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第1章 最寄本家の人びと(教子とトンヌラ)

3 トンヌラは、家族口座へ入れるお金を稼ぐべくバイトを探す(その①)

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時間を少し巻き戻す。
妻教子が出勤のため家を出てから2、3分後に。
場所も移動させて、外ではなく、ふたたび最寄本もょもと家の中に。

二度寝を決め込んて布団に入り、うつらうつらしていた父・トンヌラの耳に、どすどすという音が響く。
階段を降りる音だ。音からして、息子のしゅん

襖がガラッと開いて、
「父ちゃん!なんかさっき、超でかい音しなかった?どーん!て」

トンヌラは飛び起きて、
「ほんと?寝てて全然聞こえなかった」、とりあえず誤魔化すと、

隼は「えーうそでしょ?」と言ってから、「それ何?」とトンヌラの隣あたりを指さす。

あっ!
やばい、虫がそのまま……

少し前に、火球の呪文で撃ち殺した虫が、黒焦げのまま転がっている……?!

呪文のことは、というか、自分が何者かについて、子どもたちは知らない。
教子からも「それがもしバレたら、家庭としてもほんと、まずいことになるからね……!」
とつねづね、言われつづけてもいる。

トンヌラは立て膝ポーズのまま、すごい形相で、隣をばっと見る。
緑色が、目に飛び込んでくる。
……が、もうそれは元の形状、原型を、とどめていない。
溶けて、スライム----80年代半ばに子供たちの間で空前のブームを巻き起こした方の、あの半分液体みたいなけばけばしい緑の、とろっとろの----状態で、布団に半ば染み込んでいる。

元の、虫の痕跡は、この世から消え失せている。

(あぶねえ……超あせった……そうだったよ……)、






を思い出していた。この1、2秒、ものすごく動揺したが、
そこは隼に見せないように、どうにか平静なフリをしながら。

「隼な、これ、父さんがやっちゃった、寝◯ロ……」、トンヌラは苦笑して言った。
「うわ!きったねえぇぇぇ!」、隼があからさまに顔をしかめる。
「すまんて……音も、父さんが布団にブッ倒れた音……」
「ダメじゃん!」
「ダメでごめん。あと、可愛いくてごめん」
「古い!」
「そこは、ホラ、おじさんだから」
「だよね。まぁ、びっくりしたけど、原因わかってよかった。じゃ、俺行くんで」
片手を上げて、隼が襖を閉める。部活の朝練のため中学へ登校する、の意味だ。

(隼はほんと、単純なおバカだから助かる……)


二度寝モードはすっかり抜けたトンヌラは、まず虫を始末することにした。
虫……正確には、サパルフィリア語で「ラジャ・ファア・チュカーチュ=大きめの吸血羽虫」のスライム化した死骸を、ポリ袋に密閉して外目に見えなくする必要がある。

あちらとこちらの世界の法則のうち、細かい部類に属する、

「存在に耐えられなくなって消滅するはずのあちら側の事物は、
気化・液状化・固着化などめいめいに変形して、残りつづける場合がある」

を思い出していた。
今回の虫がそれに当たるなら、長い間完全消滅はしないで残る。
だから、面倒なことだが、こちらのものに与えた影響を取り除いて元に戻すため、
拭き取ったり洗濯したり、処分したりが必要になってくる。

トンヌラは立ち上がって廊下に出て、洗面所へ向かう。
棚から青と半透明2種類のポリ袋を取り出すと、寝ていた部屋に戻る。
2階へ上がる階段を通り過ぎる時に、
(繭は、まだ寝てるのかな……?破裂音、聞かれてないなら、ありがたい……)
と思う。
そして、教子が言ったセリフが、不意に甦ってくる……。


「生活費、あなたの口座から引落しできてなかった……」


トンヌラはとりあえず、元は虫だった緑のスライム状の固形部分を両手で掬いあげ、口を開いて置いたポリ袋へ、どさっと入れていく。
「生活費……生活費かぁ……」、ぶつぶつ繰り返しながら。

ひととおり終わると、掛け布団カバー(シングルサイズ)のジッパーを開け、布団本体から外して、液状の緑色がどこまで染み込んだか、広げて見ていく。
緑色部分は、触ると、ゴワゴワどころではなく、ガビガビで、凸凹に固着してなんだかクランキーチョコの裏面みたいになっている。クランキーチョコなら美味しそうだが、こちらは単に気持ち悪いビジュアルだ。

