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第1章 最寄本家の人びと(教子とトンヌラ)

1 最寄本家の日常、本日ちょっと非日常〜平日朝6時台のファンタジー襲来はもうこれ勘弁プリーズ〜

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最寄本もょもと家の朝は遅い。
なので、父のトンヌラがまだグースカ寝ていたところで、何らおかしくはない……

……や、そんなわけはないか、さすがにそれは嘘が過ぎるか。

リアルなところでは、朝6時前にはもう、境内どこかから、箒で砂利や庭の土を掃く音が聞こえ始める。

最寄本家の4人は、都内某所に立つ神社ーー「迷河(まよいが)神社」というーーの、それほど広くはない境内の脇の方、神主の一家が暮らす大きな社務所兼家屋の裏手の、こじんまりしていて昭和感あふれる一戸建てに住まっている。

外から箒の音が響いてくる頃には、一家の母教子のりこはもう起きていて、家族の朝食や弁当を作り始めている。
弁当は、下の子、中学2年生のしゅんと、自分が職場に持っていく用だ。

教子の毎朝は、おおよそ以下の繰り返しだ。

布団で目覚める。
隣を見る。
夫のトンヌラが隣の布団で寝ていれば、(あ。来てる。)と思う。
ほぼ寝ぼけつつ、トイレへ。
トイレから出て、なんとも古いしつらえの洗面所で手を洗う。
蛇口を閉めると同時に、耳の感度を上げる。
しゃーっ、しゃーっ……
箒のリズミカルな音を拾い、を吟味する。
音からして外を掃いているのが兄なら、何もせず台所へ。
音からして、兄嫁の泰子さん、あるいはお義母さんなら、洗面所の横開き窓を開け、
「おはようございまーす」
とあいさつ。
(今朝は、音からして兄だったのでスルーできた、ラッキーだ。)
廊下を歩いて(まだ寝ぼけている)、キッチンと呼ぶには昭和感漂う台所へたどり着く。
半分寝ぼけつつ、料理を開始。
日によって、ワイヤレスイヤホンを耳に突っ込んで、ラジオアプリでお気に入りの番組を聴いていたりも。
弁当と朝食をおおよそ作り終わる頃、まず隼が「うはや~」とか「う~~」とか言いながら部屋に入ってきて、キッチンテーブルにドッカと腰掛け、リモコンでテレビをつける。(教子が夜のうちにNHKとかEテレに合わせている場合は、『THE TIME,」に変える。)それにあわせて教子はイヤホンを外す。
シマエナガちゃんが「ろくじ、さんじゅっぷん!」と言いながら飛び出てくるタイミングで、教子は階段を二階へ上がっていき、上の娘まゆの部屋の外に立って
「朝だよー。起きなー。」
と声をかける。(「んー…。」と返しが聞こえれば、まだいい方だ。)

ただ、その日、いつもと違ったことが起こった。

台所に戻ろうと、教子が階段を降りていると、

ドウンッ

という音と振動を、体に感じた。
少し離れた先で大きな花火が打ち上がって炸裂したような……
いや、もっと近くで起こっただ。


眉をしかめつつ、一階へ降りた。
廊下を歩きつつ辺りを見回す。

(なんだ、今の……?!)

直感的に、小走り気味で廊下を行き、寝室へ向かう。角を曲がる時、

「わっ!」

夫が急に現れ、ぶつかりそうになった、けれど間一髪、身をかわした。
「ごめん」も言わず、なんだか慌ててどたどた行ってしまった。一瞬見た顔が、なんか必死の形相だった。

(こーいう時軽くでも謝ろうよ、日本語でもサパルフィリア語でもいいから……)

など思いつつ寝室へ入ろうとして。
教子は入口で固まり、目を見開き、立ちつくした。

まず目に飛び込んだのは、火。
布団から少し離れた場所で、緑の物体が燃えている。
燃えているのは、姿も大きさも、これまで生きてきて見覚えのない、ハエのような昆虫。
禍々まがまがしい緑色。とんでもないサイズだ。
長く伸びた口。ハエと蚊と蛾とトンボの合成虫キメラのような。
これは、そもそも、ほんとうに虫なのだろうか……?
その何かの体と羽は吹っ飛ばされて、体液が布団にべちゃりとはねている。

(……燃えている。火事はだめ。家に燃え移る前に、消さないと…!)

教子の眠気は一瞬で蒸発し、体内から消え失せる。
頭で、やるべきことはわかっている。
なのだが、どうしても足が、動きだしてくれない。

ダッダッダッダッダ……

誰かの足音が迫ってきた、トンヌラだ、部屋へ戻ってきた、両手に大きな金バケツを持ち、そこには水がなみなみと入っている。そして次の瞬間

バシャアーッ!

