リーベンバウムの少女

渡瀬 藍兵

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9話:ゴブリンの群れとの戦闘

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「へぇ……勇者がこのギルドを建てたんですね」

   リネットの声には、素直な感嘆が混じっていた。

   この穏やかで、お茶の香りが漂う空間。それを作り上げた“始まり”が、たった一人の英雄に由来している。その事実が、急にこの古い建物を特別なものに見せる。

  「はい。それに、このギルドは世界各国にあるギルドの中でも最古……つまり、一番最初に建てられた『始まりのギルド』なんですよ」

   フュリンの言葉はさらりとしているが、その意味は重い。

   最古。最初。――それは、ただ歴史があるという意味じゃない。この世界の“冒険者”という仕組み、その全ての起点が、今リネットが踏みしめているこの床の上にあるということだ。

  「なるほど……」

   リネットは深く頷きながら、無意識にテーブルの年季の入った木目を指先でなぞった。

  「では、早速依頼でも受けてみましょうか。あなたがどのランク帯の実力があるのかも知りたいですしね」

   フュリンは立ち上がった。椅子がきしりと鳴り、彼の背筋がすっと伸びる。

   さっきまでの穏やかな“説明係”の空気が抜け、プロの“受付”の顔になる。仕事のスイッチが入る瞬間は、目の色がほんの少し変わるから分かりやすい。

   彼は壁の依頼ボードへ向かい、掲示された羊皮紙を眺めた。指先で紙の端を押さえ、並びを確認し、迷いなく一枚を剥がす。

   戻ってきたフュリンは、席に腰を下ろしながら、その紙をリネットの前へ差し出した。

  「そうですねぇ……まず、こちらの依頼なんてどうでしょうか?」

   リネットは紙を受け取り、目を走らせる。

  「えっと……ゴブリン……ですか?」

   思わず口に出た。拍子抜け、というほどではない。

   けれど、期待していた“最初の依頼”が、もっとこう……大げさで、ドラマチックで、強敵の匂いがするものだった自分も、確かにいる。

  「はい。ゴブリンとはいえ油断は禁物ですよ。初陣でその醜悪な見た目に恐怖し、足がすくんでしまう冒険者だっているのですから」

   フュリンは淡々と言うが、そこに諭すような優しさがある。

   初陣。恐怖。言葉の選び方が、彼が新人の揺れ動きをよく知っていることを示していた。

  (……まぁ不満はないけど、ついこの間オークキングを倒したばかりなんだよね)

   内心、ほんの少しだけ頬を膨らませる。

   あの圧倒的な質量。空気を震わす棍棒の風圧。命のやり取り特有の、焦げ付くような緊張感。――それと比べたら、ゴブリンは“軽い”と感じてしまうのも無理はない。

   けれど、それを口に出すのは野暮だ。

   「オークキングを倒した」と言ったところで、ギルドでの実績がゼロである事実は変わらない。何より、真面目なフュリンを困らせるだけだ。

  「わかりました! ゴブリンの討伐、任せてください!」

  「頼りにしてます。……あ、それと。初任務の餞別として、こちらを」

   フュリンが懐から取り出し、差し出してきたのは、小さな茶色いポーチだった。

   手のひらに乗る程度の大きさ。革は柔らかく、口紐はしっかりしている。縫い目も丁寧で、安物の雑な感じがない。

  「これは?」

   受け取った瞬間、重さが妙に軽い。

   空っぽだから、というだけではない気がして、リネットは思わずポーチを指でつまんで揺らした。中身がないような、不思議な軽さ。

  「そちらは空間魔法を応用した『拡張ポーチ』でして……要するに、見た目からは想像できないほど、とてつもない量の荷物を入れられる代物です」

  「ホントですか!?」

   声が裏返りかける。目が丸くなるのを止められない。

   旅の途中、背負い袋が肩に食い込み、紐が擦れて痛かった記憶が一気に蘇るからだ。

  「冒険者は様々な道具を持ち歩きますからね。あなたが先程まで背負っていた大きなバッグ等も、全て余裕で収まりますよ」

   フュリンは誇らしげというより、あくまで事務用品を渡すかのように言った。ここでは、これが“標準装備”なのだろうか。

  (つまり、このポーチを持ってればほとんど手ぶらみたいなものってことだね! こんな快適な物をタダで貰えるなんて!)

