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26・熱
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やっぱり呪いは消えた訳ではないのか、という苦い気持ちが一気に胸にこみ上げた。でもその胸のどこかには、本当だろうか、という悪足掻きのような疑問が捨てきれずに残っていた。
ユーグさまの身体のことを一番よくわかっているのはユーグさま自身に決まっている。そのユーグさまが、「身体がおかしい、冷たい」と言うのだから、氷結晶は身体のなかに残っている、という事なのだろう。でも……私は呼びかけに目覚めた時、本当に心から安堵したのだ。ユーグさまの髪が黒くその手が温かだったから、というのも勿論あるけれど、それ以上に直感的なものが、危険はユーグさまから去った、と告げた気がしたのだ。
希望に縋りたくて、そう思い込んでしまったのだろうか? でも今も、ユーグさまの頬には赤みがさして、スカイブルーの瞳には愛情と憂いが交錯しているのがわかる。凍ってしまいそうな感じはしない。
「ユーグさま。それでも、以前よりよくなっているのには間違いないわ。もうすぐリカルドが呪術師を連れて来てくれるでしょう。いまどういう状態にあるのか、きっとわかるわ。それから、今後の事を考えましょう?」
「今後のこと、か」
私の言葉にユーグさまは嘆息して、
「まともに考えを巡らせる事が出来るようになってみれば、俺にはやらなければならない事が山ほどある。きみを護ることは勿論大事なことだ。だが、今までシルヴァンは、ただきみを危険の及ばない所に逃がす事しか考えていなかったが、それだけでは駄目だと気づいてしまった。きみが危険な立場にあるのは、悪しき者のせいだ。悪しき者は多くの災いを呼んでいる」
「……悪しき者とは、王?」
「そうだ。己の地位を固める為に罪なき臣下に罪を着せて次々と粛清する……義父と呼ぶ筈だった人、妃にする筈だった人すら、道具としか考えていない。そんな者が王でいては我が国に未来はない。俺は先王陛下に目をかけて頂いた血縁者として、ジュリアン王に改心して頂くよう努める義務がある」
「あの男が改心する訳ないわ」
「そう、だな。改心しないならば、退位を迫らねばならない。俺自身は王位になど興味ない。功績と人望を兼ね備えたローレン侯爵が王になれば、きっと国は今よりよくなり、きみと父上の名誉も回復されるだろう」
今まで考えてもみなかったけれど、かれの言う通りかも知れない、と思った。それにしても、かれは今まで、身の回りの人や領民のことは気にかけても、国政には興味がない風だったのに。私がそう指摘すると、かれは苦笑いを浮かべた。
「なんだか、ずっと眠っていた頭がやっと働きだした、という感じなんだ。俺は元々、ジュリアン王子に対して弟王子の次に近い縁者として彼を支えるよう、伯父上に頼まれていたし……いとこであるジュリアン王子自身は昔から俺を疎んじていたけれど。だけど……ようやく己の為すべき事に思い至ったというのに、結局この身体はまた凍り付いて、記憶も感情も失ってしまうのかも知れない……」
「ユーグさま。私はもう離れないわ。もしもユーグさまがシルヴァンに戻ってしまったとしても、私は毎日ユーグさまを笑わせて、毎日氷を溶かしますから」
「アリアンナ……ありがとう。だけど、なんだかさっきよりもっと、身体の芯が冷えてきた気がする。離れた方がいいかも知れない」
弱気な言葉に、私は逆に距離を詰めて、ユーグさまの手を握った。かれの手は熱を帯びていた。
「絶対に離れない」
「アリアンナ……」
見つめ合ったその時、ユーグさまはくしゃみをした。……? くしゃみをするところなんて初めて見た。誰だってくしゃみくらいするものだろうけれど、なんだかおかしな感じがした。
この時、扉を叩く音とリカルドの声が聞こえた。
「ユーグ、アリアンナ、起きてるか? 呪術師を連れて来たよ!」
「本当にこの部屋にあいつがいるのか? 氷結晶の気配は全くしないぞ」
呪術師の声もした。氷結晶の気配がしない?