と、火に(虫?に)めがけ、かける。その一撃で、火はうまいこと消えた。

黒焦げの、巨大な緑の何かを見下ろしながら、トンヌラがはぁはぁと肩で息をしている。

「どーいうことだろ……なんでだ……」

絞り出すように、トンヌラが言った。

「いやいやいや」、夫のその背中向かって教子は言った、「なんでだは、こっちのセリフだよね」

「ごめん」

「ごめんというか」

「起きたら、もう、急にいて。とっさで」

「ほんとに、ほんとに、ほんっとに」、教子の思いがこもりすぎて3回も繰り返して、「こっちで卵産んじゃってるとかは、無理だから。絶対勘弁だから。離婚と慰謝料請求だけじゃほんと済まないから」

「ごめん……」

「あと、言ったよね、家の中で呪文はぜったいぜったい禁止って。破ったよね」

「いやほんと、そうけど、それしかなくて……ほら、武器も置くの、禁止じゃない……?」

「それもさ」、バケツに目をやりつつ教子は言い立てた、
「外へ裸足で駆けてって、兄ちゃんに借りたでしょ?もし兄ちゃんじゃなくて泰子さんだったら、お母さんだったら?バレたら、ここ居られなくどころじゃないよ。素手で十分倒せちゃうんでしょ?」

「寝起きで、びっくりしてたから……や、ほんと、すいません」

「もうついでに言っとくとさ」、教子はヒートアップしてきた、「生活費、あなたの口座から引落しできてなかったよ。そうなると銀行からメール来るはずだし、当然わかってるよね?」

「や、その、だとメール見られないし、こっちに帰ったの深夜とかで……
いや……はい、すいませんでした……」

「まあ……でのことも、たぶん、大変なんだろうなとは思うんだけど」、
教子の声から、少し熱と棘が抜け落ちた、
「でも、こっちでの現実は、現実だし。この先ずっとわたしが一馬力で頼られるのかって考えるのは、キツいので。わたしもごめんね、朝からビシビシ言っちゃったね、けど」

「そうだよね、そうだね……ごめん、ごめん。もっと、ちゃんとするよ」

「じゃあ、なかなおり」、教子は言いながら、トンヌラに歩み寄って、体を預けた。トンヌラが両手で教子を抱きしめる。
時間にして2、3秒そうした後で、教子は後ずさり、身を離す。

「じゃあ、ごめんだけど、それは片付けといてください」

「ハイッ」、兵士が上官にイエッサーと言うような緊張感でトンヌラが返し、「あれだよね、紙袋とかに入れて見えなくして、ポリ袋に入れるね」

「おー、学習してる」

「そこはほら……一応、『チャットなんちゃら』より億千万倍、賢いんで」

「そこに水差してごめん、ものすごい数量を表すのに、『億千万倍』は、ほぼほぼ使わない」

「歌謡曲の歌詞で、あったんだけどな」、トンヌラはあたまをぽりぽり掻いた、「そうなんだ、普通はこうは言わないんだ?」

「そうだねぇ、その歌のサビと、バックコーラスでぐらい、かな。かなり独特な表現」

「なるほど……また一つ日本語に詳しくなれた」

こういうやりとりをしているとき、教子はこの人と一緒にいるのは楽しい、と純粋にそう思う。

「トン君、今日はこの後、どうするの?家にいる感じ?」

「どうしよう……めっちゃ疲れていて……、とりあえずまた寝たい……」

「えーと。私はこの後、いつも通り仕事で出ちゃう。
隼は部活の朝練、繭はそろそろ起きて、バイト行く。だから、あなたが起きた時、家に誰もいないかも。
とりあえず、この布団のカバー、洗濯しておいて欲しいのと……あと、そう!この生き物が絶対他に部屋にいないよとか、卵産んでないとか、徹底的に調べておいて欲しい!
あとは、バケツは早めに戻しておいて、それは兄ちゃん以外の人対策ね。そういうの大事よ。
それと、スーパーで買い物お願いしたいのと、できたらコインランドリーで洗濯と乾燥かけてほしいのがいくつかある。それはあとでメモに書いとく。車は絶対禁止、ほんと守ってね」

「がんばりまふ……」、緊張が解けたら、とたんに眠くなったのか、トンヌラがふにゃけた表情になっている。
「HP表示が、黄色い……、ごめん寝ます……」

「はいはい。じゃあ」、軽く手のひらをトンヌラへ上げて見せた後、教子は部屋から出て、襖を閉めた。
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