   リネットはポーチを両手で包み込み、宝物みたいに胸元へ引き寄せた。革の感触が温かい。

   冒険者としての“初めての装備品”。それだけで、胸の奥がくすぐったくなる。

  「では、正式に依頼を受付します。リネットさん、手の甲をお出しください」

   フュリンはいつもの柔らかな笑みのまま言った。

   リネットは瞬きをひとつ。

  「……? はい」

   言われるがまま、右手の甲を差し出す。

   フュリンは手元から、判子のようなものを取り出した。木の取っ手に、金属の台座。古びているが、使い込まれた艶がある。

   そして、躊躇なく。

   ぐっ、とリネットの手の甲へ押し付けた。

  「……?」

   じんわりと圧がかかり、骨の上に硬い感触が乗る。

   だが、離されたあとを見ても――何もない。インクの汚れも、焼き印のような痕も、かすかな光すら残らない。

   リネットは手の甲をまじまじと見つめ、それからフュリンを見た。眉が勝手に寄る。

  「今のは?」

   フュリンは、くすっと笑った。

  「ふふ、困惑しますよね。では手の甲を見ながら、『依頼の確認』と言ってみてください」

  「……依頼の確認」

   言葉を紡いだ瞬間。

   手の甲が、ふわりと温かくなる。

   皮膚の下から光が滲むように、透明な文字が空中に浮かび上がった。

   先ほどの依頼書と寸分違わぬ内容。行き先、対象、注意事項。文字は淡く光り、しかしくっきりと読める。

  「すごい……!」

   感嘆の声が漏れる。自分の身体が“魔法の羊皮紙”になったみたいで、驚きと同時に妙な高揚感が走る。

  「こちらは魔力がある限り、何度でも確認できます。討伐に夢中で依頼内容を忘れてしまった時などに、ご活用下さい」

  「ありがとうございます!」

   リネットは思わず拳を握った。旅立ったときの漠然とした不安や、見知らぬ街での緊張が、今、勢いよく解けていく。

  (ギルドって凄い! 俄然やる気出てきた!)

