愛すべき不思議な家族

桐条京介

文字の大きさ
35 / 43

第35話 パパがいない

しおりを挟む
「本当にいらないのか」

 和葉と葉月が自宅へ帰る日の朝になっても、兄の泰宏はまだそんな台詞を言っていた。幾度も重ねてきた討論。それは父親が残した和葉名義の預金通帳をどうするかである。

 兄の泰宏は持っていくように言ってくれたが、和葉に受け取るつもりはなかった。長年のわだかまりが単純に消化できるはずもなく、頭では理解していても、心にはまだもやもやしたものが残っている。

 それに父親が和葉をずっと娘だと思っていてくれたのなら、何ひとつ親孝行できないままに旅立たれてしまったことになる。ならばせめて、最後くらいはという思いもあった。

 だからこそ、和葉は泰宏に残されたお金をお葬式代などに使ってほしいと告げた。しかし、人がよいせいか単純には頷いてくれない。これは親父が娘のためのに残したものなんだからの一点張りである。
 何度も何度も口論になったが、和葉の決意の固さを認識した泰宏がようやく昨夜になって諦めた……はずだった。

「結論は昨日でたはずよ」

 和葉に残されたお金であるならば、和葉の好きなように使いたい。その言葉が泰宏を頷かせる決定打となった。それでも残りはお前のものだと譲らなかったが、和葉に受け取るつもりはない。

 今後、必要になった時のために預かっておいてほしい。そう言って兄を納得させたものの、受け取りにくることはないだろう。最後まで父親に頼らず、残りの人生をまっとうに送ることが一番の恩返しになるのではないか。そんなふうに考えていた。

「わかった。このことにかんしてはもう何も言わないよ。けど、春道君のことは……」

「それも大丈夫よ。急ぎの仕事が入ったから先に家へ戻ったと、私の携帯電話へ連絡があったわ」

「そうか。それならいいんだ」

 泰宏が心からホッとしたような様子を見せた。同時に、手を繋いでいる娘も顔を輝かせている。葉月もまた、ずっと春道がどうしているのか気にかけていた。

 そんな二人の表情を見て、和葉は心が痛んだ。電話があったというのは嘘だった。実際にはいくら連絡をとろうとしても、春道の携帯電話に繋がることはなかった。

 だがそれを今この場で言ったところで、心配性な兄を余計に心配させてしまうだけだ。そうすればあれこれと、また世話を焼きたがるだろう。自分の問題であまり迷惑をかけたくなかった。

「じゃあ……行くわ」

「ああ……ちょくちょく遊びに来い。ここはお前の実家なんだからな」

 小さくながらも、和葉はコクンと頷いた。
 頻繁に戻ってきたりはしないだろうが、これまでみたいに何年も音沙汰なしということにはならないはずだ。

「バイバイ、おじちゃん、またねー」

 和葉と繋いでいるのとは別の手を、泰宏に向かって葉月は大きく左右に振った。和葉の父――お祖父さんに嫌われていたわけではないとわかって、過去の冷たい仕打ちについても全然気にしないようになっていた。

 それでも時折寂しそうにしていたのは、やはり生前に仲良く祖父とおしゃべりをしたりしたかったからに違いない。今となっては不可能だが、できれば望みを叶えてあげたかった。
 和葉がそう思えるようになったのも、父親が残してくれた遺言書や通帳のおかげで、わずかながらも本心を理解できた気がしたからである。

 別れの挨拶を済ませ、少し歩いたあとで和葉は幼少時代を過ごした戸高家を振り返った。

「――え?」

「ママ、どうしたのー」

「……いいえ。何でもないわ」

「あ。おじちゃん、まだ手を振ってくれてるね。
 バイバーイ! またねー!」

 玄関の前に立ってこちらを見てるのは、紛れもなく実兄の泰宏だった。葉月の呼びかけに応えて、何事か大きな声で叫んでいる。

 ……やっぱり気のせいよね。

 泰宏へ最後にもう一度頭を下げて挨拶してから、和葉は前を向く。

 ――また来いよ。

 聞きなれた声が、どこからともなく和葉の耳へ届いてきた。
 それは兄のものでなければ、他の親戚たちの誰でもない。やはり先ほどのは気のせいじゃなかったのだ。

「……またね」

 ほんの一瞬だけ、玄関前で小さく手を上げていた男性の姿を思い浮かべながら、和葉は小さな声で別れの挨拶を口にした。

「お父さん……」

   *

 長い時間電車に揺られ、ようやく戻ってきた自宅。家の中にあった光景は、和葉が予測したとおりの状態になっていた。
 帰ってくるなり、春道へ会いに行こうとした愛娘を、あえて和葉は止めなかった。どうせ、いずれはバレる。それがいつになっても同じだと判断したのだ。

