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第二章
13.守られている
瑞樹のヒートは数日でピークを越え、徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。
その間、食事や身の回りの世話はすべて慧が引き受けてくれていた。
「瑞樹くん、身体は大丈夫?」
「う、うん……」
ヒート中のぼんやりとした意識とは違い、理性が戻りつつある今は、慧と目を合わせるだけでどこか気まずさがあった。
数日間の熱や慧の腕に抱かれた記憶がフラッシュバックし、頬が勝手に熱を持つ。
「僕、今日から授業に復帰するね。瑞樹くんはこのままベッドで休んでて」
「……わかった」
「何かあったらすぐに電話してね」
「うん……」
慧がそっと瑞樹の頭を撫でる。その手の温もりに、胸がきゅっと締め付けられる。
慧が部屋を出ていくと、静けさと自身の心臓の音だけが残った。
(俺……本当に、ヒート来たんだな)
初めてのヒートは、Ωの友人から聞いていた話よりもはるかに重く、身体に刻み込まれるような体験であった。わずかに残る筋肉の痛みが、あの数日間の現実を突きつけてくる。
(他のΩは、これを普通に乗り越えてるのか……?)
もし慧がいなかったら、自分はどうなっていたのだろうか。
あの大きな身体に守られ、抱きしめられるたび、Ωであることを否応なく意識させられた。
Ωのヒートを受け止められるのはαだけ。
そして、αの欲望を受け止められるのもΩだけ。
──瑞樹は、正真正銘“Ω”だったのだ。
◇
瑞樹がベッドの上で軽く伸びをすると、ふと首元のネックガードに指が触れた。
「……あ」
その感触に、慧の声が脳裏に蘇る。
『これは簡易のものだからね。いつかちゃんとしたものを選ぶから』
真剣な声で何度も繰り返していた、あの言葉。
かつて公的機関から配布されたネックガードは、ヒートが来ない自分には必要ないと、とうに使わなくなっていた。
だが、今、首に残る慧の匂いが染み込んだネックガードは、妙に安心感を与えてくれる。
久しぶりにスマホを開くと、友人たちからのメッセージが溜まっていた。
『天橋くん、授業休んでるけど大丈夫!?』
『瑞樹、生きてるかー?』
(……やば、返してなかった)
瑞樹は慌てて『ヒートが来て休んでた。もう大丈夫』と返信した。
(……俺も、授業行かなきゃな)
今日は午後に一つだけ授業がある。
すぐ帰れば問題ない──そう思い、瑞樹はカバンを手に取った。
◇
「あぁー! 数日ぶりの外だぁー!」
外の空気を吸い込むと、頭はまだ少しぼんやりしているのに、心がふっと軽くなる。
だが、大学に着くと、周囲からチラチラと視線を感じた。
(……なんだ? まあ、いいか)
昼食を取ろうとカフェテリアの隅でうどんを食べていると、突然、見知らぬ学生たちに囲まれた。
「天橋くん、Ωだったんだ……」
「可愛いね」
「番はまだいないんだね?」
「俺ならもっと良いネックガード贈るよ?」
「天橋くんのフェロモン、めっちゃいい香りだね」
瑞樹を値踏みするような視線。そして、こちらへ伸ばされる手。
身体は強張り、息が詰まる。心臓がバクバクと鳴り、瑞樹の頭は真っ白になった。
(え……急になに? 誰か……!!)
