後悔しても、もう遅い

花霞つばき

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 叩きつけるような雨が、容赦なくホワイトの体温を奪っていく。
 
 漆黒の王宮を追い出され、当てもなく歩き続けて数時間。
 視界を遮る雨幕の向こうに、隣国コイールズ公国との国境を示す古びた石碑が、幽霊のようにぼんやりと浮かんでいた。

 薄いメイド服は泥に汚れ、水を吸って鉛のように重い。
 切り裂かれた婚約破棄の書類だけは、なぜか捨てられずに胸元へ抱え込んでいた。

「……寒い……」

 ガチガチと歯の根が合わない。
 指先はすでに感覚を失い、自分の足がどこを踏みしめているのかさえ判然としなかった。
 
 あんなに必死に掃除した手だ。
 誰よりも王宮を愛し、誰よりもダーク殿下の幸せを願って動かしてきた手。
 
 それが今は、冷たい泥を掴むことしかできない。
 
 不意に、膝の力が抜けた。
 粘りつくような泥濘の中に、ホワイトの身体が崩れ落ちる。

「……あ……」

 顔半分が冷たい泥水に浸かる。
 泥の匂い。雨の匂い。そして、自分の中から「生」がこぼれ落ちていくような絶望感。

 ――このまま、誰にも気づかれずに消えてしまうのかしら。
 
 掃除も愛も、すべては一人きりのワンオペだった。
 報われることのない献身の果てが、この孤独な死なのだとしたら、あまりに虚しい。

 意識が遠のき、暗闇がすべてを塗りつぶそうとした、その時だった。

 雨音を切り裂くように、重厚な蹄の音が響いた。
 
 続いて、規則的な車輪の回転音。
 それは荒れ果てた国境の道には不釣り合いな、洗練された「高級」を感じさせる音だった。

「……止まれ」

 低く、地響きのように響く男の声。
 
 馬車が止まり、扉が開く音が聞こえる。
 ホワイトは重い瞼を微かに持ち上げた。
 
 泥だらけの視界に飛び込んできたのは、漆黒の外套を翻し、こちらへ歩み寄ってくる長身の影だった。

「……女か。この嵐の中、国境付近で何を倒れている」

 冷徹、という言葉を形にしたような声。
 慈悲など微塵も感じられない。だが、その声には不思議と、泥を払拭するような「透明な響き」があった。

 男がホワイトの傍らに跪く。
 
 銀糸のような髪が雨に濡れ、青い瞳が冷ややかに彼女を射抜く。
 タート・コイールズ公国公爵。
 「氷の公爵」と恐れられるその男は、泥にまみれたホワイトを一瞥し、眉を潜めた。

「……ひどい有様だな。まるで、掃き溜めに捨てられたボロ雑巾だ」

 その言葉は残酷だった。
 だが、タートは拒絶するような素振りは見せず、素手でホワイトの顎を持ち上げた。
 
 ホワイトの濁った瞳が、タートの瞳と重なる。
 その瞬間、タートの眉間がわずかに動いた。

(……この女、何だ?)

 タートは驚愕を押し殺した。
 
 目の前の女は、死に体だ。
 身なりは卑しく、体温も極限まで下がっている。
 
 だが、彼女が触れている地面――泥濘のはずのその場所だけが、不自然なほど「清浄」な空気を感じさせる。
 彼女の周囲から放たれる、清冽な魔力の残滓。
 それは、合理性を重んじるタートがこれまでの人生で一度も目にしたことがない、圧倒的な純度の「浄化」の輝きだった。

「…………拾う価値は、ありそうだな」

 タートは独り言のように呟くと、迷いなくホワイトの身体を抱き上げた。
 
 泥だらけの彼女を、自身の高価なシルクの外套で包み込む。
 汚れを厭う様子は微塵もない。
 
 ホワイトは、意識が混濁する中で、自分を包み込む「熱」を感じていた。
 
 冷たい雨に打たれ続け、凍りついていた心臓が、ドクンと大きく脈打つ。
 
 男からは、雨の匂いに混じって、清涼な白檀のような香りがした。
 この数年間、誰からも触れられなかった。
 誰からも「守るべきもの」として扱われなかった。
 
 それなのに、今。
 初めて出会った冷酷なはずの瞳に、自分は確かに映っている。

「……あ、あ……」

 何かを伝えようとしたホワイトの唇は、音を紡ぐ前に震え、閉じられた。
 
 タートは無言のまま、彼女を馬車の柔らかな座席へと横たえる。
 
「全速で屋敷へ戻る。……この女を、死なせるな」

 御者に短く命じ、タートは自らも馬車に乗り込んだ。
 
 揺れる車内で、タートは自分の腕の中で震える小さな存在を見つめる。
 
 彼女の手は荒れ果て、爪の間にまで泥が入り込んでいる。
 だが、その手が放つ微かな「白き光」が、馬車の中の澱んだ空気を次々と洗い流していくのを、彼は見逃さなかった。
 
 この無惨な少女が、どれほどの価値を秘めているのか。
 あるいは、どのような理不尽によってこの場所に捨てられたのか。

「……コイールズ(わが家)にゴミは不要だが。……磨けば光る『宝』なら、話は別だ」

 タートの唇に、冷たくも艶やかな笑みが浮かぶ。
 
 それは、後に「溺愛」と呼ばれることになる、苛烈な独占欲の萌芽であった。
 
 ホワイトを乗せた漆黒の馬車は、雨夜の国境を越え、彼女にとっての「救済」の地へと、激しく走り去っていった。```
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