイだとしたら。結城は石を手に雪男達に殴り掛かったときの自分を思い出さずにはいられなかった。
本質的に、自分と迫水は近しい存在なのだ。
愛の名の下に人を傷つけ、暴力で自分の欲望を叶えようとする。
きっと迫水は悪魔に自分の魂を売り渡して、自覚的に暴力の輩となったのだろう。いわば覚悟が決まった人間だ。一方で自分はどうか。覚悟もないまま、愛と暴力に酔っているだけではないのか。
「ふざけるな!!!!」
結城の物思いを寸断したのは、光の叫びだった。光は迫水に飛びかかると、その胸倉を掴み上げた。怒りに打ち震えながら、迫水を睨みつけている。そして、獣が吠えるように迫水へ――自分の父親へ、罵声を浴びせ続けた。それは自分のことを一切顧みなかった父親への抗議であり、自分のこれまでの人生への怨嗟だった。
結城は光の中に秘められていた負の感情の発露を、身を切られるような痛みと共に聞いた。彼も間違いなく、真っ暗な夜の中に放り出された一人なのだ。
「死ね!!!!」
父親へのメッセージは、究極の一言で締めくくられた。
しかし、誰もそれを咎められはしないだろう。
結城は親子を見上げながら、ただただ人間と人間の繋がりが断たれようとする瞬間の寂しさを感じていた。
「――そうか」
思い詰めたような表情で、迫水は息を吐き出した。我が子に思いの丈をぶつけられて、何か思うところがあったのだろう。結城はこの瞬間までは、この親子にはまだ関係性を築き直すチャンスがあって欲しいと願っていたのだが――
「残念だ。お前になら母さんの――浜岡ミハネの価値が理解できるはずだと思っていたのだがな。見込み違いだったようだ」
迫水が告げた一言は、そこにあるものが完全なる断絶であることを表していた。
光がぶつけた感情の一部一厘すら、迫水には届いていなかったのだ。
自分を見てほしいという子供の声は、今の迫水にとってはただの雑音でしかなかった。この男は、死者の方だけを向いて生きている。過去の中にだけある、失われた愛に向かって。
「お前がいればミハネが喜ぶと思って儀式に参加させようとしたのだが――」
結城は嫌な予感を覚えた。迫水の中に湧き上がる攻撃的な衝動が、手に取るように感じられたのだ。この男の内側で渦巻くどす黒い感情は、目の前にいる子供に向けられる。そして光は、無防備にそれを食らってしまう。それは止めなければならない。
「もうどうでもいいな」
迫水は吐き捨てるように言った。
結城はなんとか顔を上げて、光に言葉を投げかけようとした。光は放心したように迫水を見ていた。迫水がぶつけようとする悪意ある言葉から、この少年を守らなければならない。結城は頬の内側にできた切り傷の痛みに耐えながら、無理矢理言葉を絞り出した。
「その、男の、言うことに――耳を、貸す」
な――と言う前に、迫水の爪先が再び結城の腹をえぐった。痛みが背中まで走り抜ける。もう出るものなどない胃が、ひっくり返ったようだった。
「お前を産み落としたその負担でミハネは死んだんだぞ」
邪魔者を黙らせた迫水は、一方的な恨みを遠慮なく光にぶつけ始めた。結城は止めろと叫びたかったが、ただただ喉が引き攣るだけで意味のある言葉にならない。
「お前はミハネを殺してまで、この世界に生まれ出る価値がある存在だったのか?」
違う、母親を殺して生まれた訳じゃない。
誰も生んでくれなんて頼んでいないのに、ただただこの世界に生み落とされたのが俺達だ。生まれたことの責任なんて、子供自身が背負えるようなものではない。
迫水の言い草は親として最低の部類のものだ。いや、もはや親でも何でもないと思っているからこそ言えるのか。
「お前には何の価値もない」
だから、夜の闇の中に一人放り出すのか。自分が愛を失ったことの復讐を、子供から愛を奪うことでするのか。
結城の目には知らず知らずのうちに涙が溢れていた。
人でなしな迫水への怒りと、この残酷な場面を止められない自分への情けなさ、そして、悲しさを再生産し続ける人間への絶望がごちゃごちゃになって結城の頭の中をかき回した。
ガラスの壁と天井の向こうでは、結城の無力さを嘲笑うように雨と風が暴れ狂っている。
そこに。
「あんたなんかに、光の価値は決めさせない!」
闇を切り裂くような凛とした声が響いた。
結城は痛む身体を無理矢理起こして声の方を見た。
