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第十七話②
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「そうだったのか。お疲れ様。今までありがとう、野宮くん」
ベッドに座り、松葉杖を脇に立てかけ、まだ包帯の巻かれた脚を擦りながら大樹さんが言った。
放課後、僕と君岡は久しぶりに一緒に下校し、彼の家に直行した。二階に上がり、オブスキュラの準備をしていると、扉が開いて、大樹さんが僕を部屋に呼んだのだ。僕は、大樹さんに弟が今朝、突然制服を着て家を出たことについて聞かれ、簡単にそうなった経緯を答えたのだった。
「クビになったってことは、もう心配しなくてもいいってことかな?」
大樹さんはしかし、まだ心残りがあるのか、心配そうに聞いた。
「そうだと思います。何か聞いたりはしていないんですか?」
「何も。ただ昨日、何かあったな、と思ったけど、それだけかな。詳しく聞かなかったし」
大樹さんは安堵のため息を漏らし答えた。
「弟は、犯罪行為に加担するようなことはしてなかったんだろ?」
大樹さんは、念を押して聞いてきた。
「ええ、まあ、そうだと思います。というか、そこまで受け入れられていなかったみたいですよ。なんだか雑用とか、落書きとかをさせられたくらいで」
「落書き?」
「下らない言葉です。悪ふざけの一種で。心配するようなことじゃないです」
「そうか。なら、いいけど」また、ため息をつく。「本当に、色々手伝ってもらって助かったよ」
それから再度お礼を言われた。握手を求められたので、戸惑いながら彼の手を握った。力強い握手だった。
「じゃあ、俺、リハビリがあるから」そして、リュックを背負い、立ち上がった。
「見送りましょうか」流れで口にしたが、自分でもそんなことを言ったのが信じられなかった。
「いいって。もう病人じゃないんだ」きっぱりと断られた。が、なんとなく気がかりになり、一階まで一緒に下りた。
「弟から聞いたよ。前に骨折してたんだって?」リビングを歩いている間、大樹さんが言った。そこでは初めてこの家に来た時と同じ音楽が鳴っていた。
「え? ああ、まあ。ちょっと、両手両足を」大樹さんが笑った。
「ちょっとどころじゃないだろ、それ。なんだ野宮くん、俺の先輩だったんだな」
彼はよっこらしょ、と言いながら前に一歩踏み出し、玄関に腰を下ろした。片方の靴を松葉づえで器用に手繰り寄せ、履いた。
「じゃあ、俺はもう行くから。後はよろしく」僕は頷いた。
「母さんには俺から伝えておくよ。あ、そうだ。オブスキュラのことだけど、行きたくなったらいつでもウチに来てやっていっていいから。それくらいの働きをしてくれたからな」
大樹さんは頼もしい笑顔を僕に向けた。その後、なんとなく気まずい雰囲気が流れた。
「じゃ、また」大樹さんが言う。
「あの、変なこと聞いていいですか」僕が呼び止めた。
「え? ……何? まだ何かある?」大樹さんは身体を引いて、警戒心を見せた。
「いや、本当に、たいしたことじゃないんですけど。これ、なんて題名でしたっけ」
大樹さんが不穏な表情で僕を見た。
「音楽ですよ。今流れてるバイオリンの。聞いたことがあるような気がして、でも題名が思い出せなくて」僕は背中の、リビングを指差した。
「……あー、それね、ああ、びっくりした。もう、何だと思った」
大樹さんは緊張から解き放たれて、朗らかに微笑んだ。
「これね、これは確か、『悪魔のトリル』だった気がする。タルティーニが夢の中で悪魔に聞かされた曲だっけか? 母さんが好きなんだよ。よく流れてるだろ?」
「ええ、まあ」
そう答えている間に『悪魔のトリル』は、第三楽章のラストに差し掛かり、壮大なイメージを想起させながら終わった。