ユーグさまは口を覆ってごほごほと咳込んだ。呪術師の言葉は耳に入らなかったかも知れない。その苦しそうな様子に、私は思わず手を出して背中をさする。
「こんな不調は、初めてだ……以前に比べれば全くどうという事はないが、妙なんだ」
ユーグさまは溜息をついて呟いた。さっきより少し、声が掠れている気がした。
「喉が痛むようだ」
「ユーグさま!」
突然。真実と思われる単語が私の頭の中に舞い降りた。
呪術師のことば。私の直感。ユーグさまの症状。そこから導き出されるのは……。
もしもそうならば、大丈夫だ! ああ、なんてことだろう。
私はユーグさまの両肩に手を置いた。失礼とか恥ずかしいとか思っている場合じゃない。
「アリアンナ?」
急に顔を近づけた私にユーグさまは驚いたようだったけど、私は構わず、自分の額をユーグさまの額にくっつけた。
「声が聞こえたから、開けるよ?」
リカルドと呪術師が入って来た。
私は……。
「あ……あはははは! いやだ、もう、あはは!」
爆笑してしまった。
一気に、張りつめていた心の糸が切れてしまったみたいだった。
三人の男性は、ぽかんとして私を見ていたようだ。きっと気がふれたかと思っただろう。でも私は構わず笑い続けた。涙が出るまで笑った。こんなに笑ったことは今まで生きて来て初めてだったかも知れない!
「アリアンナ?」
「ユーグさま! それは、当たり前だわ! 寒気がするのね? 気分が悪くて、咳やくしゃみが出るのね?」
涙を拭きながらおかしそうに言う私を、ユーグさまは怪訝そうに見ている。
「あ、ああ……」
私は、子どもに言い聞かせるようにゆっくりと、そしてはっきりと言った。
「それはね、『風邪』だわ! こんな寒い部屋で薄着で眠ったのだもの! 私は厚着をしていたけど、ユーグさまはそうじゃなかった。『普通の人』は、こんな部屋で薄着で寝たら風邪をひくわ。ユーグさまは、もう普通の身体なの。だから、風邪をひいたのよ!」
三人の男性は、一瞬ことばを失って私を見つめていた。
ユーグさまは、かれらしくない、疑わし気な口調で問い返して来た。
「風邪?? 俺が?」
「そうよ。ユーグさま、こんな部屋に長くいたら身体が冷える、って散々私を心配して下さったじゃない。今はもう、ユーグさまも同じ、ということ。ユーグさまのおでこ、熱いわ。熱があるんだわ!」
そう言って、私はまた笑った。普通なら、熱が出て具合が悪い人を笑うなんてよくないだろうけれど、ユーグさまは違うから。『熱』がない事でずっと苦しんできたのだから。
「氷結晶はなくなったのよ! ユーグさまは普通の身体に戻ったの!」
「――ほんとうに?」
茫然とした表情でユーグさまは私を見つめる。ほんとうなんだと私は確信している。
「お嬢さんの言う通りだと思うな、旦那」
呪術師が近づいて来ておかしそうに告げた。
「氷結晶を融かしちまうとは信じがたい事だが、でも確かに呪術の気配はもう跡形もないぜ」
「おいおい、風邪ひいたのか、ユーグ!」
リカルドがからかうように言ったけれど、その声は少し震えていた。
そしてユーグさまに歩み寄ってその手を握った。
「よかったな、ユーグ。治ったんだよ……アリアンナのおかげだよ」
「治った……? これは、風邪……」
「そうだよ! もっと嬉しそうな顔しろよ! できるだろ、もう」
それでもユーグさまには戸惑いの方が大きいようだった。
「さむいんだ」
とユーグさまは言った。子どものように心細そうな響きが含まれていた。
「忘れていた……こんな感覚。背中がぞくぞくする。子どもの頃に罹った……温かい飲み物が欲しい。そうか、俺は、風邪をひいたのか」
そう言って、ユーグさまはまたくしゃみをする。私は涙を拭って、自分の肩掛けをユーグさまの肩にかけた。
「温かい飲み物ね? すぐ用意するわ!」
「飲めるのか……温かいものが」
「そうよ。身体を温めて寝ていれば、風邪はよくなるわ」
ユーグさまは状況を呑みこむのに、私たちの中で一番時間がかかったようだけれど、それでもやっと、身体の不調は風邪の症状だ、と納得がいったようだった。頬が心なしかいっそう赤くなったみたいだった。
「すまない、アリアンナ……俺は風邪なんかで、身体がおかしいなどと心配させて……」
小声の謝罪に、私は泣き笑いで応える。
「いいのよ、十年も風邪をひけない身体だったんだもの、わからなくて当然だわ! 私、看病するわ。まずは、この部屋を暖かくしなくっちゃ」
そう言って私は立ち上がりかけたけれど、ユーグさまは私の腕を掴んでそのまま抱き寄せた。
「ユーグさま」
力強い腕だった。温かい腕だった。黒い艶やかな髪が見える。顔を上げると、スカイブルーの瞳はじっと私に注がれている。もう、嬉し涙は出尽くしたと思ったのに、また熱い涙がこみ上げてくる。ほんとうに、氷は融けた。銀の妖精シルヴァンは、ユーグさまのなかに溶けた。触れ合う事を躊躇う必要はなくなった。
私は、掌をかれの頬にあてた。温かい、いのちがそこにあった。温かい、愛情に満ちた視線がそこにあった。
「もう、こうしても大丈夫なんだな。もう、俺の中に氷の結晶はなくて、きみを巻き添えに凍らせる心配もないんだな」
「そうよ……ユーグさまの身体、温かい……」
触れただけで凍てつく冷たさは消えて、大きな掌は温みを与えてくれる。
「きみのおかげだよ。夢みたいだ」
「私、なにもしてないわ。ただ、ユーグさまといたい、と願っただけ……」
その願いはいま、叶った。共に凍らなくても、共に温かい身体を持ったまま、私とユーグさまはもう離れない。この腕のなかにいれば、なにも恐ろしいことはない。
「冷血公爵はもういない。けど、シルヴァンと同じように、いや、もっとずっと深く、きみを愛してる」
ユーグさまの言葉に、私は心から温かい感情に満たされる。これが、幸せ、なのだろうか。諦めていたのに、感じてもいいのだろうか。
「ユーグさま。私も……この世の誰よりもお慕いしています。愛しています……」
王太子の婚約者だったアリアンナ・アンベールは死んだ。そしてその代わりに、自由で何にも縛られないアリアンナがここにいる。自分自身の意志でユーグさまを愛していると言える私がいる。
窓から射しこむ陽の光は、祝福してくれるかのように、私たちを温かく包み込んでくれていた。
ユーグさまの身体のことを一番よくわかっているのはユーグさま自身に決まっている。そのユーグさまが、「身体がおかしい、冷たい」と言うのだから、氷結晶は身体のなかに残っている、という事なのだろう。でも……私は呼びかけに目覚めた時、本当に心から安堵したのだ。ユーグさまの髪が黒くその手が温かだったから、というのも勿論あるけれど、それ以上に直感的なものが、危険はユーグさまから去った、と告げた気がしたのだ。
希望に縋りたくて、そう思い込んでしまったのだろうか? でも今も、ユーグさまの頬には赤みがさして、スカイブルーの瞳には愛情と憂いが交錯しているのがわかる。凍ってしまいそうな感じはしない。
「ユーグさま。それでも、以前よりよくなっているのには間違いないわ。もうすぐリカルドが呪術師を連れて来てくれるでしょう。いまどういう状態にあるのか、きっとわかるわ。それから、今後の事を考えましょう?」
「今後のこと、か」
私の言葉にユーグさまは嘆息して、
「まともに考えを巡らせる事が出来るようになってみれば、俺にはやらなければならない事が山ほどある。きみを護ることは勿論大事なことだ。だが、今までシルヴァンは、ただきみを危険の及ばない所に逃がす事しか考えていなかったが、それだけでは駄目だと気づいてしまった。きみが危険な立場にあるのは、悪しき者のせいだ。悪しき者は多くの災いを呼んでいる」