「来たか! 岩田屋の『巫女』、浅倉撫子!」
迫水の歓喜の声に迎えられるように、浅倉撫子が一歩また一歩とこちらに近づいて来ていた。
撫子は強烈な怒りのオーラを身にまとい、薄ら笑いを浮かべる迫水に射殺さんばかりの視線を飛ばしている。
里菜やキリンジの姿は見えないが、外の戦いはどうなったのだろうか。もうあの二人の怪人を片付けてしまったのか。それともまだ戦いは続いているのか。
撫子が強力な援軍であるのは間違いないが、同時に彼女が迫水の待ち構えていた獲物でもあることも間違いない。まさか迫水も、無策で撫子を待ち構えていた訳ではあるまい。何かある筈なのだ。浅倉撫子を手中に収めるための何かが。
迫水は撫子に対して興奮気味にまくし立てているが、撫子はその言葉に何の価値も見出していない様子だった。隙なく佇む黒髪の少女は、ただ目の前の標的を粉砕するだけのモードになっていた。次の瞬間にも迫水に襲いかかって、その首をへし折りそうだった。
パチンと音がした。
迫水が高々と上げた右手の指を鳴らしたのだと気付いたその瞬間――
飛行機でも突っ込んできたのかと思う程の破壊音と共にガラスの壁が砕けて、見上げる程の巨岩がホールに転がり込んできた。凄まじい重量が床に激突し、部屋全体が振動した。このまま床が抜けるのではないかと思う程の衝撃が伝わる。
寝たままの結城の目の前には、ガラスの破片がシャワーのように降り注いだ。結城は首を縮めて息を止めた。一体何が起きたのか。
「コンゴのUMA、エメラ・ントゥカ。神代の獣とは程遠いが、地上で最も強力なUMAの一つだ。『象殺し』の名は伊達ではないぞ」
得意気な迫水の声が聞こえる。
よく見れば部屋に飛び込んできた物体は生物だった。それはサイのような角と、トカゲのような尾を持った大きな四足歩行の獣だった。ゴツゴツとした灰色の皮膚に覆われたその巨体は、まるで岩山のようだ。
エメラ・ントゥカと呼ばれたそのUMAは、グルルルと喉を鳴らしてその鼻先の凶悪な角を振り回した。トラックでも簡単にひっくり返すことができそうだ。これを見ると雪男など可愛く思えてくる。目の前にいるのは正真正銘のバケモノだった。
結城は口の中に溜まった唾を飲み込み、呼吸を再開した。
撫子は自分をじっと見ている巨獣を睨み返していた。恐ろしい胆力だと思うが、まさかこの恐竜の親戚と素手で戦おうと言うのだろうか。それはあまりにも無茶すぎる。思い止まらせるにはどうすれば――
と、その時。
――何が起きても驚かないぞと思ったところで、結局は驚く。
落下してきた何かによって、ホールの天井がぶち破られた。先程と同じような大音量と共に、辺りにガラスの雨が降り注ぐ。結城は絶叫して目を閉じた。硬質の鋭い物体が結城の身体の上にも落ちてくる。結城は必死に首を守った。頸動脈が切れたら終わりだ。
致命的な傷を負わなかったのは奇跡だった。
結城が恐る恐る目を開けると、そこにはおぞましい光景が広がっていた。
エメラ・ントゥカの背中の上で、巨大な虫が長い足を振り回しながらもがいていた。よく見るとそれは、キングサイズのベッドでも収まり切らないほど大きなクモだった。
天井を破って落下してきたそのクモは、エメラ・ントゥカの頑丈そうな背中に叩きつけられて悶絶しているのだ。青い血を周囲に飛び散らせながら、ヤシの木ぐらいありそうな足を痙攣させてる。
そのクモの頭の上には、見慣れた男が乗っていた。
「――だから言っただろ、『今のままで十分だ』ってな。漫画でよくあるじゃないか。切り札ってのは、先に出したやつから負けるんだ」
クモの頭に金属製の棒を突き立てたままの姿勢で、キリンジは得意気に笑った。
結城は驚くと同時に、胸に一筋の光明が差し込むような気持ちを覚えた。
「新渡戸キリンジ――」
迫水はキリンジの姿を認めると、不愉快そうに眉根を寄せた。
この場に撫子だけでなくキリンジまで侵入してくることは、想定していなかったのかもしれない。
「迫水――早く、早く――神の獣を、目覚めさせろ――」
一体その身体のどこから声を発しているのかは分からないが、瀕死のクモは迫水に懇願した。その声は、忘れもしない黒いジャケットの男――チバのものだった。この巨大なクモは、あの忌々しい改造人間の成れの果てということなのだろう。
「我々の――願いをが、な、え、ろ――」
