4 / 62
第二章
第一話
しおりを挟む
――冒頭から少し前、ゴールデンウィーク前のある日……
高校からの帰り道を、鬼平柊はいつもと同じように、トボトボと下を向きながら一人で歩いていた。鬼平は、今日も誰とも喋らなかった。四月からずっとそうだった。今年こそは、クラスに友達を作ろうと思ったのにも関わらず、結局いつもと同じだった。
「……また今年も一人か」
鬼平はわざとそれを口に出して言った。自分の喋る能力がなくなったわけではないと確認するためだった。
鬼平が一人になってしまう過程は、いつも同じだった。新しいクラスになり、鬼平がどうやって話しかけたらいいのか、話しかけてもいいと思える人を探して迷っている内に、クラスでは着々と関係が築かれていく。
そして、やっと人となりが見え始めた頃には、もう遅かった。その時には、既にクラス中に寸分の隙間もないくらいに関係が出来上がっていて、そこに鬼平の入る場所はどこにもなかった。
……それに、鬼平にはどうしても変えることのできない癖があった。それは、吃り、吃音だった。誰かに話しかける時、どうしても最初の一声が出てこないのだ。それでも、その時さえ過ぎれば、誰かが待ってくれさえすれば、いくらでも喋ることができると思っているのに、どうやってもその一言が出てこないし、その誰かも現れなかった。
そして、それは誰かに話しかけられる時も同じだった。鬼平は相手が欲しいと思うタイミングで上手く返事をすることができず、会話は途切れた。その時彼はただ固唾をのむだけの存在になり、相手はいつも、その長い沈黙だけで興味を失うのだ。
「きっと、これからもずっとこうなんだろうな」
鬼平はそう呟くと、胸が締め付けられるのを感じた。そして次の瞬間には、まるで影のように、自分は特別だから、あいつらが下らない奴らだからだ、というまったく正反対の気持ちが沸き起こった。
だがそれも、すぐに消え去ってしまった。
以前、これでも中学の時までは、鬼平を理解してくれる人が幾らかいた。あの時に、もう喋れないということから卒業したのだと思った。だから高校に入学するにあたって、鬼平はあえて仲のよかった数人とは違う高校を選んだ。
それは学力的な問題もそうだが、何よりいつまでもそんな「理解のある人」に頼っていてはダメだと思ったからだった。――自立。その訓練のために、これから待ち受けている社会に、より適応するために厳しい環境を選んだつもりだった。その力が、自分にはもうあるのだと思い込んでいた。だが、現実は非情だった。自分が強くなったと思っていたのは、ただ幸運だったからだと、後で気付いた。
あれから三年も経つが、今日も鬼平は一人だ。そのことを考えるだけで惨めで、消えてしまいたいような思いがする。
鬼平は鼻をすすった。外は、そんな彼の気分とは裏腹に快晴である。今日は学校の都合で午前の授業だけだった。
道路に沿って植えられた街路樹や生垣は夏に向けて、瑞々しい葉をつけていた。それは厳しい冬を超え、華やかな春を過ぎ、若葉から青葉へと緑を濃くする一方だった。その透き通るように鮮やかな葉と、ちょうど春と夏の中間の青空、五月晴れが描き出すハッとさせるような一瞬の景色が、鬼平は何より好きだった。
「まあ、五月晴れって本当は、六月なんだってね」
そんな知識をひけらかすような相手もいない。彼はそれに気付いて、また虚しくなったが、その時たまたま吹いた心地よい風が、虚しさをなだめてくれた。いや、何よりその後、それ以上の暴風が鬼平の心に吹き、ちっぽけな自分の苦悩など、どこかへ吹き飛ばされてしまったのだった。
ちょうど、信号のない横断歩道を渡ろうと道路の真ん中に入ったところだった。向こうに、赤橙色の傘が道路の真ん中で、開いた状態のまま転がっているのが見えた。それは取っ手の曲がった部分を支点にして風に揺れていた。
そのなんでもない風景に彼は、目を奪われた。青空に、そこへ伸びる若葉の茂る街路樹、生垣の緑、車の重さで削れてでこぼこの黒いアスファルト、剥がれてきた白い路面標示、この先の横断歩道を告げる、青と白の道路標識、その絵の真ん中に不自然に転がり、見る者を惹きつける鮮やかな赤橙色の傘……そしてそこに、主役が現れた。
一人の少女が、見捨てられて転がっていた傘に向かって一直線に、道路の真ん中まで歩いてきたのだ。鬼平は目を見開いた。
いくら車があまり通らない道だと言っても、彼女はそれをまったく恐れもせずに傘に近づいた。
彼女は左右を見て、傘をジッと見つめた後、膝を折ってその傘を拾った。その時鬼平は、彼女が、鬼平の高校と同じ制服を着ていると気付いた。彼女の黒く長い髪が肩から垂れ下がり、揺れたのを見た。傘を拾って畳み、立ち上がり、髪を整えた時、髪から覗く、彼女の美しい顔を見た。そして物憂げな表情で、近くの家を見上げ、門柱の横に折り畳んだ傘を立てかけ、去っていったのを見た。
「女神だ」
鬼平はすべてを見てから呟いた。
「あの人は女神だ」
高校からの帰り道を、鬼平柊はいつもと同じように、トボトボと下を向きながら一人で歩いていた。鬼平は、今日も誰とも喋らなかった。四月からずっとそうだった。今年こそは、クラスに友達を作ろうと思ったのにも関わらず、結局いつもと同じだった。
「……また今年も一人か」
鬼平はわざとそれを口に出して言った。自分の喋る能力がなくなったわけではないと確認するためだった。
鬼平が一人になってしまう過程は、いつも同じだった。新しいクラスになり、鬼平がどうやって話しかけたらいいのか、話しかけてもいいと思える人を探して迷っている内に、クラスでは着々と関係が築かれていく。
そして、やっと人となりが見え始めた頃には、もう遅かった。その時には、既にクラス中に寸分の隙間もないくらいに関係が出来上がっていて、そこに鬼平の入る場所はどこにもなかった。
