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03.黒ねこにいざなわれ
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「……こと?」
遼太郎が恐る恐るといった感じで、顔を覗かせる。だが、そちらを見て、小さくため息をついた。
「何だよ。水着を着てるなら、エッチも何もないだろ」
「だ、だってぇ……」
露天と聞いていたので、女の子としては必須だ、と思って荷物に入れておいたのだ。現地に着いて、持って来ておいてよかった、とつくづく思った。
しかし、それはそれ。
温泉はプールではないのだから、水着を着ていても本能的に防御してしまうというもの。いきなり、女湯へ突入しようとする方が悪い。
とは言え、琴音が悲鳴をあげたから誠一郎はそういう行動に出たのであり、やましい気持ちがあった訳ではない。
それをタライ攻撃では、少しばかり気の毒ではある。
「ごめんね、誠ちゃん。大丈夫ー?」
さすがに物を投げるのは悪かったかな、と琴音が仕切りの向こうから謝る。
「あんまり大丈夫じゃないけど」
洗面器の当たった額が、赤くなっている。
「いい音、したもんね」
「当てた奴が言うなよ」
誠一郎がどんな状態か見えていないので、琴音は気楽に言う。
「額は割れてないから、どうってことない」
「遼兄、他人事だと思って」
「温泉のお湯、つけとけば治るって。あー、ここの温泉の効能、どういうものかは聞いてないけど」
「ありがたいアドバイスで……」
この兄妹の横では、おちおちケガもできない。
「それより、こと。さっきの悲鳴、どうしたんだ」
「何か影が見えた気がして……」
「誰か覗いてたのか?」
「わかんない」
そんな会話をしていると、また草むらでがさがさと音がした。
今度は遼太郎や誠一郎にもその音が聞こえ、二人はタオルを腰に巻いてお湯から出る。覗きであれば、すぐに捕まえて引っ張り出すつもりだった。
が……。
「……オレ、こいつのために金ダライを投げられたのか?」
草むらから現われたのは、一匹の小さな黒ねこだった。仔ねこではないが、成猫と言うにはちょっと小さい。金色の大きな目で、こちらを見ている。
「え……あれ?」
琴音も音の正体を見て、気が抜けた。
野良か村人の飼いねこかはともかく、さっきの音を出したのはこの黒ねこだったようだ。
「せっかくここまで来たんだから、もう少し入っとこうか」
ねこが相手では、こちらも手の出しようがない。
遼太郎はさっさと風呂へ戻る。
「ったく、人騒がせな奴だな」
誠一郎も、後に続いた。
「ねぇ、あなた、この辺りに住んでるねこさん? もう、びっくりさせないでよね」
琴音はお湯の中から、ねこに向かって小さく文句を言う。
「びっくりしたのは、こっちだ」
仕切りの向こうで、誠一郎がぼやいている。
だけど、さっきの影は……?
一瞬ではあったが、こんな小さなねことは絶対に違う影を見た気がする。
あれは明らかに「人影」と呼ばれる形をしていたような……。
首をかしげる琴音を、金色の瞳の黒ねこはじっと見ていた。
☆☆☆
身体を拭いて着替えを済ませ、バッグに放り込んでおいたスポーツ飲料でそれぞれのどを潤す。
「あー、気持ちよかったぁ」
最初に見た時は巨大な水たまり状態にも思えた温泉だったが、こうして一息つくと気持ちがいい。
ちょっとハプニングはあったが、これも後になればいい思い出になる。それが旅というものだ。
「誠ちゃん、おでこが赤い」
誠一郎のやや茶色がかった前髪の間から見える額が、少々赤くなっている。
「誰のせいだよ。さっきのは、貸しにしとくからな」
「えーっ。あれは女の子としての、純粋な防御じゃない」
「こっちだって、そうだっての。何かあったら助けてやらなきゃって、純粋にそう思って取った行動だぞ」
そう言われてしまうと、琴音も恐縮するしかない。
そんなことを言い合っていると、また草の揺れる音がした。三人がそちらを見ると、さっきの黒ねこだ。茂みの間から、顔を出している。
「あ、諸悪の根元。まだいたのか」
「誠にとっては、確かに諸悪の根元かもな」
遼太郎がそう言って、笑う。
「あの子、温泉に入りに来たのかしら」
「ねこって、水が嫌いなんだろ。自分のテリトリーにオレ達が入って来たから、見張ってんじゃないのか」
言いながら、誠一郎はしゃがんで黒ねこの方に手を差し出す。黒ねこは寄って来ることはなかったが、逃げることもしなかった。