(これは……)、トンヌラはそこで、(もうダメだ、即、買い替えレベルだ)と一瞬思うが、あわてて打ち消す。


         。 


「うーん……」
1分後、布団の上に座ってあぐらをかいて、トンヌラはひとり、うなっている。
その哀れな姿は、隣においてあるポリ袋まで、なんか一緒にうなだれて見えるほどだ。
「……これは、まずいな……」
目線は、掛け布団の上、数枚の硬貨にそそがれている。
500円玉、50円玉、5円玉、そして日本の通貨ではないピンクゴールド色のコイン。それぞれ1枚ずつ。
棚に隠して置いてある、皮袋の中身をひっくり返して、一部ガビガビ緑の布団の上に、ぶちまけた。
この男の現状の、「総」資産だ。
少し擁護してあげるならば、「こちらの世界での」トンヌラの総資産。

では、彼は65535ゴールドを持っている。

自嘲的にトンヌラは思う、
(だけどそんなこと、ではクソほどの意味もない!)

そうなのだ。
過去に、持ち込もうとしたことはある。
実験的に1ゴールドだけ、とかではなく、通算すると何千ゴールドもだ。

そのたびに、ほぼほぼ、ゴールドは溶けて、消え失せてしまう。

ごくまれに、耐性があるゴールドが、混ざっていたりする。
さっき、皮袋に入っていたゴールドはそうだ。
短い間耐性があったと言えば、さっきの虫もそうだったし、
もっとながく居られるという意味では、トンヌラ自身がそれにあたる。

その耐性というのが、あちらの世界の事物にどうやって備わるのかは、わかっていない。
あちらの王国では王兄という身分であるトンヌラが、サパルティリア魔道院の大魔道たちに命じて追究させてもいるところだが、真理には未だに、たどり着けていない。

耐性の真理がわかれば、自分がこちらで存在できる理由もわかるし、
あちらとこちらの世界は、大きく変わるだろう……。

だがトンヌラにとって目下大事で、切実なことは、そういう大きな話ではなかった。


         。 


トンヌラは、充電コードが刺さった状態で床に置かれているスマホへ歩み寄り、ロックを解除して操作を始めた。
隙き間バイトを探すアプリ、「冒険者の宿伝言板」をタップする。

「東京23区西部」「単発・短期」「即金渡し」「専門スキルを活かせる!」
など、条件を入れて、検索ボタンを押す。
検索結果が出てきて、スクロールして見ていく。
スクロールしていく指が、ある募集案件で止まる。

『【高額】歴戦の勇者求む。あなたの『経験値』、私たちが高く買います』

見出しに興味をひかれ、トンヌラは募集の詳細を見てみる。



「求む:異世界を知る、勇者。

名のある経営者が、架空世界にいたことのある『真の勇者』を探しています。
あなたは、特別な剣の達人かもしれない。
あなたは、幾つもの強力な魔法を操れるかもしれない。
あなたは、精霊たちと共にあるかもしれない。
あなたは、モンスターたちと死闘を繰り広げたかもしれない。
あなたは、異世界の街の酒場で、仲間と出会ったかもしれない。

あてはまる、あなた。
あなたの経験が、必要です。

その経験を、お聞かせいただくこと。
これ自体が、アルバイト内容です。

聞くべき話が多くあると私どもが判断した場合、
何らかの形で正社員登用を検討します(応相談)。

日額100,000円~
経験者のみ 優遇:勇/賢/大魔/特癒その他高Lv一般職」
勤務地:旧ねこま遊園内

まずは面談においでください。選考の上、あなたに「語って」いただきます。



(これ、すごいな。しかも、俺、し……
場所も、ここのすぐ隣とか、条件最高すぎ……)

「応募!」ボタンをタップしかけたとき、以前、教子が語りかけた言葉をトンヌラは思い出す。

「きみ以外に、に来ているの誰かが、いるかもしれない。
だけど、接触しないほうがいい。
どんな相手で、何を考えているかも、わからないんだからさ。
ましてや、きみは、言ったら向こうでのVI、超重要人物なわけでしょう。
とにかく、リスクは避けないと。それは絶対に守ってほしい」

(どうしよっかな……)、

そして、ふたたび、(ガビガビ緑でもう寝られやしない)布団と、
その上に投げ出された4枚の硬貨、555円とあちらのゴールド1枚を、見やる。

(これでは、なんもできない!もはや、是非もなしだ……)

バイトしたことが教子にバレるリスクと、生活費を入れずにおくリスク。
脳内で瞬時に天秤にかけてみて、トンヌラは決断した。

「応募!」

タップすると、まさに秒で、トンヌラのスマホに電話がかかってきた。
会員登録しているから、電話番号が雇い主に通知されるのだ。

トンヌラはスマホを持ち直すと、その「非通知」の相手に応えるべく応答ボタンを押し、

「もしもし……」
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