マージナル:平凡なβが、すべての運命を壊すまで

水城

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41.春日悠一の吐息

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 春日葬儀社の裏手に、藤堂家の黒塗りが止まる。
 悠一を降ろすと、車はすぐさま走り去った。

 それは単に、その後の藤堂尊の「予定」が「押して」いたからなのかもしれなくて。
 別に悠一への「冷たい仕打ち」のようなものではなく。

 午後の住宅地に不似合いな車が、長く停められることによって、周囲の視線や関心を集めたりしないようにと――

 竹内や尊が、早々に立ち去ったのは。
 ただ、悠一と悠一の家族への、そんな気遣いからに過ぎなかったのだろう。

 「ただいま」の声もなく、玄関を開け、悠一は、ゆらりと家に入った。
 ちょうど家にいた母親が、台所から出てきて、悠一を出迎える。

「悠一、どうしたんただ?」
 
 問いかける母親の声は、驚くような色も、とがめ諫めるような棘も、何ひとつ纏っていなかった。

 「驚かない」ワケはないはずだ。
 制服は奏の分泌液で濡れそぼっていて、悠一の目は充血しきっている。

 どうみても「普通」ではなかった。

 そして、悠一に付着している奏の甘い匂いは、どんなに鈍感な人間だって分からないはずはない。なのに。

「……ともだちが」
 悠一が低く呟く。

「具合……悪くなって、家に、おくって…」

 母親は、ただコクリと頷いた。
 そして、

「ほらユウ、寒いから、早く上がんなさい」と囁き、
「なんね? 友達って、かなでくんね」
 と、サラリ続けた。

「ほら、そこ座りなん」と言って、母は悠一のコートと詰襟を脱がせ始める。
 言われるがまま、悠一はダイニングの椅子に腰を下ろした。

「上着は、そんな汚れてないかね……拭うといてあげようかね」

 そう言って、母親は洗面所の方へと歩き出す。
 水音、そしてボイラーの音。
 
 パタパタとスリッパの足音で、母が戻ってくる。

「お風呂、沸かしよるから、入りなさい。あがるとき、湯はもう抜いてしまって構わんだた」

 うん、と頷く悠一に、ふわり、母親が続けた。

「ああ、ズボンは……もう、あれやねぇ。なんかまだ、制服の古いの取ってあったかぃね、でも一年生の時のじゃ短すぎるやろうね。急いで誂えてあげるし、とりあえずは、ほら、喪服のでも着といたん」
 
 「分かった」とだけ呟いて、悠一は風呂場に向かう。

 使った湯は捨ててしまっていいと、そう言われていたから。
 悠一は掛湯もなしに、そのまま湯舟に飛び込んだ。

 寒かった。
 身体の震えが止まらなかった。だから。
 お湯が痛いくらいに熱く感じた。

 涙が溢れる。
 悠一は、バシャバシャと何度も何度も顔を洗う。

 陰茎は勃起を続けていた。
 指筒で雑に扱いて、二回射精したら、少しおさまってくる。
 そしてやっと、ひとつだけ、溜息をつくことができた。

 照明をつけるのを忘れていた。
 だが、弱々しいとはいえ、まだ外の日差しが差し込んでいたから、風呂場は薄明るい。

 白く漂う湯気を見やりながら、悠一はふと、母親のことを考える。
 
 「気が利かない」というワケでは、けっしてない人だ。
 もちろん仕事柄、そんなことでは務まらない。

 だが、どちらかといえば「おおらか」というか。
 よその家の母親にありがちな、細かいコトに「いちいち気づく」タイプではないなと、そう思っていた。

 そう。
 「優しくない」というのとは、ぜんぜん違う。
 「細やかな性格か?」と問われれば、それは疑問だなと、そう感じていただけのこと。

 母は、悠一が陸上部を退部したワケも、問い詰めたりはしなかった。
 元来の性格もあるだろうが、なにより家業がバタバタと忙しすぎるせいなのだろうと。
 悠一はそう解釈していたのだ、だが。

 違っていたのかもしれない――
 
 「気づいていない」のでは、なくて。そうじゃなくて。たぶん。

 「ああ、そうか……」と。
 悠一が小さな呟きを洩らす。

 父さんはきっと。
 母さんのそういうところが、良かったのかもしれないな……と。
 そんなところに、いつも救われてきたのかもな、と。

 ボンヤリと曖昧な感慨が天啓のようにして。
 悠一の背を、そっとそっと撫でていった。
 
 
 *


 「あの日の出来事」以降、奏は一度も、学校に姿を現さなかった。

 送ったメッセージには、ひとつも既読がつかない。
 スマホに、電源すら入っていないのかもしれない。

 学校での日々は、普段通りに過ぎていった。
 驚くほどに。
 
 「あのこと」が話題にのぼることは、一切なかった。
 
 まるで――
 二年一組に「小鳥遊奏」なんていう人間など存在すらしていなかったかのように。

 誰ひとり。
 あの出来事も奏のことも、口にすることはなかった。

 そして雪が降り、冬休みが来た。

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