「あら、たまーに飼い主さんと一緒にお風呂に入ってるねこ、テレビで観たりするわよ。こんな環境なら、温泉好きなねこになってるかも知れないじゃない」
二人がそんな会話を交わしているうちに、黒ねこが動いた。
その場を離れて歩き出す。だが、すぐに立ち止まると、こちらを振り返った。
「……ねぇ、あの子、あたし達にこっちへ来るように言ってない?」
「琴音はいつから、ねこの言葉がわかるようになったんだ」
「そんなの、わかんないわよぉ。でも、あの子の目を見てると、何となーくそんな感じに思えたんだもん」
これと言って変わったところがある訳でもないのに、不思議な雰囲気を感じさせる黒ねこだ。
さっきから今まで一声も鳴いていないし、ましてや人間の言葉などしゃべってはいない。
だが、琴音には金色のその目がはっきり「こちらへ来い」と言っている……ような気がしてしまう。
「言われてみれば、俺達が来るのを待ってるって感じにも見えるな。観光ガイドをしてくれるねこがいるっていうのは、たまにテレビや雑誌なんかに出てたりするけど……。この辺りに、ねこが案内したくなるような場所があるのかな」
「遼兄まで……。それじゃ、ついて行ってみる? ここよりさらに穴場な温泉、教えてくれるかも」
冗談めかして言ってはみたものの、誠一郎も何となく気になる黒ねこだとは思っていた。
結局、黒ねこに誘われるようにして、三人はその後をついて行く。
「黒ねこって、不吉だとか言われるよな」
「誠ちゃん、そんなこと言ったら、黒ねこに悪いわよ。毛が黒いっていうのが不吉なら、アジア系とかインド系の人なんて、みんな不吉になっちゃうじゃない。ってことは、あたし達も不吉になるわよ」
「こと、人間とねこを一緒にしないでくれないか」
遼太郎が、妹の言葉に苦笑した。
前を歩く黒ねこは、雑談している三人がちゃんと来ているのを確認しているような様子で進んで行く。
黒ねこは、かなり山奥へと向かっているようだ。まともな道ではないが、歩くのに苦労する程でもない。
ただ、今はまだ明るいからいいが、あまり深入りするのはよくないだろう。
三人がこちらへ向かっているのを誰も見ていないから、万が一遭難したとしても捜索してもらえない。
そう考え、遼太郎が「そろそろこの辺りでやめた方がいいんじゃないか」と言いかけた時。
「え? あれ? いなくなっちゃった」
ふいに、黒ねこの姿が見えなくなった。
「あそこだろ」
誠一郎が前方を指す。どこへ紛れてしまったのかと思ったが、黒ねこは行く手に現われた洞窟の中へと入って行ったようだ。
「中へ入っちまったな……。どうする?」
誠一郎が、琴音と遼太郎の顔を交互に見る。
「ここが、あの子の目的地かしら」
「こんな所へ来る予定なんてなかったから、オレはライトなんて持って来てないぞ」
今日は、温泉を目当てに来た。宿泊はライフラインが(たぶん)整っている宿。だから、キャンプで使うようなライト系の物は荷物に入っていない。
「でも……この奥に、あの子があたし達を連れて行きたかった場所があるんじゃない?」
「ことは、あそこへ行きたいのか?」
「ん……」
琴音は、あのねこの目がどうしても気になる。
もしあの黒ねこの目的地が本当にここで、何らかの理由で琴音達を連れて来たのであれば。
ここで帰ってしまっては、黒ねこの気持ちや目的がわからずじまいだ。
「ほら、動物のドキュメンタリーなんかであるじゃない。自分の子どもや家族がケガか病気で、人間に助けを求めてくるってケース。もしそういうのだったら、できる限り助けてあげたいし」
琴音達はこれまで、ペットを飼った経験がない。まして、獣医でもないから、具合の悪い動物がいたとしても、それがどういう状態かを判断できない。もちろん、手当も無理。傷があれば、ハンカチなどを巻いてやるのが関の山だ。
でも、しかるべき場所へ運んであげることなら、琴音にだってできる。熊やイノシシみたいに大きければ無理だが、村の人に事情を話して助けてあげられるように手配することなら可能だ。
「絶対崩れないって保証はないけど、今すぐ崩れるってんなら、あのねこだって入って行かないよな。野生の本能で、危険は察知できるんだろうし」
言いながら、誠一郎が洞窟の中を覗き込んだ。人間が二人並んで、余裕で歩ける幅の穴。
「何だ、あれ? 白っぽい……壁? 扉かな。あ、もしかして戦時中に造られかけて、そのままにされた軍事司令部みたいな場所とか」
誠一郎が、洞窟の中へ一歩踏み込む。
「誠、入るなら、外の光が届く所までにしておけよ」
「おう」