「えと、もういいかな」戸惑いながら大樹さんが固まった僕に聞いた。
「え、ああ、はい。どうもありがとうございました。ずっと気になっていたので」
「そうか」大樹さんは不思議そうに何度も頷き、背を向けて玄関から出て行った。僕は彼が出て行った後も、しばらくそこに立って考えていた。
君岡の問題が解決した後、急になだれ込むように物事が動き出したような気がした。僕の家では離婚が正式に決定し、僕は父さんと一緒にマンションを出ることになった。そして、ローンが残っているマンションは引き続き母さんが住むことになった。あの広いマンション一人で。
まあそれはどうでもいいんだが、そうなったのは、あの騒ぎがあった後に、僕が父さんに呼び出され、どっちと一緒に住みたいのかと聞かれたことが大きかった。
僕は返答に迷ったが、正直に母さんと一緒に住むのはもう無理だということを伝え、高校を卒業したら、父さんにも母さんにも頼らずに家を出て行くつもりだと言った。
でも父さんはその考えに否定的だった。父さんは僕を大学に行かせたがった。
その後も色々話し合ったのだが、結局、この話し合いは、僕が折れた。父さんの言いなりになったわけじゃない。冷静によく検討した結果、父さんの言うことに納得したのだ。なんだかんだ言って、僕はまだ、自分の可能性を探る時間が欲しかったし、そのために安定的な暮らしが必要だと思ったのだ。
それに、父さんは僕に、失敗に終わってしまった結婚生活の償いを少しでもさせてくれ、と頼んできた。僕は父さんがそんなことを思っていたとは知らなかったし、ましてやそんな風に頼まれるとも思ってなかったので、驚いた。僕は、厳しい表情で僕を見た後、黙って頭を下げた父さんの頼みを断ることはできなかった。
あれから、父さんが探してきたいくつもの新しい貸家の間取りや、場所を比較していく間に、僕は自分にどんな可能性があるんだろうかと、考えながら、進学先をなんとなく思い浮かべていた。
ベッドに座り、松葉杖を脇に立てかけ、まだ包帯の巻かれた脚を擦りながら大樹さんが言った。
放課後、僕と君岡は久しぶりに一緒に下校し、彼の家に直行した。二階に上がり、オブスキュラの準備をしていると、扉が開いて、大樹さんが僕を部屋に呼んだのだ。僕は、大樹さんに弟が今朝、突然制服を着て家を出たことについて聞かれ、簡単にそうなった経緯を答えたのだった。
「クビになったってことは、もう心配しなくてもいいってことかな?」
大樹さんはしかし、まだ心残りがあるのか、心配そうに聞いた。
「そうだと思います。何か聞いたりはしていないんですか?」
「何も。ただ昨日、何かあったな、と思ったけど、それだけかな。詳しく聞かなかったし」
大樹さんは安堵のため息を漏らし答えた。
「弟は、犯罪行為に加担するようなことはしてなかったんだろ?」
大樹さんは、念を押して聞いてきた。
「ええ、まあ、そうだと思います。というか、そこまで受け入れられていなかったみたいですよ。なんだか雑用とか、落書きとかをさせられたくらいで」
「落書き?」
「下らない言葉です。悪ふざけの一種で。心配するようなことじゃないです」
「そうか。なら、いいけど」また、ため息をつく。「本当に、色々手伝ってもらって助かったよ」
それから再度お礼を言われた。握手を求められたので、戸惑いながら彼の手を握った。力強い握手だった。
「じゃあ、俺、リハビリがあるから」そして、リュックを背負い、立ち上がった。
「見送りましょうか」流れで口にしたが、自分でもそんなことを言ったのが信じられなかった。
「いいって。もう病人じゃないんだ」きっぱりと断られた。が、なんとなく気がかりになり、一階まで一緒に下りた。
