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第九話③
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その日の朝、僕は久しぶりに有島の姿を見かけた。というよりは、意識して見たというべきだろうか。それまでは目に入っていても認識していなかったのだ。
僕がずっと、〝ANNE〟だの〝Galatia〟だのオブスキュラだの、離婚だのこれからの生活だの考えていたせいで、他のことに目がいかなかったせいだろう。
僕は改めて、有島の後ろ姿をぼんやりと眺めた。――でかいハムだ。もしくは、精一杯忖度してもブッシュドノエルか。一体、何を食ったらこんなに大きくなるのだろう。
というか、有島は普段何を考えているんだろうな。食い物以外のことを考えることはあるのか? 今もきっと、ソーセージやハンバーグとか、たっぷりとクリームがつまって、粉砂糖が雪のようにかかったシュークリームのことでも考えているんじゃないだろうか。
それって幸せなことだ、と僕は思った。たぶん、有島は両親から愛されているんだろう(知らないけど)。きっと有島がおいしそうに食べるから、ついつい甘やかしてしまうんだろう、と僕は勝手に妄想を続けた。
「何考えているんだか」自分に呆れて僕は呟いた。首を振り、そして、今朝用意した、あまり物を詰め込んだ弁当を広げる。
「野宮、放課後、暇?」
何も考えずに弁当を食っていると、君岡がやって来て僕に聞いた。
「なんか今日、むしゃくしゃしてさ。別に何かあったわけじゃないんだけど」
確かに、その言葉通り顔色が悪かった。
「まあ、暇だけど」紙片まみれの自分の部屋を頭から追いやって僕は答えた。
「よかった」君岡が答える。
放課後、君岡の家に入ると、またしても音楽が鳴っていた。以前とは違う音楽だ。ピアノソロ、落ち着く音色だった。
「野宮、ライブって行ったことある?」階段を上がる際、君岡が聞いた。
「いや、ないが」僕はリビングを見下ろした。遅れて君岡が追い付いてきた。
「僕もないんだ。嫌だっていうのに、クラシックに付き合わされたことは何度もあるけど」君岡は、その時のことを思い出したのか、うんざりした様子で言った。
「そうか」特に興味はわかなかった。
「で、今日はライブに行こうって思ってさ」君岡は扉を開けながら言った。
「ライブ? 今から? どこに? チケットは? 金なんかないぞ」
僕は困惑して言った。君岡は僕の慌てふためいた表情を見ておかしいと思ったらしく、愉快そうに笑った。
「もちろん、オブスキュラだよ。たまにやっているんだよ。それに行こうよ」
声を弾ませながら君岡が言った。
「オブスキュラに?」僕はまだ信じられずに聞き返した。
「そうだよ」君岡にゴーグルを投げられて、慌ててキャッチする。
「興味ない?」君人が僕の表情を覗き見た。
「いや……」僕はそのゴーグルを見つめた。――オブスキュラか。不思議だ。現実にうんざりし、こんな世界なんて滅んでしまえと思うほど、オブスキュラのことが頭に浮かぶのだ。
「ライブはどこで、何時にやるんだよ」準備を終え、僕は犬の姿になってエントランスで君人と再会し、改めて聞いた。
「わかんない」君人はあっけらかんとして答えた。
「わからない?」僕は呆れた。「今日ライブがあるから、呼んだんじゃないのかよ」騙された気がして、声を荒げる。君人が勢いに押されて後ずさった。
「そ、そんなに怒んなよ。何も僕は、今日、ライブがあるとは言わなかっただろ」それから詐欺師みたいなことを言う。
「言ったぞ。確かに、今日、ライブ、って」一単語ずつ、はっきりと声に出して伝える。
「行ってないって。ライブに行こうって言っただけで」
「何が違うんだよ?」僕は吠えた。キャンキャンと、まるで犬のように。というか、犬なのだ。