チバは息も絶え絶えだった。ゼンマイが切れる寸前のオモチャのように身体を震わせている。ギギギギと苦悶の声を上げたチバは、最後の力を振り絞るように迫水の名前を呼んだ。
「ざごみずっ……! もう、がらだが――もだない――た、の、む」
関節という関節から青い血を吹き出させながら、チバは必死に迫水に訴えている。
「――やれやれ、デカい口を叩いておいて情けないなチバ・フー・フィー。お前の相棒も姿が見えないということは、やられてしまったか」
迫水は嘆息して失望を隠さなかった。相棒とは、あの羽の生えた男――ササボンサムのことだろう。確かに姿が見えない。
「だのむ――お、ねがいだ――かみの、けものの、ちからを――」
チバの声から急速に力が失われていった。バタつかせていた足の動きも緩慢になり、最終的にはエメラ・ントゥカの背中に張り付くようにクモはその身体の動きを停止した。
チバは死んでしまった。
迫水は無表情のまま、その様子を最後まで見ていた。
「UMAハイブリッドの改造人間――哀れでつまらん連中だ。望んで力を求めてそうなったのに、その望みときたら『自分と仲間を元の身体に戻してほしい』だからな」
チバの死骸を見上げる迫水の視線には、ただうっすらとした軽蔑だけがあった。
キリンジはチバがもう動かないことを確認すると、その身体から棒を引き抜き、ひらりと床に降り立った。
あの改造人間たちに、そんな望みがあったとは――
結城は複雑な気持ちで迫水の言葉を反芻した。
「どれだけ力を得ても、その精神まで人を超越させるのは難しいということだ」
迫水が言葉を続ける。そこにはチバを悼むようなニュアンスはなく、ただ弱者への侮蔑だけがあった。
結城は改めてもう動くことのないチバの身体を見上げた。自ら進んで改造人間になったとしても、その身体に異形を宿してしまえば、尋常な精神状態ではいられなくなるのだろう。神のUMAの力があれば、その身体を元に戻すこともできたのかもしれないが、その目的は果たされることなく終わった。
大グモと化したチバの身体には、人間だった痕跡など何も残されていなかった。同情など浮かばないが、それでもその亡骸から哀れさだけは伝わってくる。そんなことを思っているうちにチバの遺骸はエメラ・ントゥカの背中から滑り落ち、白い泡になって溶けていった。
「――君はどうかな、改造人間・新渡戸キリンジ?」
迫水はキリンジに問いかけた。
キリンジもまた、UMAハイブリッドの改造人間なのだ。
彼もチバと同じような望みを抱いているのだろうか。
「俺はそんな奴らとは出来がちがうぜ」
キリンジは口の端の血を拭うと、不敵な笑みで答えた。そこには微塵も弱さなど感じられなかった。結城は里菜の「キリンジは正義の改造人間や」という言葉を思い出していた。一本通った筋が、彼を支えているのかもしれない。キリンジは手にしていた金属棍を構え直した。
「しかし、仲間が苦しんでいるのに、助けようともしないとはな」
キリンジの呆れ声を聞いても、迫水は何も感じていない様子だった。
「仲間? ただ利害が一致していただけに過ぎんよ」
思いもしなかったという表情でキリンジに言い返す迫水。本当にどうでもいいと思っているのだろう。元より迫水には、仲間意識などなかったのだ。
エメラ・ントゥカは白い泡と化したチバの死体を踏みにじりながら、ゆっくりとその巨大な身体を迫水の隣に移動させた。一体どんな手を使っているのか分からないが、迫水はこの巨獣を手懐けているらしい。
キリンジは迫水とエメラ・ントゥカから視線を切らずに結城の側まで足を運ぶと、床に這いつくばったままの結城を助け起こした。結城の身体からバラバラとガラス片が落ちる。
「大丈夫か、結城さん」
こうやってキリンジに危機を救われるのは何度目だろう。頼もしさを感じると同時に、進歩のない自分が情けなくなる。
「ん? 丸腰か」
キリンジは結城のショルダーホルスターに何も刺さっていないのを見ると、自分の腰から抜いた拳銃を結城に手渡した。
結城の手に、ずしりとその金属の重さが伝わった。
それは何故か、里菜から最初に拳銃を受け取ったときよりも遥かに重く感じられた。もちろん疲労もあるのだろうが――
迫水の望みを聞いた時の思いが、再び結城の脳内によみがえっていた。