「ちょっと、何やってるんだ!!」
その瞬間、慧の声が鋭く響いた。
険しい表情で駆け寄ってきた慧を前に、学生たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「校内で瑞樹くんの匂いがして……ほんと、ヒヤヒヤしたよ! なんでここにいるの? まだ休んでなきゃ!」
「……授業、受けなきゃって」
「ヒート期間は免除されるんだから、家で休まないとダメでしょ! 危ないんだから!」
「ご、ごめん……」
瑞樹は思わず縮こまる。慧の声は強いのに、その手は優しく瑞樹の肩を包んでくれた。
「絶対に無理しちゃダメ。なにかあったらすぐに連絡して」
「うん……」
「絶対に一人になっちゃダメ。僕が迎えに行くから、授業が終わったらここで待ってて。人目のないところに行っちゃダメだよ」
慧はそう言うと、羽織っていたパーカーを瑞樹にそっと着せた。
「……僕のパーカー着てて。絶対に脱いじゃダメだから」
頭を軽く撫でられ、瑞樹は小さく頷いた。
「……ダメばっかりじゃん」
その小さな呟きは、慧には届かなかったようだった。
◇
教室に入ると、友人の崇がすぐに駆け寄ってきた。
「瑞樹! お前、大丈夫か? ヒートが来たって……」
「うん、もう大丈夫。心配かけてごめん」
「いや、ていうか……お前、ほんとにΩだったんだな!」
「おいっ!」
瑞樹が冗談交じりに崇の肩を叩こうとすると、崇の目がふっと変わった。
さっきまでの軽い笑顔が消え、ほんの少し距離を取られる。
「……瑞樹。お前、自分がΩだって自覚あるのか? そんなにフェロモン振りまいてたら危ないぞ」
「……振りまく?」
「今、お前からめっちゃΩフェロモン出てんぞ」
「え?」
崇の真剣な表情に、瑞樹は思わず自分の服を見下ろした。羽織っているのは、慧から借りたパーカーである。
「そのパーカー、例のαのやつだろ?」
「……分かるの?」
パーカーの袖口をそっと口元に寄せると、慧の匂いが鼻腔を満たした。不思議と胸の奥がじんわりと落ち着く。
少し間を置いて、瑞樹はふっと笑ってみせた。
「そういえばさ、Ωって意外とαの匂いが分からないもんなんだな」
「え?」
「久しぶりに学校来たけど、αもβもΩも、違いが全然分からないんだよ。でも、お前は俺のフェロモンが分かるんだろ? 不思議だよな」
「ほんとに言ってんのか? 瑞樹、俺のαフェロモンが分からないの?」
「うん、全然分からん」
崇は眉をひそめ、同じ学科のΩの友人たちを何人か呼び寄せた。
「え? 僕、αのフェロモン分かるけど……天橋くん、ほんとに分からないの?」
「私もΩだけど、何となく分かるよ?」
瑞樹は返ってきた答えに呆然とする。
「え、そうなの?」
女子のΩが笑いながら続ける。
「相性の良いαだったら、極上の香りなんだって! 安心するっていうかさ」
瑞樹の脳裏に、数日前の出来事が鮮やかに蘇った。
呼吸するたびに胸を満たす甘い匂い。
全身が震えるほどの欲と渇き。
そして、慧の腕の中でだけ感じた、圧倒的な安心感。
「あ……でも、確かに……ひとりだけ分かるやつ、いるかも」
瑞樹は無意識にパーカーの袖をぎゅっと握りしめた。
「もしかして、そのパーカーの持ち主?」
「え?」
「瑞樹くん、その人に守られてるもんね。“瑞樹くんに手を出すな”って圧力、めっちゃ感じるよ」
「そうそう! 並のαじゃ、瑞樹くんに近寄れないって~」
その言葉が耳に残った。
──慧のフェロモンに守られている。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥が熱くなった。
◇
授業が終わり、瑞樹は食堂の片隅で慧を待っていた。
周囲からの視線は相変わらず感じるが、慧のパーカーを着ているせいか、誰も近づいてはこない。
(……やっぱり、守られているのかな)
胸の内でそっと呟き、瑞樹は机に突っ伏す。
ヒート明けのぼんやりした頭と、勝手に重くなるまぶたに抗えず、うとうとと意識が揺れ始める。
どのくらい眠っていたのだろうか。
ふと、胸の奥を落ち着かせる甘い匂いに包まれた。
──慧だ、とすぐに分かった。
「瑞樹くん……!」
駆け寄ってきた慧が、まっすぐこちらを覗き込む。その眉間には心配そうな皺が刻まれていた。
「瑞樹くん、しんどいの? 体調は大丈夫?」
「うん、平気。ちょっと眠たかっただけで……元々元気だし」
強がる声とは裏腹に、フェロモン計測器が容赦なく数値を表示する。
フェロモン値:111.2(ヒートの可能性大)
慧の小さく息を呑む気配がした。
「またフェロモン値、高くなっちゃったね……」
瑞樹は返事の代わりに、慧の腕をぐいっと掴み、そのまま自分の頬の下に引き寄せた。
腕枕のようにして目を細めると、無意識に甘えた声が漏れた。
「……ん。頭、ぼやぼやする……」
「瑞樹くん、歩けそう?」
「うん……」
その曖昧な返事に慧は困ったように微笑み、そしてすぐに真剣な声に戻った。
「瑞樹くん、一緒に病院行こう。実は、もう予約を入れてあるんだ」
「え?」
「ヒートが来てから一度も受診してないでしょ? 僕も付き添うからさ」
慧の手が自然に瑞樹の肩を抱き寄せる。
その温もりに支えられ、瑞樹はゆっくりと立ち上がった。
外へ踏み出した瞬間、慧の匂いと存在だけが、眩しいほどに鮮明に感じられた。
その間、食事や身の回りの世話はすべて慧が引き受けてくれていた。
「瑞樹くん、身体は大丈夫?」
「う、うん……」
ヒート中のぼんやりとした意識とは違い、理性が戻りつつある今は、慧と目を合わせるだけでどこか気まずさがあった。
数日間の熱や慧の腕に抱かれた記憶がフラッシュバックし、頬が勝手に熱を持つ。
「僕、今日から授業に復帰するね。瑞樹くんはこのままベッドで休んでて」
「……わかった」
「何かあったらすぐに電話してね」
「うん……」
慧がそっと瑞樹の頭を撫でる。その手の温もりに、胸がきゅっと締め付けられる。
慧が部屋を出ていくと、静けさと自身の心臓の音だけが残った。
(俺……本当に、ヒート来たんだな)
初めてのヒートは、Ωの友人から聞いていた話よりもはるかに重く、身体に刻み込まれるような体験であった。わずかに残る筋肉の痛みが、あの数日間の現実を突きつけてくる。
(他のΩは、これを普通に乗り越えてるのか……?)