……それに、鬼平にはどうしても変えることのできない癖があった。それは、吃り、吃音だった。誰かに話しかける時、どうしても最初の一声が出てこないのだ。それでも、その時さえ過ぎれば、誰かが待ってくれさえすれば、いくらでも喋ることができると思っているのに、どうやってもその一言が出てこないし、その誰かも現れなかった。
そして、それは誰かに話しかけられる時も同じだった。鬼平は相手が欲しいと思うタイミングで上手く返事をすることができず、会話は途切れた。その時彼はただ固唾をのむだけの存在になり、相手はいつも、その長い沈黙だけで興味を失うのだ。
「きっと、これからもずっとこうなんだろうな」
鬼平はそう呟くと、胸が締め付けられるのを感じた。そして次の瞬間には、まるで影のように、自分は特別だから、あいつらが下らない奴らだからだ、というまったく正反対の気持ちが沸き起こった。
だがそれも、すぐに消え去ってしまった。
以前、これでも中学の時までは、鬼平を理解してくれる人が幾らかいた。あの時に、もう喋れないということから卒業したのだと思った。だから高校に入学するにあたって、鬼平はあえて仲のよかった数人とは違う高校を選んだ。
それは学力的な問題もそうだが、何よりいつまでもそんな「理解のある人」に頼っていてはダメだと思ったからだった。――自立。その訓練のために、これから待ち受けている社会に、より適応するために厳しい環境を選んだつもりだった。その力が、自分にはもうあるのだと思い込んでいた。だが、現実は非情だった。自分が強くなったと思っていたのは、ただ幸運だったからだと、後で気付いた。
あれから三年も経つが、今日も鬼平は一人だ。そのことを考えるだけで惨めで、消えてしまいたいような思いがする。
鬼平は鼻をすすった。外は、そんな彼の気分とは裏腹に快晴である。今日は学校の都合で午前の授業だけだった。
道路に沿って植えられた街路樹や生垣は夏に向けて、瑞々しい葉をつけていた。それは厳しい冬を超え、華やかな春を過ぎ、若葉から青葉へと緑を濃くする一方だった。その透き通るように鮮やかな葉と、ちょうど春と夏の中間の青空、五月晴れが描き出すハッとさせるような一瞬の景色が、鬼平は何より好きだった。
「まあ、五月晴れって本当は、六月なんだってね」
そんな知識をひけらかすような相手もいない。彼はそれに気付いて、また虚しくなったが、その時たまたま吹いた心地よい風が、虚しさをなだめてくれた。いや、何よりその後、それ以上の暴風が鬼平の心に吹き、ちっぽけな自分の苦悩など、どこかへ吹き飛ばされてしまったのだった。
ちょうど、信号のない横断歩道を渡ろうと道路の真ん中に入ったところだった。向こうに、赤橙色の傘が道路の真ん中で、開いた状態のまま転がっているのが見えた。それは取っ手の曲がった部分を支点にして風に揺れていた。
そのなんでもない風景に彼は、目を奪われた。青空に、そこへ伸びる若葉の茂る街路樹、生垣の緑、車の重さで削れてでこぼこの黒いアスファルト、剥がれてきた白い路面標示、この先の横断歩道を告げる、青と白の道路標識、その絵の真ん中に不自然に転がり、見る者を惹きつける鮮やかな赤橙色の傘……そしてそこに、主役が現れた。
一人の少女が、見捨てられて転がっていた傘に向かって一直線に、道路の真ん中まで歩いてきたのだ。鬼平は目を見開いた。
いくら車があまり通らない道だと言っても、彼女はそれをまったく恐れもせずに傘に近づいた。
彼女は左右を見て、傘をジッと見つめた後、膝を折ってその傘を拾った。その時鬼平は、彼女が、鬼平の高校と同じ制服を着ていると気付いた。彼女の黒く長い髪が肩から垂れ下がり、揺れたのを見た。傘を拾って畳み、立ち上がり、髪を整えた時、髪から覗く、彼女の美しい顔を見た。そして物憂げな表情で、近くの家を見上げ、門柱の横に折り畳んだ傘を立てかけ、去っていったのを見た。
「女神だ」
鬼平はすべてを見てから呟いた。
「あの人は女神だ」
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム
ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。
けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。
学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!?
大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。
真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。
地味男はイケメン元総長
緋村燐
青春
高校一年になったばかりの灯里は、メイクオタクである事を秘密にしながら地味子として過ごしていた。
GW前に、校外学習の班の親交を深めようという事で遊園地に行くことになった灯里達。
お化け屋敷に地味男の陸斗と入るとハプニングが!
「なぁ、オレの秘密知っちゃった?」
「誰にも言わないからっ! だから代わりに……」
ヒミツの関係はじめよう?
*野いちごに掲載しているものを改稿した作品です。
野いちご様
ベリーズカフェ様
エブリスタ様
カクヨム様
にも掲載しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
現実とサキュバスのあいだで ――夢で告白した相手が、同居を始めた話
そう
青春
ある日家に突然現れた謎のサキュバスのホルさん!
好感度はMAXなようで流されるがまま主人公はホルさんと日常を過ごします。
ほのぼのラブコメというか日常系小説
オチなどはなく、ただひたすらにまったりします
挿絵や文章にもAIを使用しております。
苦手な方はご注意ください。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる