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十日伊予

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1547 序章

ためらい

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 シャマシュは祖母の腕の中で、母が金切り声をあげて飛び出し、人ならぬ男に駆け寄っていくのを見た。雷鳴と、自分と妹の泣き声と、父が母を呼ぶ声で頭の中がガンガンする。不安が喉に込み上げ、シャマシュは祖母の腕を振り払った。自分も家を飛び出し、母を追う。
 ドナは脇目もふらずに走り、男に後ろから抱きついた。男は振り返り、腰元に抱きついてきた傷だらけの女を見ると、体を震わせた。おお、おお、と声を漏らし、その度に空に稲妻が走る。ドナが涙目で彼を見上げ、彼が恐る恐るドナを抱き返そうとすると、幼な子の叫び声が聞こえた。
「シャマシュ!」
 バッと彼から手を離し、ドナが振り返る。シャマシュが水溜まりの上で、泥だらけになってわんわんと泣いていた。ドナを追う途中でぬかるみに足を取られ、水溜まりの中に転んでしまった。ドナは慌てて息子に駆け寄り、自分の服でシャマシュの顔の泥を拭いてやる。村人は謎の男と雷を恐れて家から様子を見ている。祖母はナャにもそうして欲しかったが、ナャはシャマシュが心配になって家を出た。
「お口じゃりじゃりするー!」
「ほらシャマシュ、ぺっして。ペーって」
 シャマシュに口の中の泥を吐き出させ、大きな怪我がないのを確認すると、ドナはほっと一息をつく。傍まで駆けてきたナャと顔を見合わせた。
「ドナ」
 不意に後ろから声をかけられ、ドナはビクッとする。巨躯の男は泣き出しそうな顔をして、自分に向けられたドナの背中に手を伸ばしていた。
「……息子と、夫です」
 ドナはシャマシュの小さな肩を両腕でそっと掴み、震える声で言った。男に顔を見せられない。
「この子だけじゃないです。娘もここで産みました。あなたを待てずに、ごめんなさい」
「違う。お前を見つけるのが遅くなった、私が悪い。あの時、お前を守れなかった。すまない、ドナ」
 男が首を横に振る。ためらいがちにドナの肩に触れる。手のひらに彼女の肌の柔らかさを感じた瞬間、彼の中から迷いが消えた。シャマシュが怯えて母親に抱きつき、ナャが警戒をあらわにする。しかし男の目にはドナしか映らない。
「帰ろう。もう苦労はさせない。私は今までもこれからも、ずっとお前を愛している、ドナ」
 確かな口調で男が言う。ドナの胸に、喜びとともに戸惑いが吹き出した。背中には懐かしい男の大きな手の感触がある。だが、自分の手の中には、息子のぬくもりがある。
「勝手なことを言わないでよ……」
 ナャが拳を握りしめ、わなわなと唇を震わせる。男が何者かは、おおよそ見当がつく。ドナの生き別れた元夫だ。
「何が帰ろうだ。ドナもシャマシュも、ぼくが守った。あなたが何をしたって言うんだ!」
 語気を荒らげ、自分より圧倒的に体の大きい男に食ってかかる。ゴロゴロと、雷鳴が低く鳴り響き始めた。その音に、男が怒っているのを察し、ドナは焦った。立ち上がり、二人の男たちの間に割って入る。男に顔を向けると、やめて、と首を横に振った。
「雷神さま。今日はもう寝かせてください。雷も落とさないで」
「す、すまない。お前を探している間、気持ちがつらくて、つい雷が漏れ出てしまっていた。もう一切鳴らさない。雨もじきやむだろう」
 本来は威厳ある存在なのだろうが、ドナの毅然とした態度の前では、それが嘘のように男はたじたじとする。彼の言葉通りに、雷はたちまち鳴り止み、雨足も弱まった。
「ナャも、落ち着いて。この方はわたしを無理やり連れて行ったりしない」
 夫に向き直り、ドナは言う。ナャは納得していないようにうつむいた。胸に言い知れない不安がある。
「かぁちゃん……」
「大丈夫だよ、シャマシュ。お家に帰ろうね」
 足にしがみついてくるシャマシュを撫でて、笑顔を見せてやる。
 男が一旦どこかに行けば、村人たちが家に押しかけてくることだろう。きっと彼について質問攻めにされる。本当のことを全部話してしまったらことがこじれてしまうだろうから、うまい具合に答えなければいけない。
 どっと疲れを感じ、ドナは大きく息を吐いた。
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