もし自分が迫水の立場だったら、愛する人を救うために他の全てを犠牲にできるだろうか。暴力で自分の望みを叶えることができるなら、躊躇いなくそれを振るうことができるだろうか。
この武器はそれを可能とする装置だった。
己の欲望のために他者の存在を消してしまうことができる――そんな暴力そのものが冷たい金属の塊となって結城の手の中にあった。
結城は思考を空回りさせたまま、それを無言でショルダーホルスターに収めた。
目を閉じているのに視界がぐるぐる回っているのが分かるというのは、ある種のホラーだ。拳を叩きつけられた頬と爪先でえぐられた横腹の痛みよりも、揺らされた脳のダメージの方が甚大だった。立とうとするが、足にふんばりが効かない。関節がこんにゃくになったかのように、力が尽くあらぬ方向へ逃げていくのだった。
回転する闇の中で、結城は自分を殴った人間の声を聞いていた。
「そうだな、身の上話でも聞いてくれ。私とミハネの――母さんの馴れ初めの話だ」
迫水は雄弁だった。その声は職場では聞いたことがない程、ハイテンションだった。語られる内容は、狂人の妄想としか言いようのないものだったが。
ようは、あるアイドルのファンだった迫水が、そのアイドルと同棲することになったという話だった。そして迫水の前から突然姿を消したそのアイドルこそが――
「光――お前を身籠ったミハネは、私に迷惑を掛けたくないという一心で私の元を去ったのだ」
光の母親だったのだ。
その女性は光を産み落として、この世を去った。
結城は視界が闇の中からゆっくりと戻って来るのを感じた。そこで、自分は目を閉じていたのではなかったということに気づく。脳震盪で一時的に視力を失っていたのだ。
床に頬を付けて横たわっている結城の目の前には、琥珀色の液体に満たされたガラスの棺があった。液体の中に漂う白い女性の肢体。恐らくこの女性は、浜岡ミハネ――迫水の愛したアイドルであり、光の母親――なのだろう。信じがたいことだが。
光の表情は結城の位置からはうかがえなかった。いったいどんな顔で迫水の話を聞いているのだろうか。死んだはずの母親とこんな形で再会して、父親を名乗る男から嘘か本当かも判然としない話を聞かされ続けて――
迫水の話には客観性というものがなかった。ただ、自分とミハネの関係性――というよりは一方的なミハネへの感情――が語られるのみだ。歓喜も絶望も全てが一人称だった。
結城の胸には、迫水への呆れと嫌悪感の両方があった。だが同時に――
――俺と似てるんだ、この人は。
結城は迫水と自分に共通する何かも感じ取っていた。
アイドルに入れ込んで、ひょんなことから同棲することになった迫水。ソープ嬢に入れ込んで、ひょんなことから同棲することになった自分。何が違うというのか。陶酔しながら自分語りを続ける迫水の姿は、自分の写し鏡だった。
「そして、この町のために生涯を捧げることが、ミハネに対する贖罪になると確信した」
迫水が堂々とした声で発した言葉が、結城の耳を通過していった。
最愛の人を死なせてしまったことを悔いた迫水は、彼女の生まれ故郷で一生働き続けることを選んだ。地元の人間ではないのに、誰よりも岩田屋町のために仕事熱心な迫水課長――その原点はここだったのだ。
もしアイが死んでしまったら、自分もきっと似たようなことをするに違いないと結城は思った。アイの故郷である北海道に自分も赴くだろう。そして、その大地に骨を埋めたいと思うに違いない。
そんな風に迫水に対する共感がある一方で、結城の心の中には、蚊帳の外に置かれ続けている光に対する同情も生まれていた。
きっとヒトは子供が生まれた瞬間に親になる訳では無いのだ。子供と過ごす時間の中で、少しずつ親になっていくのだろう。その時間がまったくない迫水が、父親として振る舞えないのは仕方がないことなのかもしれない。それでも、目の前にいる自分の子供への愛情を示すことができないのは、あまりにも酷いのではないか。
結城の胸に、いつかアイとベッドに寝転がりながら述懐した光景が浮かんだ。
夜、家の外に放り出されて泣いている自分。「あんたなんかウチの子じゃない」という母親の言葉。玄関のドアを叩き続けるが、いつまでもドアは開かない。自分の頭の中にある、一番古い記憶だった。
結城は首を動かして迫水の顔を見上げた。
