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#6
第6変奏(究極の少子化を招いた者)
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ピアノに向かい、さりとて鍵盤に触れもせず、ぼくは考え込んでいる。
なぜこんな時期にモヴが送り込まれてきたのか?
この施設はいくつか残存する保護施設の中でもユニークなものだ。
ほぼ絶滅したとされる女性…オメガ…自然生殖の能力を持つ存在を保有しているから。
董子という存在があるだけで、他の男性…アルファと便宜的に呼ばれる、オメガに相対する性別の人間を"保存する"施設より貴重なのだ。より具体的に言うなら、残存のエネルギーシステム…AIに運用される原子力発電システムの最終最後に残ったエネルギーは董子の居るこの施設にまわされるという取り決めが、最後の政治結社によってなされている。
国という概念、人民保護の建前、民主主義と共産主義、人権主義と独裁者の思惑、それらが絡み合い、相殺しあった果てに瓦解し、瀕死の状態に陥った世界政治の担い手たちの取り決めだ。董子だけでも可能な限り未来にいかせよう。それでどうなるものか、何ひとつ科学的知見などありはしないが、人類の最後のひとりは彼女こそふさわしい。彼女を一日でも一時間でも、過去から続くひとつながりの時空の可能性の中にいさせよう。
生き残ったうちの最高の頭脳集団の数万時間かに渡ったディスカッションからの結論だった。
マスターはこう言明している。
「行きついた果ては新しい信仰だった。あるいは単なる"祈り"かもしれない。最高の頭脳は最大の難問を前にして互いを潰し合い狂気あるいは痴愚へと後退した」
付け焼き刃の宗教でも、見えざる未来に狂走した痴愚でも、ぼくにはどっちでもよかった。
董子を存在させ続ける。その意義も意味も考えたことはない。考えるまでもなく、ぼくにはそれがすべてだった。このすべてにごく微かでも翳りをもたらすものは考えられない。どういう決定だ?とっとと排除すべきだ。
それがモヴという存在だ。
まず一人分のエネルギー消費量増は破滅を近づける。他施設からの分配なんて信用できない。理想より現実だ。たとえ唯一無二の董子のためでも、自らの衰微になるような協力を是とするとは考えにくい。モヴを出したことで、何十年かの延命を目論んだとしても邪推ではないだろう?
だが———この邪推はみごとに外れた。
モヴの分のエネルギー分配は近日行われた。それも複数の施設から緊急時優先ラインを使って。
こうなってくると、残存施設の各マスターの暗黙の意思決定が、ぼくにとって恐怖だった。
たったひとりのオメガのいる施設に、発情のタイミングに間に合わせるようにアルファを送り込んでくるとは。
陰謀だ!と喚き出したいのを堪えるため、最大音響でピアノを——ファツィオリ・ピアノフォルティを鳴らしてしまった。イタリア産の名器。ただしメンテする者はいない。調律は自分で出来るが、張り替える弦もハンマーの複製も3Dプリンターに出来る仕事ではなかった。過度の労苦を強いてはならない、わかっていても抑えられなかった。
マスターに問い質せばいい、理性ではわかっている。わかり過ぎるくらいわかっていてもしなかった。できなかった。ぼくは弱い。人間とはかくも弱い動物だ……。
他の動物のような進化を遂げ、繁殖し、種の頂点から徐々に衰退し絶滅できたら幸せだったのか?
ぼくなんかにわかるはずがない。
ぼくはただのピアノ弾き。バッハ弾き。色覚特性ゆえに美術系から除外され、消去法で音楽のコースを選択した。自分の意思からだと思い込んでいるが、それも心象が傷つかぬようマスターに誘導された結果なのかもしれない。なのに、今回の董子とモヴの件ではなぜ、あからさまに、何一つ心理的緩衝をなされず、剥き出しの悪意に晒されなければならなかったのだろう。
VR映像で見たことがある。
喧騒と狂気とで盛り上がるロックコンサート。それとも近代の黒ミサだったか?六弦の楽器をフロアに叩きつけてフレットを折り砕き、スタインウェイを着火剤で猛火に包むという。唾棄すべき愚行と思ったものだが、今は彼らを駆り立てた精神のマイナスエネルギーを理解できる。外側に発散してやらないと、猛火は自分自身を内部から焼き尽くすのだ。
絶望的な少子化——重度不妊の果て、狂気におちいった独裁者、2100年代のヘロデ王と呼ばれた彼女のように。
なぜこんな時期にモヴが送り込まれてきたのか?