 ひとつ小さなため息をついたあとで、和葉もまた葉月同様に階段を上る。
 部屋の前で呆然としてる娘を見つけるのは、その直後のことだった。

「……ママ……パパは……」

 大きく開け放たれたドアの横で、室内を見て葉月が呆然としている。
 覗かなくても結果はわかっていたが、それでも一応部屋の様子を確認する。

 春道の私室として貸していた部屋は、見事なまでにもぬけの殻となっていた。
 持ち込まれた道具類はすべて運び出されており、葉月と二人だけで生活していた頃の光景に戻っている。

 連絡がつかなくなった時点で、ある程度予測はついていた。しかし、あの状況で抜け出すわけにはいかなかった。葉月には恨まれるだろうが、仕方なかったのである。

「……どうして……」

 いつも元気一杯な葉月も、これにはかすれた声をなんとかしぼりだすのがやっとだった。
 和葉が側に来たのを知ると、顔を向けて「どうして!」と大きな声を発した。

「だって、ママ……パパが連絡あったって……だから、葉月……なんで……」

 混乱しきっている葉月は、動揺しまくりの台詞を投げかけてくる。
 すぐには何も答えられず、しゃがみこんで相手に目線を合わせた和葉は、大事な愛娘を両手で抱きしめた。

「ママ……?」

「……ごめんなさい」

「……どうして? どうして謝るの!?」

 あまりにまっすぐな視線をまともに見つめ返せず、和葉はたまらず目を逸らしてしまう。春道が出て行った理由も、ある程度の予測がついていた。

 元々この結婚は、父親を欲しがった葉月のために和葉が提案したものだった。せめて娘が成人するまでは、本当の父親のふりをしてほしい。そう春道に頼み込んだ。その代償として、衣食住を提供すると約束したのである。

 お互いにメリットがあったからこそ、これまで共に生活をしてこれた。
 だが戸髙家での出来事で、その状況は一変する。当の葉月自身が、和葉の本物の娘でない事実を知っていたのだ。それは春道に関しても当てはまる。隠すべき真実はなくなった。

 それに加えて、葉月が父親をしつこいくらいに求めた理由も明らかにされた。
 母親である和葉が寂しそうだったから。
 それゆえに父親の存在を求めたのである。

 二つの事実を知った春道は、母娘が互いの存在をもっとも大事にしてると理解した。そして自分がこの家にこれ以上滞在する理由はないと判断したのだろう。仮に和葉が相手の立場だったとしてもそう考えていたに違いない。

 もう一度、春道が私室として利用していた部屋を見渡してみる。
 すると床に一枚の紙切れが落ちているのを見つけた。葉月から両手を離し、立ち上がった和葉はゆっくりと近づいていく。

 拾い上げた紙には、離婚届と書かれていた。春道の名前が記入され、印鑑もしっかりと押されている。あとは和葉が必要な欄を埋め、役所に提出すればすべてが終わる。

「ママ……ねえ、ママ……?」

 部屋の真ん中で立ち尽くしている和葉へ、とことこと葉月が近寄ってきた。目には涙を浮かべ、今にも号泣しそうな勢いだ。
 娘は悲しむだろう。それでも真実を告げないわけにはいかない。

「聞いて……葉月」

 今一度、目線を相手に合わせてから、和葉は落ち着いた声で娘へ話しかける。

「高木春道さんは、葉月と血が繋がってないわ。それはわかってるのよね」

 他ならぬ葉月自身が、戸髙家においてその事実を認めている。今さら「違う」なんて答えが返ってくるはずもなかった。
 小さく頷いた娘へ、さらに和葉は言葉を続ける。

「あの人がパパになってくれたのは、ママが頼んだからなの。実際には知り合いでも何でもなく、ただ偶然あの場で出会っただけの人だったのよ。
 だから――」

「――違うもんっ!」

 突如として葉月が大きな声を発した。
 首を勢いよく左右に振り、和葉の説明を拒絶する。あれだけ慕うようになっていたのだから、こうした結果になるのもある程度予測がついていた。けれど、もう我侭は通用しない。

 和葉はできるかぎり丁寧に、結婚前に喫茶店で春道と交わした約束事についても教える。普通はこのぐらいの年齢の子に話すべきではないのかもしれないが、葉月は思っていたよりもずっと大人だった。下手に誤魔化す必要はないと判断した。