そこにいたのは、わめき続ける一人の孤独な男だった。この男もまた、真っ暗な夜の中に放り出された一人なのか。迫水の声はいつしか、狂気を孕んだそれに変わっていた。闇にのたうつ蛇が、己の欲望を吐き出している。
「――だが、私は物足りなくなってしまったのだ。こんなに美しい町に、なぜミハネがいないのかと――」
迫水は光に向き直った。その血走った目を、光がどんな表情で見返しているのかは結城には見えなかった。
「私はミハネに会いたくなった――私はミハネとこの町で暮らしたいと考えるようになった」
結城は息を呑む。迫水の妄執が、どんな形で現実化されるのかを悟ったのだ。
その予想は当たった。
迫水はグロッサーヒューゲル社で動物のクローニング実験を担当していたことを話し始めた。絶滅した動物をも再生する、その驚くべき技術の存在。
「――競走馬のクローン作りはいい小遣い稼ぎになったよ。買っていった人間は替え玉としてレースに出走させると言っていたが……まあ、私の関知するところではないな」
牢屋にあったノーザンダンサーのネームプレートは、本当にノーザンダンサーのものだったのだ。あの馬鹿馬鹿しい水族館じみた部屋が、クローン馬の生産施設だったということだろう。あの水槽は、人工的に作り出されたナタルマの子宮だ。
競走馬のクローンを作り、それを売りさばく。それはサラブレッドの血の歴史を土足で踏みにじる行為だった。だれも書き換えることができない歴史だからこそ、ヒトはそれに敬意を払う。憧れを抱く。夢を見る。連綿と続くサラブレッドの血に、ロマンを滾らせる。過去の馬を再生してもう一度歴史をやり直すなど、競馬のすべてを愚弄する行為だった。
結城とアイが満員のスタンドで観た宝塚記念。小さな牝馬インビジブルレインが2200メートルの芝の上に描いた軌跡。それは二度とない、たった一度きりの物語だ。結城はその思い出まで汚されたような気分になった。
だが迫水はそんなことはどうでもいいという口ぶりだった。実際、金になれば何でもよかったのだろう。
迫水の目はただ一つのことだけを見つめている。
「――私はミハネを再生させることにした」
予想通りの言葉だった。
迫水を衝き動かす妄念の前には、禁忌など存在しないということだろう。
サラブレッドのクローンを作ったように、ヒトの――最愛の人のクローンを作り出す。結城は、迫水が正常な判断力を完全に失っていることを思い知らされた。
「カタチは再現できるが、記憶の継承という問題があった。これに関しては情報生命体仮説でも手の出しようがない領域だ。死者から記憶をそっくりそのまま写し取る。これはまさに『奇跡』の領域だよ。だから求めたのだ。『奇跡』を――」
肉体を再生させたからと言って、記憶まで再生される訳ではない。だが、その人間をその人間たらしめるものの大部分は、記憶だ。迫水にとっては、むしろそれが全てと言っても過言ではないだろう。器の中身こそ、迫水が求めるものだ。
「『奇跡』を起こす神代のUMAをここに現出させる」
最愛の女性との真の再会を果たすために。
失われてしまった可能性の世界を見るために。
迫水の世界は、きっとミハネを失ったと感じたその日から停止している。
「『巫女』とUMAを一体化させ、どんな願いも叶えることができる神に等しい力を手に入れ――そして、浜岡ミハネをもう一度、この世界というステージに呼び戻すのだ」
そのためにアイや撫子が必要だったのだ。神に生贄として捧げる、ただそれだけのために。結城は腹の底から怒りが湧いてくるのを感じた。しかし、その怒りの裏で、もう一人の自分が冷静に告げてくる。もしお前が同じ状況に置かれて、それが可能だと分かれば、お前も同じようなことをするのではないか、と。
自らの欲望のために他者を犠牲にする迫水のやり方は、唾棄すべきものでしかない。だが、自分が迫水の立場だったらどうだろうか。失われたのがミハネではなくアイだとしたら。結城は石を手に雪男達に殴り掛かったときの自分を思い出さずにはいられなかった。
本質的に、自分と迫水は近しい存在なのだ。
愛の名の下に人を傷つけ、暴力で自分の欲望を叶えようとする。
きっと迫水は悪魔に自分の魂を売り渡して、自覚的に暴力の輩となったのだろう。いわば覚悟が決まった人間だ。一方で自分はどうか。覚悟もないまま、愛と暴力に酔っているだけではないのか。
「ふざけるな!!!!」
