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《一》
しおりを挟む「死体ですって」
アイロンが充分にあてられた皺ひとつない朝刊をめくると、見開きのはじに不気味な記事があった。
近所の川で男の死体があがったらしい。
「新聞を動かしなさいませ奥様。また首を悪くしますよ」
「まつ、男の死体ですって」
「ええ、存じ上げておりますとも……いやなことばかり目につきますわねえ」
ばあやのまつがテエブルに置いたままの皿をどかして新聞を見やすい位置にすえてくれる。十三参りの帰り、野犬に片目片足を食われてからというもの、わたしはいまだに見えなくなった空間の把握が不得手にがてだった。
「きっとまた川上の村から流れてきたんでございましょ? あちらさん、炭鉱も工場も軒並み閉鎖で最近ずっと不景気だって聞きますもの……ア、そうそう! うしろの長者番付、五番目に旦那様のお名前がありましたのよ!」
「あらそう」
珈琲を飲みつつ適当にあいづちを打つ。
人より二時間起床が早いばあやのまつは、毎朝のアイロンがけに乗じて新聞のどこになんの記事があるのかすっかり覚えてしまう。そして自分が気に入った記事について話すのがこの時間の日課だった。
新聞をうしろまでめくる。
確かに旦那様の──尾上 千晃(おのえ ちあき)の名があった。数ヶ月前の子会社合併が資産増に寄与したと書かれている。
「……こんなこと言っちゃなんですが、それもこれも、千景(ちかげ)様が失踪してくださったおかげですわね」
板張りの床を雑巾で拭きながらまつの口が止まらない。
鼻の穴が大きく開いて、たのしげだった。こういうときのまつの話はたいてい聞き流してしまうのが一番だから、わたしは今日の予定を思い出すことにする。昼からは女中相手にお茶のお稽古をする曜日だから、その前に、そろそろお中元の宛名書きを終わらせなければ。
「イエ、おかげなんておかしいんですけど……でもあの方がいなくならないと、子会社も合併できなかったわけですし。あのときはお爺様が亡くなったそばから手紙一枚で家出だなんて、まあ不義理なと思いましたけれど……あとは旦那様も、お妾だけなんとかしていただければねえ」
「これ、ばあや」
「だってねぇ奥様。旦那様ったら最近、離れにこもりっきりじゃございませんか。前は奥様を目の中に入れても痛くないほどのお可愛がりようでしたのに……それにお妾が三人だなんてお坊ちゃんの教育にもようございませんわよ」
「あら、妾の人数で言うなら亡くなったお義父様は五人。旦那様より二人も多かったわ。でもご立派にお家を盛り立てているじゃないの」
生まれる前からわたしを知るまつは、それ以上言っても無駄だとおかしげに肩をすくめて、板張りの床の拭き上げを再開した。
蝉しぐれがみんみんみんと耳をつんざく。
テエブルの上に朝刊を広げなおして、もう一度はじの記事を見る。
あがった死体は腐敗が進んで、身元も年齢も、いつから沈んでいたのかもわからないらしい。
警察は事件事故両方の可能性を視野に捜査を進めているという。
みぃぃんみんみんみんみんみんみんみん──
「おはようございます」
「アラッ! おはようございます旦那様、もうご出勤で?」
「ええ……千之助せんのすけは?」
「お坊ちゃんはまだおやすみです。乳離れしてから寝ぐずりがひどくて」
「そうかあ。まつさん、悪いんだけど弁当とは別に朝めしを包んでくれ。急がないから」
「はいはい。少々お待ちくださいませね」
どたどたとまつの歩く足音が遠ざかってゆく。
新聞を握りしめるわたしに、男の影が重なった。視線をあげる。
男はいつもうつくしかった。
日本人にしては珍しいくらいに彫りが深く、きりりとした眉に柔和な琥珀色の目。陶磁器のようになめらかな肌に、濃く煮出した紅茶色の髪。知り合って随分経ったあと、遠い異国の血がまざっていると聞かされた。
夫婦で並べばまるで日本人形と西洋人形だと褒められるが、そのたびわたしは消えたくなるほど恥ずかしい。彼がガラス箱に入った完璧な西洋人形なら、わたしはさながら、打ち捨てられたがらくただ。
「……やぶれますよ、お嬢さん」
握ったこぶしがたやすくほどかれる。
いつのまにか朝刊のはじはぐしゃりと潰れ、手のひらには新聞のインキと汗がべったりついていた。
「きづかなかったわ……」
見えない方はいつもこうだ。
身元不明の水死体の記事はところどころにじんでかすれてしまっている。
「汚れてしまいましたね」
男が、わたしの手をなでる。鞄を床に置き、床にひざをついて舌を伸ばした。わたしのそれよりひと回りもふた回りも大きな舌が、くちゃくちゃと下品な音を立てながらわたしの手のひら、指の股、皺の谷間のひとつひとつまで丁寧になぞって濡らしてゆく。
「ふ……」
わたしは声を出さぬよう、くちびるを噛んだ。
なにかをこらえれば余計に感覚は鋭くなる。這うような舌先の動きに、まとわりつく琥珀色の視線に呼吸が震える。腰がずんと重い。
このうつくしい男は昨日、どの妾を抱いたのだろう。
この舌先で、女のどの部分をいじめて、何度いかせたのだろう。
──わたしはまだこの男に抱かれてすらいないのに。
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