「高木さんが提案に賛同してくださったのは、待遇だけじゃないと思うの。こちらの境遇にもある程度同情したからこそ、あんな変な結婚にも応じてくれたのよ」

 結婚するというのは簡単なことじゃない。和葉だって、娘のためとはいえかなりの決意が必要だった。相手は得ばかりだから、特に反対はしないだろう。当時はそんなふうに軽く考えていた。

 けれど今になって初めてわかる。和葉みたいに何の支えもなく、知り合ったばかりの異性と簡単に結婚なんて決断できない。立場が逆だったら、はたして自分は応じていただろうか。答えはでない。それぐらい難しいのだ。

 既婚者となれば、必然的に足枷をつけられるようなケースもでてくる。何も得ばかりではないのだ。もしかしたら、和葉や葉月が知らないところで、高木春道はずっと苦労していたかもしれない。
 それは本人でなければわからないが、もしそうだとしたらそろそろ足枷を外してあげるべきなのではないだろうか。和葉はそう考えていた。

 望む望まないにかかわらず、春道のおかげで解決した問題もある。葉月や父親との関係にしてもそうだ。これが和葉ひとりだったら、ここまでうまく事は運んでいなかったに違いない。

 もしかしたら、途中で万が一の事態になっていた可能性も否定できない。お節介ぶりにいらいらしたこともあったが、春道が家に来た効果は想定していたよりもずっと大きかった。

「高木さんには、高木さんなりの人生がある。葉月だって同じでしょう? それを私たちの都合で好き勝手に左右させてはいけないの。わかるわよね」

「わかんないっ!」

「……葉月」

 しゃくりあげながら叫ぶ娘の姿に、心が強烈に締めつけられる。

「パパは……葉月のパパなんだもんっ! 偽者とか本物とかないもんっ!」

「……でもね。高木さんは家を出て行った。これは紛れもない事実なの。私たちと暮らしたいと思っていたら、こんな真似はしなかったと思うわ。だから……仕方ないの」

「そんなの……でも……やっぱり葉月、パパと一緒がいい。せっかく仲良くなれたと思ったのに……こんなのいやだよぉ」

 悲しみに号泣する娘を前にして、和葉は母親としてただ抱きしめてあげることしかできなかった。少しでも心の傷が癒されるように、両腕にギュッと力を入れる。その腕を葉月がそっと掴んできた。

「ママは……?」

「……え?」

「ママは……パパがいなくていいの?
 寂しくないの?
 悲しくないの?
 辛くないの?
 葉月みたいに泣きたくならないの?」

「それは……」

 なんとも言えなかった。正直に白状すれば、考えたことがなかった。

 ――いや、もしかしたら考えないように意識してたのかもしれない。

 口ごもったままの和葉に、葉月はなおも強い口調でたたみかけてくる。

「葉月、ママもパパも大好きなんだもんっ! 二人とも大切な家族なんだもんっ!」

 ズキンと胸が痛んだ。まさか葉月から、そんな台詞を聞かされるとは思ってもいなかった。一緒に過ごした時間は少なくても、娘の中ではかけがえのない人生の一ページになっていたのだ。

 長い時間をかけて信頼関係を構築してきたのに、春道は一年もかけずに愛娘からそれを得てしまった。嫉妬しないと言えば嘘になる。
 しかし、それよりも――。

「……そんなに……パパと一緒がいいの?」

「三人がいいの。それにママのお兄さんとかがいて、皆で楽しく遊ぶの。にこにこ笑顔で一緒にいるの」

 顔どころか洋服まで涙を濡らし、必死で訴えかけてくる葉月に、和葉はこれ以上我慢するように告げたりできなかった。

「――わかったわ。それなら、ママと一緒にパパを迎えに行きましょう」

「うんっ!」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

Emerald

藍沢咲良
恋愛
教師という仕事に嫌気が差した結城美咲(ゆうき みさき)は、叔母の住む自然豊かな郊外で時々アルバイトをして生活していた。 叔母の勧めで再び教員業に戻ってみようと人材バンクに登録すると、すぐに話が来る。 自分にとっては完全に新しい場所。 しかし仕事は一度投げ出した教員業。嫌だと言っても他に出来る仕事は無い。 仕方無しに仕事復帰をする美咲。仕事帰りにカフェに寄るとそこには…。 〜main cast〜 結城美咲(Yuki Misaki) 黒瀬 悠(Kurose Haruka) ※作中の地名、団体名は架空のものです。 ※この作品はエブリスタ、小説家になろうでも連載されています。 ※素敵な表紙をポリン先生に描いて頂きました。 ポリン先生の作品はこちら↓ https://manga.line.me/indies/product/detail?id=8911 https://www.comico.jp/challenge/comic/33031

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...