結城の物思いを寸断したのは、光の叫びだった。光は迫水に飛びかかると、その胸倉を掴み上げた。怒りに打ち震えながら、迫水を睨みつけている。そして、獣が吠えるように迫水へ――自分の父親へ、罵声を浴びせ続けた。それは自分のことを一切顧みなかった父親への抗議であり、自分のこれまでの人生への怨嗟だった。
結城は光の中に秘められていた負の感情の発露を、身を切られるような痛みと共に聞いた。彼も間違いなく、真っ暗な夜の中に放り出された一人なのだ。
「死ね!!!!」
父親へのメッセージは、究極の一言で締めくくられた。
しかし、誰もそれを咎められはしないだろう。
結城は親子を見上げながら、ただただ人間と人間の繋がりが断たれようとする瞬間の寂しさを感じていた。
「――そうか」
思い詰めたような表情で、迫水は息を吐き出した。我が子に思いの丈をぶつけられて、何か思うところがあったのだろう。結城はこの瞬間までは、この親子にはまだ関係性を築き直すチャンスがあって欲しいと願っていたのだが――
「残念だ。お前になら母さんの――浜岡ミハネの価値が理解できるはずだと思っていたのだがな。見込み違いだったようだ」
迫水が告げた一言は、そこにあるものが完全なる断絶であることを表していた。
光がぶつけた感情の一部一厘すら、迫水には届いていなかったのだ。
自分を見てほしいという子供の声は、今の迫水にとってはただの雑音でしかなかった。この男は、死者の方だけを向いて生きている。過去の中にだけある、失われた愛に向かって。
「お前がいればミハネが喜ぶと思って儀式に参加させようとしたのだが――」
結城は嫌な予感を覚えた。迫水の中に湧き上がる攻撃的な衝動が、手に取るように感じられたのだ。この男の内側で渦巻くどす黒い感情は、目の前にいる子供に向けられる。そして光は、無防備にそれを食らってしまう。それは止めなければならない。
「もうどうでもいいな」
迫水は吐き捨てるように言った。
結城はなんとか顔を上げて、光に言葉を投げかけようとした。光は放心したように迫水を見ていた。迫水がぶつけようとする悪意ある言葉から、この少年を守らなければならない。結城は頬の内側にできた切り傷の痛みに耐えながら、無理矢理言葉を絞り出した。
「その、男の、言うことに――耳を、貸す」
な――と言う前に、迫水の爪先が再び結城の腹をえぐった。痛みが背中まで走り抜ける。もう出るものなどない胃が、ひっくり返ったようだった。
「お前を産み落としたその負担でミハネは死んだんだぞ」
邪魔者を黙らせた迫水は、一方的な恨みを遠慮なく光にぶつけ始めた。結城は止めろと叫びたかったが、ただただ喉が引き攣るだけで意味のある言葉にならない。
「お前はミハネを殺してまで、この世界に生まれ出る価値がある存在だったのか?」
違う、母親を殺して生まれた訳じゃない。
誰も生んでくれなんて頼んでいないのに、ただただこの世界に生み落とされたのが俺達だ。生まれたことの責任なんて、子供自身が背負えるようなものではない。
迫水の言い草は親として最低の部類のものだ。いや、もはや親でも何でもないと思っているからこそ言えるのか。
「お前には何の価値もない」
だから、夜の闇の中に一人放り出すのか。自分が愛を失ったことの復讐を、子供から愛を奪うことでするのか。
結城の目には知らず知らずのうちに涙が溢れていた。
人でなしな迫水への怒りと、この残酷な場面を止められない自分への情けなさ、そして、悲しさを再生産し続ける人間への絶望がごちゃごちゃになって結城の頭の中をかき回した。
ガラスの壁と天井の向こうでは、結城の無力さを嘲笑うように雨と風が暴れ狂っている。
そこに。
「あんたなんかに、光の価値は決めさせない!」
闇を切り裂くような凛とした声が響いた。
結城は痛む身体を無理矢理起こして声の方を見た。
「来たか! 岩田屋の『巫女』、浅倉撫子!」
迫水の歓喜の声に迎えられるように、浅倉撫子が一歩また一歩とこちらに近づいて来ていた。
撫子は強烈な怒りのオーラを身にまとい、薄ら笑いを浮かべる迫水に射殺さんばかりの視線を飛ばしている。
里菜やキリンジの姿は見えないが、外の戦いはどうなったのだろうか。もうあの二人の怪人を片付けてしまったのか。それともまだ戦いは続いているのか。