黒ねこのことを「諸悪の根元」などと言っていたくせに、誠一郎が一番その気になって追っているみたいだ。
「あたしも行くっ」
遼太郎が恐る恐るといった感じで、顔を覗かせる。だが、そちらを見て、小さくため息をついた。
「何だよ。水着を着てるなら、エッチも何もないだろ」
「だ、だってぇ……」
露天と聞いていたので、女の子としては必須だ、と思って荷物に入れておいたのだ。現地に着いて、持って来ておいてよかった、とつくづく思った。
しかし、それはそれ。
温泉はプールではないのだから、水着を着ていても本能的に防御してしまうというもの。いきなり、女湯へ突入しようとする方が悪い。
とは言え、琴音が悲鳴をあげたから誠一郎はそういう行動に出たのであり、やましい気持ちがあった訳ではない。
それをタライ攻撃では、少しばかり気の毒ではある。
「ごめんね、誠ちゃん。大丈夫ー?」
さすがに物を投げるのは悪かったかな、と琴音が仕切りの向こうから謝る。
「あんまり大丈夫じゃないけど」
洗面器の当たった額が、赤くなっている。
「いい音、したもんね」
「当てた奴が言うなよ」
誠一郎がどんな状態か見えていないので、琴音は気楽に言う。
「額は割れてないから、どうってことない」
「遼兄、他人事だと思って」
「温泉のお湯、つけとけば治るって。あー、ここの温泉の効能、どういうものかは聞いてないけど」
「ありがたいアドバイスで……」
この兄妹の横では、おちおちケガもできない。
「それより、こと。さっきの悲鳴、どうしたんだ」
「何か影が見えた気がして……」
「誰か覗いてたのか?」
「わかんない」
そんな会話をしていると、また草むらでがさがさと音がした。
今度は遼太郎や誠一郎にもその音が聞こえ、二人はタオルを腰に巻いてお湯から出る。覗きであれば、すぐに捕まえて引っ張り出すつもりだった。
が……。
「……オレ、こいつのために金ダライを投げられたのか?」
草むらから現われたのは、一匹の小さな黒ねこだった。仔ねこではないが、成猫と言うにはちょっと小さい。金色の大きな目で、こちらを見ている。
「え……あれ?」
琴音も音の正体を見て、気が抜けた。
野良か村人の飼いねこかはともかく、さっきの音を出したのはこの黒ねこだったようだ。
「せっかくここまで来たんだから、もう少し入っとこうか」
ねこが相手では、こちらも手の出しようがない。
遼太郎はさっさと風呂へ戻る。
「ったく、人騒がせな奴だな」
誠一郎も、後に続いた。
「ねぇ、あなた、この辺りに住んでるねこさん? もう、びっくりさせないでよね」
琴音はお湯の中から、ねこに向かって小さく文句を言う。
「びっくりしたのは、こっちだ」
仕切りの向こうで、誠一郎がぼやいている。
だけど、さっきの影は……?
一瞬ではあったが、こんな小さなねことは絶対に違う影を見た気がする。
あれは明らかに「人影」と呼ばれる形をしていたような……。
首をかしげる琴音を、金色の瞳の黒ねこはじっと見ていた。
☆☆☆
身体を拭いて着替えを済ませ、バッグに放り込んでおいたスポーツ飲料でそれぞれのどを潤す。
「あー、気持ちよかったぁ」
最初に見た時は巨大な水たまり状態にも思えた温泉だったが、こうして一息つくと気持ちがいい。
ちょっとハプニングはあったが、これも後になればいい思い出になる。それが旅というものだ。
「誠ちゃん、おでこが赤い」
誠一郎のやや茶色がかった前髪の間から見える額が、少々赤くなっている。
「誰のせいだよ。さっきのは、貸しにしとくからな」
「えーっ。あれは女の子としての、純粋な防御じゃない」
「こっちだって、そうだっての。何かあったら助けてやらなきゃって、純粋にそう思って取った行動だぞ」
そう言われてしまうと、琴音も恐縮するしかない。
そんなことを言い合っていると、また草の揺れる音がした。三人がそちらを見ると、さっきの黒ねこだ。茂みの間から、顔を出している。
「あ、諸悪の根元。まだいたのか」
「誠にとっては、確かに諸悪の根元かもな」
遼太郎がそう言って、笑う。
「あの子、温泉に入りに来たのかしら」
「ねこって、水が嫌いなんだろ。自分のテリトリーにオレ達が入って来たから、見張ってんじゃないのか」
言いながら、誠一郎はしゃがんで黒ねこの方に手を差し出す。黒ねこは寄って来ることはなかったが、逃げることもしなかった。
「あら、たまーに飼い主さんと一緒にお風呂に入ってるねこ、テレビで観たりするわよ。こんな環境なら、温泉好きなねこになってるかも知れないじゃない」
二人がそんな会話を交わしているうちに、黒ねこが動いた。