「しつこいな。違うって。あのさ、〝アーカイブ〟があるんだよ」
「同じことだろうが。今日やってなくて、何が〝ライブ〟なんだか」僕はまたしても、犬のようにかみつく。
「どうしたんだよ。野宮、なんか今日、おかしいぞ。ちゃんと話を聞けよ。言っとくけど、こっちの〝アーカイブ〟は動画とかのそれとは全然違うんだからな。そっくりそのまま、会場の熱気まで、保存されているって話だ」
君人はそう言って、落ち着けよ、というように、僕の頭を撫でた。そうされると、僕の意志とは関係なく、無条件に尻尾がパタパタと揺れるのを知っておきながら。馬鹿にされていると思ってその手を振り払った。
「やめろ。お前の言い分はわかった。わかったから、早くそれを見せてみろって」
僕がそう言うと、君人のそれまでの威勢のよさはスッと消え去り、抜け殻みたいになって黙り込んだ。そして、隙間風みたいな小さな声で、
「ない」とだけ答えた。
「ない?」僕は声を荒げた。
「ないってどういうことだよ」
「だから!」君人も声を荒げる。
「ないっていうのは、ないっていうことだよ! これから探しに行くの!」僕は呆れた。またか、と思ったのだ。
「……この時間からライブやっていることなんて、ほとんどないんだって。ライブがやっている夜には、二人では行けないし……それで、アーカイブを持っている人を探そうって言おうと思ってたのに、野宮が話を聞かないせいで……」
君人はぶつぶつと、不満を述べた。
「……ああ、なるほど、で? 一人じゃ探せないから、僕を呼んだってことか?」話が見えてくると、途端に、肩から力が抜け落ちた。
「そうは言ってないだろ」君人はあくまでも、認めないつもりらしく、勢いよく否定した。
「ただ、一人よりも二人の方が早いだろうって思っただけだし、それに、せっかくライブに行くのに一人じゃつまんないって思ったからだし」
「ああ、はいはい」いつものことだと思い、受け流す。「で? なにか当てがあるんだろうな」
「ない」……もういい加減、失望もしなかった。
僕がずっと、〝ANNE〟だの〝Galatia〟だのオブスキュラだの、離婚だのこれからの生活だの考えていたせいで、他のことに目がいかなかったせいだろう。
僕は改めて、有島の後ろ姿をぼんやりと眺めた。――でかいハムだ。もしくは、精一杯忖度してもブッシュドノエルか。一体、何を食ったらこんなに大きくなるのだろう。
というか、有島は普段何を考えているんだろうな。食い物以外のことを考えることはあるのか? 今もきっと、ソーセージやハンバーグとか、たっぷりとクリームがつまって、粉砂糖が雪のようにかかったシュークリームのことでも考えているんじゃないだろうか。
それって幸せなことだ、と僕は思った。たぶん、有島は両親から愛されているんだろう(知らないけど)。きっと有島がおいしそうに食べるから、ついつい甘やかしてしまうんだろう、と僕は勝手に妄想を続けた。
「何考えているんだか」自分に呆れて僕は呟いた。首を振り、そして、今朝用意した、あまり物を詰め込んだ弁当を広げる。
「野宮、放課後、暇?」
何も考えずに弁当を食っていると、君岡がやって来て僕に聞いた。
「なんか今日、むしゃくしゃしてさ。別に何かあったわけじゃないんだけど」
確かに、その言葉通り顔色が悪かった。
「まあ、暇だけど」紙片まみれの自分の部屋を頭から追いやって僕は答えた。
「よかった」君岡が答える。
放課後、君岡の家に入ると、またしても音楽が鳴っていた。以前とは違う音楽だ。ピアノソロ、落ち着く音色だった。
「野宮、ライブって行ったことある?」階段を上がる際、君岡が聞いた。
「いや、ないが」僕はリビングを見下ろした。遅れて君岡が追い付いてきた。