「弟から聞いたよ。前に骨折してたんだって?」リビングを歩いている間、大樹さんが言った。そこでは初めてこの家に来た時と同じ音楽が鳴っていた。
「え? ああ、まあ。ちょっと、両手両足を」大樹さんが笑った。
「ちょっとどころじゃないだろ、それ。なんだ野宮くん、俺の先輩だったんだな」
彼はよっこらしょ、と言いながら前に一歩踏み出し、玄関に腰を下ろした。片方の靴を松葉づえで器用に手繰り寄せ、履いた。
「じゃあ、俺はもう行くから。後はよろしく」僕は頷いた。
「母さんには俺から伝えておくよ。あ、そうだ。オブスキュラのことだけど、行きたくなったらいつでもウチに来てやっていっていいから。それくらいの働きをしてくれたからな」
大樹さんは頼もしい笑顔を僕に向けた。その後、なんとなく気まずい雰囲気が流れた。
「じゃ、また」大樹さんが言う。
「あの、変なこと聞いていいですか」僕が呼び止めた。
「え? ……何? まだ何かある?」大樹さんは身体を引いて、警戒心を見せた。
「いや、本当に、たいしたことじゃないんですけど。これ、なんて題名でしたっけ」
大樹さんが不穏な表情で僕を見た。
「音楽ですよ。今流れてるバイオリンの。聞いたことがあるような気がして、でも題名が思い出せなくて」僕は背中の、リビングを指差した。
「……あー、それね、ああ、びっくりした。もう、何だと思った」
大樹さんは緊張から解き放たれて、朗らかに微笑んだ。
「これね、これは確か、『悪魔のトリル』だった気がする。タルティーニが夢の中で悪魔に聞かされた曲だっけか? 母さんが好きなんだよ。よく流れてるだろ?」
「ええ、まあ」
そう答えている間に『悪魔のトリル』は、第三楽章のラストに差し掛かり、壮大なイメージを想起させながら終わった。
「えと、もういいかな」戸惑いながら大樹さんが固まった僕に聞いた。
「え、ああ、はい。どうもありがとうございました。ずっと気になっていたので」
「そうか」大樹さんは不思議そうに何度も頷き、背を向けて玄関から出て行った。僕は彼が出て行った後も、しばらくそこに立って考えていた。
君岡の問題が解決した後、急になだれ込むように物事が動き出したような気がした。僕の家では離婚が正式に決定し、僕は父さんと一緒にマンションを出ることになった。そして、ローンが残っているマンションは引き続き母さんが住むことになった。あの広いマンション一人で。
まあそれはどうでもいいんだが、そうなったのは、あの騒ぎがあった後に、僕が父さんに呼び出され、どっちと一緒に住みたいのかと聞かれたことが大きかった。
僕は返答に迷ったが、正直に母さんと一緒に住むのはもう無理だということを伝え、高校を卒業したら、父さんにも母さんにも頼らずに家を出て行くつもりだと言った。
でも父さんはその考えに否定的だった。父さんは僕を大学に行かせたがった。
その後も色々話し合ったのだが、結局、この話し合いは、僕が折れた。父さんの言いなりになったわけじゃない。冷静によく検討した結果、父さんの言うことに納得したのだ。なんだかんだ言って、僕はまだ、自分の可能性を探る時間が欲しかったし、そのために安定的な暮らしが必要だと思ったのだ。
それに、父さんは僕に、失敗に終わってしまった結婚生活の償いを少しでもさせてくれ、と頼んできた。僕は父さんがそんなことを思っていたとは知らなかったし、ましてやそんな風に頼まれるとも思ってなかったので、驚いた。僕は、厳しい表情で僕を見た後、黙って頭を下げた父さんの頼みを断ることはできなかった。
あれから、父さんが探してきたいくつもの新しい貸家の間取りや、場所を比較していく間に、僕は自分にどんな可能性があるんだろうかと、考えながら、進学先をなんとなく思い浮かべていた。
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