その場を離れて歩き出す。だが、すぐに立ち止まると、こちらを振り返った。
「……ねぇ、あの子、あたし達にこっちへ来るように言ってない?」
「琴音はいつから、ねこの言葉がわかるようになったんだ」
「そんなの、わかんないわよぉ。でも、あの子の目を見てると、何となーくそんな感じに思えたんだもん」
これと言って変わったところがある訳でもないのに、不思議な雰囲気を感じさせる黒ねこだ。
さっきから今まで一声も鳴いていないし、ましてや人間の言葉などしゃべってはいない。
だが、琴音には金色のその目がはっきり「こちらへ来い」と言っている……ような気がしてしまう。
「言われてみれば、俺達が来るのを待ってるって感じにも見えるな。観光ガイドをしてくれるねこがいるっていうのは、たまにテレビや雑誌なんかに出てたりするけど……。この辺りに、ねこが案内したくなるような場所があるのかな」
「遼兄まで……。それじゃ、ついて行ってみる? ここよりさらに穴場な温泉、教えてくれるかも」
冗談めかして言ってはみたものの、誠一郎も何となく気になる黒ねこだとは思っていた。
結局、黒ねこに誘われるようにして、三人はその後をついて行く。
「黒ねこって、不吉だとか言われるよな」
「誠ちゃん、そんなこと言ったら、黒ねこに悪いわよ。毛が黒いっていうのが不吉なら、アジア系とかインド系の人なんて、みんな不吉になっちゃうじゃない。ってことは、あたし達も不吉になるわよ」
「こと、人間とねこを一緒にしないでくれないか」
遼太郎が、妹の言葉に苦笑した。
前を歩く黒ねこは、雑談している三人がちゃんと来ているのを確認しているような様子で進んで行く。
黒ねこは、かなり山奥へと向かっているようだ。まともな道ではないが、歩くのに苦労する程でもない。
ただ、今はまだ明るいからいいが、あまり深入りするのはよくないだろう。
三人がこちらへ向かっているのを誰も見ていないから、万が一遭難したとしても捜索してもらえない。
そう考え、遼太郎が「そろそろこの辺りでやめた方がいいんじゃないか」と言いかけた時。
「え? あれ? いなくなっちゃった」
ふいに、黒ねこの姿が見えなくなった。
「あそこだろ」
誠一郎が前方を指す。どこへ紛れてしまったのかと思ったが、黒ねこは行く手に現われた洞窟の中へと入って行ったようだ。
「中へ入っちまったな……。どうする?」
誠一郎が、琴音と遼太郎の顔を交互に見る。
「ここが、あの子の目的地かしら」
「こんな所へ来る予定なんてなかったから、オレはライトなんて持って来てないぞ」
今日は、温泉を目当てに来た。宿泊はライフラインが(たぶん)整っている宿。だから、キャンプで使うようなライト系の物は荷物に入っていない。
「でも……この奥に、あの子があたし達を連れて行きたかった場所があるんじゃない?」
「ことは、あそこへ行きたいのか?」
「ん……」
琴音は、あのねこの目がどうしても気になる。
もしあの黒ねこの目的地が本当にここで、何らかの理由で琴音達を連れて来たのであれば。
ここで帰ってしまっては、黒ねこの気持ちや目的がわからずじまいだ。
「ほら、動物のドキュメンタリーなんかであるじゃない。自分の子どもや家族がケガか病気で、人間に助けを求めてくるってケース。もしそういうのだったら、できる限り助けてあげたいし」
琴音達はこれまで、ペットを飼った経験がない。まして、獣医でもないから、具合の悪い動物がいたとしても、それがどういう状態かを判断できない。もちろん、手当も無理。傷があれば、ハンカチなどを巻いてやるのが関の山だ。
でも、しかるべき場所へ運んであげることなら、琴音にだってできる。熊やイノシシみたいに大きければ無理だが、村の人に事情を話して助けてあげられるように手配することなら可能だ。
「絶対崩れないって保証はないけど、今すぐ崩れるってんなら、あのねこだって入って行かないよな。野生の本能で、危険は察知できるんだろうし」
言いながら、誠一郎が洞窟の中を覗き込んだ。人間が二人並んで、余裕で歩ける幅の穴。
「何だ、あれ? 白っぽい……壁? 扉かな。あ、もしかして戦時中に造られかけて、そのままにされた軍事司令部みたいな場所とか」
誠一郎が、洞窟の中へ一歩踏み込む。
「誠、入るなら、外の光が届く所までにしておけよ」
「おう」
黒ねこのことを「諸悪の根元」などと言っていたくせに、誠一郎が一番その気になって追っているみたいだ。
「あたしも行くっ」
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