撫子が強力な援軍であるのは間違いないが、同時に彼女が迫水の待ち構えていた獲物でもあることも間違いない。まさか迫水も、無策で撫子を待ち構えていた訳ではあるまい。何かある筈なのだ。浅倉撫子を手中に収めるための何かが。
迫水は撫子に対して興奮気味にまくし立てているが、撫子はその言葉に何の価値も見出していない様子だった。隙なく佇む黒髪の少女は、ただ目の前の標的を粉砕するだけのモードになっていた。次の瞬間にも迫水に襲いかかって、その首をへし折りそうだった。
パチンと音がした。
迫水が高々と上げた右手の指を鳴らしたのだと気付いたその瞬間――
飛行機でも突っ込んできたのかと思う程の破壊音と共にガラスの壁が砕けて、見上げる程の巨岩がホールに転がり込んできた。凄まじい重量が床に激突し、部屋全体が振動した。このまま床が抜けるのではないかと思う程の衝撃が伝わる。
寝たままの結城の目の前には、ガラスの破片がシャワーのように降り注いだ。結城は首を縮めて息を止めた。一体何が起きたのか。
「コンゴのUMA、エメラ・ントゥカ。神代の獣とは程遠いが、地上で最も強力なUMAの一つだ。『象殺し』の名は伊達ではないぞ」
得意気な迫水の声が聞こえる。
よく見れば部屋に飛び込んできた物体は生物だった。それはサイのような角と、トカゲのような尾を持った大きな四足歩行の獣だった。ゴツゴツとした灰色の皮膚に覆われたその巨体は、まるで岩山のようだ。
エメラ・ントゥカと呼ばれたそのUMAは、グルルルと喉を鳴らしてその鼻先の凶悪な角を振り回した。トラックでも簡単にひっくり返すことができそうだ。これを見ると雪男など可愛く思えてくる。目の前にいるのは正真正銘のバケモノだった。
結城は口の中に溜まった唾を飲み込み、呼吸を再開した。
撫子は自分をじっと見ている巨獣を睨み返していた。恐ろしい胆力だと思うが、まさかこの恐竜の親戚と素手で戦おうと言うのだろうか。それはあまりにも無茶すぎる。思い止まらせるにはどうすれば――
と、その時。
――何が起きても驚かないぞと思ったところで、結局は驚く。
落下してきた何かによって、ホールの天井がぶち破られた。先程と同じような大音量と共に、辺りにガラスの雨が降り注ぐ。結城は絶叫して目を閉じた。硬質の鋭い物体が結城の身体の上にも落ちてくる。結城は必死に首を守った。頸動脈が切れたら終わりだ。
致命的な傷を負わなかったのは奇跡だった。
結城が恐る恐る目を開けると、そこにはおぞましい光景が広がっていた。
エメラ・ントゥカの背中の上で、巨大な虫が長い足を振り回しながらもがいていた。よく見るとそれは、キングサイズのベッドでも収まり切らないほど大きなクモだった。
天井を破って落下してきたそのクモは、エメラ・ントゥカの頑丈そうな背中に叩きつけられて悶絶しているのだ。青い血を周囲に飛び散らせながら、ヤシの木ぐらいありそうな足を痙攣させてる。
そのクモの頭の上には、見慣れた男が乗っていた。
「――だから言っただろ、『今のままで十分だ』ってな。漫画でよくあるじゃないか。切り札ってのは、先に出したやつから負けるんだ」
クモの頭に金属製の棒を突き立てたままの姿勢で、キリンジは得意気に笑った。
結城は驚くと同時に、胸に一筋の光明が差し込むような気持ちを覚えた。
「新渡戸キリンジ――」
迫水はキリンジの姿を認めると、不愉快そうに眉根を寄せた。
この場に撫子だけでなくキリンジまで侵入してくることは、想定していなかったのかもしれない。
「迫水――早く、早く――神の獣を、目覚めさせろ――」
一体その身体のどこから声を発しているのかは分からないが、瀕死のクモは迫水に懇願した。その声は、忘れもしない黒いジャケットの男――チバのものだった。この巨大なクモは、あの忌々しい改造人間の成れの果てということなのだろう。
「我々の――願いをが、な、え、ろ――」
チバは息も絶え絶えだった。ゼンマイが切れる寸前のオモチャのように身体を震わせている。ギギギギと苦悶の声を上げたチバは、最後の力を振り絞るように迫水の名前を呼んだ。
「ざごみずっ……! もう、がらだが――もだない――た、の、む」
関節という関節から青い血を吹き出させながら、チバは必死に迫水に訴えている。
「――やれやれ、デカい口を叩いておいて情けないなチバ・フー・フィー。お前の相棒も姿が見えないということは、やられてしまったか」