もし慧がいなかったら、自分はどうなっていたのだろうか。
あの大きな身体に守られ、抱きしめられるたび、Ωであることを否応なく意識させられた。
Ωのヒートを受け止められるのはαだけ。
そして、αの欲望を受け止められるのもΩだけ。
──瑞樹は、正真正銘“Ω”だったのだ。
◇
瑞樹がベッドの上で軽く伸びをすると、ふと首元のネックガードに指が触れた。
「……あ」
その感触に、慧の声が脳裏に蘇る。
『これは簡易のものだからね。いつかちゃんとしたものを選ぶから』
真剣な声で何度も繰り返していた、あの言葉。
かつて公的機関から配布されたネックガードは、ヒートが来ない自分には必要ないと、とうに使わなくなっていた。
だが、今、首に残る慧の匂いが染み込んだネックガードは、妙に安心感を与えてくれる。
久しぶりにスマホを開くと、友人たちからのメッセージが溜まっていた。
『天橋くん、授業休んでるけど大丈夫!?』
『瑞樹、生きてるかー?』
(……やば、返してなかった)
瑞樹は慌てて『ヒートが来て休んでた。もう大丈夫』と返信した。
(……俺も、授業行かなきゃな)
今日は午後に一つだけ授業がある。
すぐ帰れば問題ない──そう思い、瑞樹はカバンを手に取った。
◇
「あぁー! 数日ぶりの外だぁー!」
外の空気を吸い込むと、頭はまだ少しぼんやりしているのに、心がふっと軽くなる。
だが、大学に着くと、周囲からチラチラと視線を感じた。
(……なんだ? まあ、いいか)
昼食を取ろうとカフェテリアの隅でうどんを食べていると、突然、見知らぬ学生たちに囲まれた。
「天橋くん、Ωだったんだ……」
「可愛いね」
「番はまだいないんだね?」
「俺ならもっと良いネックガード贈るよ?」
「天橋くんのフェロモン、めっちゃいい香りだね」
瑞樹を値踏みするような視線。そして、こちらへ伸ばされる手。
身体は強張り、息が詰まる。心臓がバクバクと鳴り、瑞樹の頭は真っ白になった。
(え……急になに? 誰か……!!)