「僕もないんだ。嫌だっていうのに、クラシックに付き合わされたことは何度もあるけど」君岡は、その時のことを思い出したのか、うんざりした様子で言った。
「そうか」特に興味はわかなかった。
「で、今日はライブに行こうって思ってさ」君岡は扉を開けながら言った。
「ライブ? 今から? どこに? チケットは? 金なんかないぞ」
僕は困惑して言った。君岡は僕の慌てふためいた表情を見ておかしいと思ったらしく、愉快そうに笑った。
「もちろん、オブスキュラだよ。たまにやっているんだよ。それに行こうよ」
声を弾ませながら君岡が言った。
「オブスキュラに?」僕はまだ信じられずに聞き返した。
「そうだよ」君岡にゴーグルを投げられて、慌ててキャッチする。
「興味ない?」君人が僕の表情を覗き見た。
「いや……」僕はそのゴーグルを見つめた。――オブスキュラか。不思議だ。現実にうんざりし、こんな世界なんて滅んでしまえと思うほど、オブスキュラのことが頭に浮かぶのだ。
「ライブはどこで、何時にやるんだよ」準備を終え、僕は犬の姿になってエントランスで君人と再会し、改めて聞いた。
「わかんない」君人はあっけらかんとして答えた。
「わからない?」僕は呆れた。「今日ライブがあるから、呼んだんじゃないのかよ」騙された気がして、声を荒げる。君人が勢いに押されて後ずさった。
「そ、そんなに怒んなよ。何も僕は、今日、ライブがあるとは言わなかっただろ」それから詐欺師みたいなことを言う。
「言ったぞ。確かに、今日、ライブ、って」一単語ずつ、はっきりと声に出して伝える。
「行ってないって。ライブに行こうって言っただけで」
「何が違うんだよ?」僕は吠えた。キャンキャンと、まるで犬のように。というか、犬なのだ。
「しつこいな。違うって。あのさ、〝アーカイブ〟があるんだよ」
「同じことだろうが。今日やってなくて、何が〝ライブ〟なんだか」僕はまたしても、犬のようにかみつく。
「どうしたんだよ。野宮、なんか今日、おかしいぞ。ちゃんと話を聞けよ。言っとくけど、こっちの〝アーカイブ〟は動画とかのそれとは全然違うんだからな。そっくりそのまま、会場の熱気まで、保存されているって話だ」
君人はそう言って、落ち着けよ、というように、僕の頭を撫でた。そうされると、僕の意志とは関係なく、無条件に尻尾がパタパタと揺れるのを知っておきながら。馬鹿にされていると思ってその手を振り払った。
「やめろ。お前の言い分はわかった。わかったから、早くそれを見せてみろって」
僕がそう言うと、君人のそれまでの威勢のよさはスッと消え去り、抜け殻みたいになって黙り込んだ。そして、隙間風みたいな小さな声で、
「ない」とだけ答えた。
「ない?」僕は声を荒げた。
「ないってどういうことだよ」
「だから!」君人も声を荒げる。
「ないっていうのは、ないっていうことだよ! これから探しに行くの!」僕は呆れた。またか、と思ったのだ。
「……この時間からライブやっていることなんて、ほとんどないんだって。ライブがやっている夜には、二人では行けないし……それで、アーカイブを持っている人を探そうって言おうと思ってたのに、野宮が話を聞かないせいで……」
君人はぶつぶつと、不満を述べた。
「……ああ、なるほど、で? 一人じゃ探せないから、僕を呼んだってことか?」話が見えてくると、途端に、肩から力が抜け落ちた。
「そうは言ってないだろ」君人はあくまでも、認めないつもりらしく、勢いよく否定した。
「ただ、一人よりも二人の方が早いだろうって思っただけだし、それに、せっかくライブに行くのに一人じゃつまんないって思ったからだし」
「ああ、はいはい」いつものことだと思い、受け流す。「で? なにか当てがあるんだろうな」
「ない」……もういい加減、失望もしなかった。
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