この施設はいくつか残存する保護施設の中でもユニークなものだ。
ほぼ絶滅したとされる女性…オメガ…自然生殖の能力を持つ存在を保有しているから。
董子という存在があるだけで、他の男性…アルファと便宜的に呼ばれる、オメガに相対する性別の人間を"保存する"施設より貴重なのだ。より具体的に言うなら、残存のエネルギーシステム…AIに運用される原子力発電システムの最終最後に残ったエネルギーは董子の居るこの施設にまわされるという取り決めが、最後の政治結社によってなされている。
国という概念、人民保護の建前、民主主義と共産主義、人権主義と独裁者の思惑、それらが絡み合い、相殺しあった果てに瓦解し、瀕死の状態に陥った世界政治の担い手たちの取り決めだ。董子だけでも可能な限り未来にいかせよう。それでどうなるものか、何ひとつ科学的知見などありはしないが、人類の最後のひとりは彼女こそふさわしい。彼女を一日でも一時間でも、過去から続くひとつながりの時空の可能性の中にいさせよう。
生き残ったうちの最高の頭脳集団の数万時間かに渡ったディスカッションからの結論だった。
マスターはこう言明している。
「行きついた果ては新しい信仰だった。あるいは単なる"祈り"かもしれない。最高の頭脳は最大の難問を前にして互いを潰し合い狂気あるいは痴愚へと後退した」
付け焼き刃の宗教でも、見えざる未来に狂走した痴愚でも、ぼくにはどっちでもよかった。
董子を存在させ続ける。その意義も意味も考えたことはない。考えるまでもなく、ぼくにはそれがすべてだった。このすべてにごく微かでも翳りをもたらすものは考えられない。どういう決定だ?とっとと排除すべきだ。
それがモヴという存在だ。
まず一人分のエネルギー消費量増は破滅を近づける。他施設からの分配なんて信用できない。理想より現実だ。たとえ唯一無二の董子のためでも、自らの衰微になるような協力を是とするとは考えにくい。モヴを出したことで、何十年かの延命を目論んだとしても邪推ではないだろう?
だが———この邪推はみごとに外れた。
モヴの分のエネルギー分配は近日行われた。それも複数の施設から緊急時優先ラインを使って。
こうなってくると、残存施設の各マスターの暗黙の意思決定が、ぼくにとって恐怖だった。
たったひとりのオメガのいる施設に、発情のタイミングに間に合わせるようにアルファを送り込んでくるとは。
陰謀だ!と喚き出したいのを堪えるため、最大音響でピアノを——ファツィオリ・ピアノフォルティを鳴らしてしまった。イタリア産の名器。ただしメンテする者はいない。調律は自分で出来るが、張り替える弦もハンマーの複製も3Dプリンターに出来る仕事ではなかった。過度の労苦を強いてはならない、わかっていても抑えられなかった。
マスターに問い質せばいい、理性ではわかっている。わかり過ぎるくらいわかっていてもしなかった。できなかった。ぼくは弱い。人間とはかくも弱い動物だ……。
他の動物のような進化を遂げ、繁殖し、種の頂点から徐々に衰退し絶滅できたら幸せだったのか?
ぼくなんかにわかるはずがない。
ぼくはただのピアノ弾き。バッハ弾き。色覚特性ゆえに美術系から除外され、消去法で音楽のコースを選択した。自分の意思からだと思い込んでいるが、それも心象が傷つかぬようマスターに誘導された結果なのかもしれない。なのに、今回の董子とモヴの件ではなぜ、あからさまに、何一つ心理的緩衝をなされず、剥き出しの悪意に晒されなければならなかったのだろう。
VR映像で見たことがある。
喧騒と狂気とで盛り上がるロックコンサート。それとも近代の黒ミサだったか?六弦の楽器をフロアに叩きつけてフレットを折り砕き、スタインウェイを着火剤で猛火に包むという。唾棄すべき愚行と思ったものだが、今は彼らを駆り立てた精神のマイナスエネルギーを理解できる。外側に発散してやらないと、猛火は自分自身を内部から焼き尽くすのだ。
絶望的な少子化——重度不妊の果て、狂気におちいった独裁者、2100年代のヘロデ王と呼ばれた彼女のように。
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