「ちょっと、何やってるんだ!!」
その瞬間、慧の声が鋭く響いた。
険しい表情で駆け寄ってきた慧を前に、学生たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「校内で瑞樹くんの匂いがして……ほんと、ヒヤヒヤしたよ! なんでここにいるの? まだ休んでなきゃ!」
「……授業、受けなきゃって」
「ヒート期間は免除されるんだから、家で休まないとダメでしょ! 危ないんだから!」
「ご、ごめん……」
瑞樹は思わず縮こまる。慧の声は強いのに、その手は優しく瑞樹の肩を包んでくれた。
「絶対に無理しちゃダメ。なにかあったらすぐに連絡して」
「うん……」
「絶対に一人になっちゃダメ。僕が迎えに行くから、授業が終わったらここで待ってて。人目のないところに行っちゃダメだよ」
慧はそう言うと、羽織っていたパーカーを瑞樹にそっと着せた。
「……僕のパーカー着てて。絶対に脱いじゃダメだから」
頭を軽く撫でられ、瑞樹は小さく頷いた。
「……ダメばっかりじゃん」
その小さな呟きは、慧には届かなかったようだった。
◇
教室に入ると、友人の崇がすぐに駆け寄ってきた。
「瑞樹! お前、大丈夫か? ヒートが来たって……」
「うん、もう大丈夫。心配かけてごめん」
「いや、ていうか……お前、ほんとにΩだったんだな!」
「おいっ!」
瑞樹が冗談交じりに崇の肩を叩こうとすると、崇の目がふっと変わった。
さっきまでの軽い笑顔が消え、ほんの少し距離を取られる。
「……瑞樹。お前、自分がΩだって自覚あるのか? そんなにフェロモン振りまいてたら危ないぞ」
「……振りまく?」
「今、お前からめっちゃΩフェロモン出てんぞ」
「え?」
崇の真剣な表情に、瑞樹は思わず自分の服を見下ろした。羽織っているのは、慧から借りたパーカーである。
「そのパーカー、例のαのやつだろ?」
「……分かるの?」
パーカーの袖口をそっと口元に寄せると、慧の匂いが鼻腔を満たした。不思議と胸の奥がじんわりと落ち着く。
少し間を置いて、瑞樹はふっと笑ってみせた。
「そういえばさ、Ωって意外とαの匂いが分からないもんなんだな」
「え?」
「久しぶりに学校来たけど、αもβもΩも、違いが全然分からないんだよ。でも、お前は俺のフェロモンが分かるんだろ? 不思議だよな」
「ほんとに言ってんのか? 瑞樹、俺のαフェロモンが分からないの?」
「うん、全然分からん」
崇は眉をひそめ、同じ学科のΩの友人たちを何人か呼び寄せた。
「え? 僕、αのフェロモン分かるけど……天橋くん、ほんとに分からないの?」
「私もΩだけど、何となく分かるよ?」
瑞樹は返ってきた答えに呆然とする。
「え、そうなの?」
女子のΩが笑いながら続ける。
「相性の良いαだったら、極上の香りなんだって! 安心するっていうかさ」
瑞樹の脳裏に、数日前の出来事が鮮やかに蘇った。
呼吸するたびに胸を満たす甘い匂い。
全身が震えるほどの欲と渇き。
そして、慧の腕の中でだけ感じた、圧倒的な安心感。
「あ……でも、確かに……ひとりだけ分かるやつ、いるかも」
瑞樹は無意識にパーカーの袖をぎゅっと握りしめた。
「もしかして、そのパーカーの持ち主?」
「え?」
「瑞樹くん、その人に守られてるもんね。“瑞樹くんに手を出すな”って圧力、めっちゃ感じるよ」
「そうそう! 並のαじゃ、瑞樹くんに近寄れないって~」
その言葉が耳に残った。
──慧のフェロモンに守られている。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥が熱くなった。
◇
授業が終わり、瑞樹は食堂の片隅で慧を待っていた。
周囲からの視線は相変わらず感じるが、慧のパーカーを着ているせいか、誰も近づいてはこない。
(……やっぱり、守られているのかな)
胸の内でそっと呟き、瑞樹は机に突っ伏す。
ヒート明けのぼんやりした頭と、勝手に重くなるまぶたに抗えず、うとうとと意識が揺れ始める。
どのくらい眠っていたのだろうか。
ふと、胸の奥を落ち着かせる甘い匂いに包まれた。
──慧だ、とすぐに分かった。
「瑞樹くん……!」
駆け寄ってきた慧が、まっすぐこちらを覗き込む。その眉間には心配そうな皺が刻まれていた。
「瑞樹くん、しんどいの? 体調は大丈夫?」
「うん、平気。ちょっと眠たかっただけで……元々元気だし」
強がる声とは裏腹に、フェロモン計測器が容赦なく数値を表示する。
フェロモン値:111.2(ヒートの可能性大)
慧の小さく息を呑む気配がした。
「またフェロモン値、高くなっちゃったね……」
瑞樹は返事の代わりに、慧の腕をぐいっと掴み、そのまま自分の頬の下に引き寄せた。
腕枕のようにして目を細めると、無意識に甘えた声が漏れた。
「……ん。頭、ぼやぼやする……」
「瑞樹くん、歩けそう?」
「うん……」
その曖昧な返事に慧は困ったように微笑み、そしてすぐに真剣な声に戻った。
「瑞樹くん、一緒に病院行こう。実は、もう予約を入れてあるんだ」
「え?」
「ヒートが来てから一度も受診してないでしょ? 僕も付き添うからさ」
慧の手が自然に瑞樹の肩を抱き寄せる。
その温もりに支えられ、瑞樹はゆっくりと立ち上がった。
外へ踏み出した瞬間、慧の匂いと存在だけが、眩しいほどに鮮明に感じられた。
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