迫水は嘆息して失望を隠さなかった。相棒とは、あの羽の生えた男――ササボンサムのことだろう。確かに姿が見えない。
「だのむ――お、ねがいだ――かみの、けものの、ちからを――」
チバの声から急速に力が失われていった。バタつかせていた足の動きも緩慢になり、最終的にはエメラ・ントゥカの背中に張り付くようにクモはその身体の動きを停止した。
チバは死んでしまった。
迫水は無表情のまま、その様子を最後まで見ていた。
「UMAハイブリッドの改造人間――哀れでつまらん連中だ。望んで力を求めてそうなったのに、その望みときたら『自分と仲間を元の身体に戻してほしい』だからな」
チバの死骸を見上げる迫水の視線には、ただうっすらとした軽蔑だけがあった。
キリンジはチバがもう動かないことを確認すると、その身体から棒を引き抜き、ひらりと床に降り立った。
あの改造人間たちに、そんな望みがあったとは――
結城は複雑な気持ちで迫水の言葉を反芻した。
「どれだけ力を得ても、その精神まで人を超越させるのは難しいということだ」
迫水が言葉を続ける。そこにはチバを悼むようなニュアンスはなく、ただ弱者への侮蔑だけがあった。
結城は改めてもう動くことのないチバの身体を見上げた。自ら進んで改造人間になったとしても、その身体に異形を宿してしまえば、尋常な精神状態ではいられなくなるのだろう。神のUMAの力があれば、その身体を元に戻すこともできたのかもしれないが、その目的は果たされることなく終わった。
大グモと化したチバの身体には、人間だった痕跡など何も残されていなかった。同情など浮かばないが、それでもその亡骸から哀れさだけは伝わってくる。そんなことを思っているうちにチバの遺骸はエメラ・ントゥカの背中から滑り落ち、白い泡になって溶けていった。
「――君はどうかな、改造人間・新渡戸キリンジ?」
迫水はキリンジに問いかけた。
キリンジもまた、UMAハイブリッドの改造人間なのだ。
彼もチバと同じような望みを抱いているのだろうか。
「俺はそんな奴らとは出来がちがうぜ」
キリンジは口の端の血を拭うと、不敵な笑みで答えた。そこには微塵も弱さなど感じられなかった。結城は里菜の「キリンジは正義の改造人間や」という言葉を思い出していた。一本通った筋が、彼を支えているのかもしれない。キリンジは手にしていた金属棍を構え直した。
「しかし、仲間が苦しんでいるのに、助けようともしないとはな」
キリンジの呆れ声を聞いても、迫水は何も感じていない様子だった。
「仲間? ただ利害が一致していただけに過ぎんよ」
思いもしなかったという表情でキリンジに言い返す迫水。本当にどうでもいいと思っているのだろう。元より迫水には、仲間意識などなかったのだ。
エメラ・ントゥカは白い泡と化したチバの死体を踏みにじりながら、ゆっくりとその巨大な身体を迫水の隣に移動させた。一体どんな手を使っているのか分からないが、迫水はこの巨獣を手懐けているらしい。
キリンジは迫水とエメラ・ントゥカから視線を切らずに結城の側まで足を運ぶと、床に這いつくばったままの結城を助け起こした。結城の身体からバラバラとガラス片が落ちる。
「大丈夫か、結城さん」
こうやってキリンジに危機を救われるのは何度目だろう。頼もしさを感じると同時に、進歩のない自分が情けなくなる。
「ん? 丸腰か」
キリンジは結城のショルダーホルスターに何も刺さっていないのを見ると、自分の腰から抜いた拳銃を結城に手渡した。
結城の手に、ずしりとその金属の重さが伝わった。
それは何故か、里菜から最初に拳銃を受け取ったときよりも遥かに重く感じられた。もちろん疲労もあるのだろうが――
迫水の望みを聞いた時の思いが、再び結城の脳内によみがえっていた。
もし自分が迫水の立場だったら、愛する人を救うために他の全てを犠牲にできるだろうか。暴力で自分の望みを叶えることができるなら、躊躇いなくそれを振るうことができるだろうか。
この武器はそれを可能とする装置だった。
己の欲望のために他者の存在を消してしまうことができる――そんな暴力そのものが冷たい金属の塊となって結城の手の中にあった。
結城は思考を空回りさせたまま、それを無言でショルダーホルスターに収めた。
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