「……悪しき者とは、王?」
「そうだ。己の地位を固める為に罪なき臣下に罪を着せて次々と粛清する……義父と呼ぶ筈だった人、妃にする筈だった人すら、道具としか考えていない。そんな者が王でいては我が国に未来はない。俺は先王陛下に目をかけて頂いた血縁者として、ジュリアン王に改心して頂くよう努める義務がある」
「あの男が改心する訳ないわ」
「そう、だな。改心しないならば、退位を迫らねばならない。俺自身は王位になど興味ない。功績と人望を兼ね備えたローレン侯爵が王になれば、きっと国は今よりよくなり、きみと父上の名誉も回復されるだろう」
今まで考えてもみなかったけれど、かれの言う通りかも知れない、と思った。それにしても、かれは今まで、身の回りの人や領民のことは気にかけても、国政には興味がない風だったのに。私がそう指摘すると、かれは苦笑いを浮かべた。
「なんだか、ずっと眠っていた頭がやっと働きだした、という感じなんだ。俺は元々、ジュリアン王子に対して弟王子の次に近い縁者として彼を支えるよう、伯父上に頼まれていたし……いとこであるジュリアン王子自身は昔から俺を疎んじていたけれど。だけど……ようやく己の為すべき事に思い至ったというのに、結局この身体はまた凍り付いて、記憶も感情も失ってしまうのかも知れない……」
「ユーグさま。私はもう離れないわ。もしもユーグさまがシルヴァンに戻ってしまったとしても、私は毎日ユーグさまを笑わせて、毎日氷を溶かしますから」
「アリアンナ……ありがとう。だけど、なんだかさっきよりもっと、身体の芯が冷えてきた気がする。離れた方がいいかも知れない」
弱気な言葉に、私は逆に距離を詰めて、ユーグさまの手を握った。かれの手は熱を帯びていた。
「絶対に離れない」
「アリアンナ……」
見つめ合ったその時、ユーグさまはくしゃみをした。……? くしゃみをするところなんて初めて見た。誰だってくしゃみくらいするものだろうけれど、なんだかおかしな感じがした。
この時、扉を叩く音とリカルドの声が聞こえた。
「ユーグ、アリアンナ、起きてるか? 呪術師を連れて来たよ!」
「本当にこの部屋にあいつがいるのか? 氷結晶の気配は全くしないぞ」
呪術師の声もした。氷結晶の気配がしない?
ユーグさまは口を覆ってごほごほと咳込んだ。呪術師の言葉は耳に入らなかったかも知れない。その苦しそうな様子に、私は思わず手を出して背中をさする。
「こんな不調は、初めてだ……以前に比べれば全くどうという事はないが、妙なんだ」
ユーグさまは溜息をついて呟いた。さっきより少し、声が掠れている気がした。
「喉が痛むようだ」
「ユーグさま!」
突然。真実と思われる単語が私の頭の中に舞い降りた。
呪術師のことば。私の直感。ユーグさまの症状。そこから導き出されるのは……。
もしもそうならば、大丈夫だ! ああ、なんてことだろう。
私はユーグさまの両肩に手を置いた。失礼とか恥ずかしいとか思っている場合じゃない。
「アリアンナ?」
急に顔を近づけた私にユーグさまは驚いたようだったけど、私は構わず、自分の額をユーグさまの額にくっつけた。
「声が聞こえたから、開けるよ?」
リカルドと呪術師が入って来た。
私は……。
「あ……あはははは! いやだ、もう、あはは!」
爆笑してしまった。
一気に、張りつめていた心の糸が切れてしまったみたいだった。
三人の男性は、ぽかんとして私を見ていたようだ。きっと気がふれたかと思っただろう。でも私は構わず笑い続けた。涙が出るまで笑った。こんなに笑ったことは今まで生きて来て初めてだったかも知れない!
「アリアンナ?」
「ユーグさま! それは、当たり前だわ! 寒気がするのね? 気分が悪くて、咳やくしゃみが出るのね?」
涙を拭きながらおかしそうに言う私を、ユーグさまは怪訝そうに見ている。
「あ、ああ……」
私は、子どもに言い聞かせるようにゆっくりと、そしてはっきりと言った。
「それはね、『風邪』だわ! こんな寒い部屋で薄着で眠ったのだもの! 私は厚着をしていたけど、ユーグさまはそうじゃなかった。『普通の人』は、こんな部屋で薄着で寝たら風邪をひくわ。ユーグさまは、もう普通の身体なの。だから、風邪をひいたのよ!」
三人の男性は、一瞬ことばを失って私を見つめていた。
ユーグさまは、かれらしくない、疑わし気な口調で問い返して来た。
「風邪?? 俺が?」
「そうよ。ユーグさま、こんな部屋に長くいたら身体が冷える、って散々私を心配して下さったじゃない。今はもう、ユーグさまも同じ、ということ。ユーグさまのおでこ、熱いわ。熱があるんだわ!」
そう言って、私はまた笑った。普通なら、熱が出て具合が悪い人を笑うなんてよくないだろうけれど、ユーグさまは違うから。『熱』がない事でずっと苦しんできたのだから。
「氷結晶はなくなったのよ! ユーグさまは普通の身体に戻ったの!」
「――ほんとうに?」
茫然とした表情でユーグさまは私を見つめる。ほんとうなんだと私は確信している。
「お嬢さんの言う通りだと思うな、旦那」
呪術師が近づいて来ておかしそうに告げた。
「氷結晶を融かしちまうとは信じがたい事だが、でも確かに呪術の気配はもう跡形もないぜ」
「おいおい、風邪ひいたのか、ユーグ!」
リカルドがからかうように言ったけれど、その声は少し震えていた。
そしてユーグさまに歩み寄ってその手を握った。
「よかったな、ユーグ。治ったんだよ……アリアンナのおかげだよ」
「治った……? これは、風邪……」
「そうだよ! もっと嬉しそうな顔しろよ! できるだろ、もう」
それでもユーグさまには戸惑いの方が大きいようだった。
「さむいんだ」
とユーグさまは言った。子どものように心細そうな響きが含まれていた。
「忘れていた……こんな感覚。背中がぞくぞくする。子どもの頃に罹った……温かい飲み物が欲しい。そうか、俺は、風邪をひいたのか」
そう言って、ユーグさまはまたくしゃみをする。私は涙を拭って、自分の肩掛けをユーグさまの肩にかけた。
「温かい飲み物ね? すぐ用意するわ!」
「飲めるのか……温かいものが」
「そうよ。身体を温めて寝ていれば、風邪はよくなるわ」
ユーグさまは状況を呑みこむのに、私たちの中で一番時間がかかったようだけれど、それでもやっと、身体の不調は風邪の症状だ、と納得がいったようだった。頬が心なしかいっそう赤くなったみたいだった。
「すまない、アリアンナ……俺は風邪なんかで、身体がおかしいなどと心配させて……」
小声の謝罪に、私は泣き笑いで応える。
「いいのよ、十年も風邪をひけない身体だったんだもの、わからなくて当然だわ! 私、看病するわ。まずは、この部屋を暖かくしなくっちゃ」
そう言って私は立ち上がりかけたけれど、ユーグさまは私の腕を掴んでそのまま抱き寄せた。
「ユーグさま」
力強い腕だった。温かい腕だった。黒い艶やかな髪が見える。顔を上げると、スカイブルーの瞳はじっと私に注がれている。もう、嬉し涙は出尽くしたと思ったのに、また熱い涙がこみ上げてくる。ほんとうに、氷は融けた。銀の妖精シルヴァンは、ユーグさまのなかに溶けた。触れ合う事を躊躇う必要はなくなった。
私は、掌をかれの頬にあてた。温かい、いのちがそこにあった。温かい、愛情に満ちた視線がそこにあった。
「もう、こうしても大丈夫なんだな。もう、俺の中に氷の結晶はなくて、きみを巻き添えに凍らせる心配もないんだな」
「そうよ……ユーグさまの身体、温かい……」
触れただけで凍てつく冷たさは消えて、大きな掌は温みを与えてくれる。
「きみのおかげだよ。夢みたいだ」
「私、なにもしてないわ。ただ、ユーグさまといたい、と願っただけ……」
その願いはいま、叶った。共に凍らなくても、共に温かい身体を持ったまま、私とユーグさまはもう離れない。この腕のなかにいれば、なにも恐ろしいことはない。
「冷血公爵はもういない。けど、シルヴァンと同じように、いや、もっとずっと深く、きみを愛してる」
ユーグさまの言葉に、私は心から温かい感情に満たされる。これが、幸せ、なのだろうか。諦めていたのに、感じてもいいのだろうか。
「ユーグさま。私も……この世の誰よりもお慕いしています。愛しています……」
王太子の婚約者だったアリアンナ・アンベールは死んだ。そしてその代わりに、自由で何にも縛られないアリアンナがここにいる。自分自身の意志でユーグさまを愛していると言える私がいる。
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