   胸の内側に、熱いものが滾る。

   冒険者という肩書きが、ただの言葉ではなく“システム”として自分を支えてくれる。そう感じるだけで、足が軽くなる。

  「ふふ、依頼の確認をすれば、簡易的な案内マップ等も表示されますので」

  「親切な作りで、これなら確かに迷子になりやすい私でも安心です!」

  「それは良かった。ちなみに、今回受けていただきますゴブリンの討伐ですが、このアルムジカの西側に小さな森があります」

   フュリンの指先が、空中に見えない地図を描くように動く。

  「『加護の木立』と呼ばれる森です」

  「わかりました! では早速行ってみますね!」

   椅子を引く音が勢いよく鳴った。

   新しいポーチを腰に結び、剣の重さを確かめる。身体はもう、出口の方角へ向こうとしていた。

  「元気があってよろしいですね。お気をつけて」

   見送るフュリンに手を振り、リネットはギルドの扉を勢いよく開け放った。

   外の光が眩しく、街の匂いが一段と鮮やかに鼻腔へ流れ込む。石畳を蹴る足音が、高鳴る心臓の鼓動と重なる。

   初めての正式な依頼。

   胸いっぱいの期待を吸い込んで、いざ『加護の木立』へ――。

  「そこだぁッ!!!!」

   リネットの裂帛の気合いが、木々の隙間を切り裂いた。

   深く踏み込み、腰を落として放つ膝蹴り。

   それがゴブリンの顎を的確に捉え、めり込んだ瞬間――ゴシャリ、という嫌な音が鼓膜を打つ。

   口が半端に開いたまま、ゴブリンの頭が後ろへ弾かれる。膝から力が抜け、泥人形のように崩れ落ちた。

  「一匹目!!」

   間髪入れず、視線を走らせる。

   すでに周囲の草むらがざわざわと揺れていた。

   わらわらと、地面から湧くように這い出てくる緑色の矮躯。一匹、また一匹。その数は、新米冒険者が相手にするにはあまりに多すぎた。

   だが、リネットは駆けた。

   勢いを乗せた回し蹴りが、迫るゴブリンの側頭部を捉える。

   鈍い衝撃。頭蓋が砕けた感触が足の甲に返り、蹴り抜いた脚が空を切る。倒れた個体の血と唾液が泥に混じり、鉄錆の臭いが立ち昇る。

   次が来る。

   汚れた斧が振り下ろされる。刃先は欠け、赤錆が浮いているが、殺意だけは十分だ。

   リネットは剣で受け流す。金属と金属が噛み合う甲高い音が森に響き、火花が一瞬散った。

   弾いた隙。そこへ、得意の蹴りを叩き込む。

   腹、喉、膝。急所を選び、短く、鋭く、確実に。

   彼女の蹴り技は“派手”ではない。実戦的で、冷徹なまでに合理的だ。止める、崩す、殺す。その流れに一切の迷いがない。

   しかし――数が多い。

   倒しても倒しても、次が湧いてくる。

   斧が増え、耳障りな叫び声が増え、泥の跳ねる音が増える。呼吸を乱さないよう意識しているが、時間だけが確実に削られていく。

  (……これじゃ、キリがないかなぁ)

   判断は一瞬だった。

   リネットは大きくバックステップで距離を取り、群がるゴブリンたちの“足元”へ手をかざした。

   細い指先が地面に影を落とし、周囲の風が一瞬、不気味に凪ぐ。

   そして、凛とした声で紡ぐ。

  「風よ! 逆巻き、穿て!」

   リネットの言葉が、湿った森の空気を震わせた。

   次の瞬間――地面が爆ぜたようにうねった。

   落ち葉と土砂が舞い上がり、ゴブリンたちの足元に巨大な竜巻が発生する。風が唸りを上げ、足首を、膝を、腰を強引に絡め取って、彼らの体勢を容赦なく崩していく。

  「ギィィィ!??」

  「ギャギャ!!?」

   悲鳴とも絶叫ともつかない声。

   手足をばたつかせても、空気そのものが強固な縄となって逃がさない。渦はさらに勢いを増し、いくつもの小さな身体を一斉に空へと放り投げた。

   浮く。回る。視界が裏返る。

   そして――ゴミのように放り出される。

   空高く打ち上げられたゴブリンたちは、次の瞬間、重力に従って落下を始めた。

   風の手を離れた途端、ただの無力な肉塊に戻る。

   ドンッ、グシャッ、ゴギッ。

   鈍い衝突音がいくつも重なり、土が跳ねる。

   地面に叩きつけられたゴブリンたちは、呻き声すら上げる間もなく沈黙した。

   地獄絵図。そう言ってしまえば簡単だ。

   だが、この数を捌くにはこれしかなかった。こちらが一瞬でも手を緩めれば、その錆びた刃が自分の喉を掻っ切る。リネットは感情をスッと切り離し、残心をとる。

  「っ……!」

   その時だ。

   背筋を舐めるような、嫌な冷たさが走った。

   空気がひと息で尖る。

   ――明確な、殺気。

   竜巻が消えた直後。風が止まり、舞っていた土埃が落ちる、その一瞬の隙を狙ってきた。

   鋭い踏み込みの音がひとつ。草を裂くような擦過音。重い呼吸の圧。

   背後から伸びた剣が、リネットの髪を数本撫でた。

   ほんの一筋、銀色の線。あと数センチずれていれば首が落ちていたという距離で、冷たい刃が通り過ぎる。

   振り返った先には、鉄の鎧を纏ったゴブリンがいた。

   他の薄汚れた連中とは明らかに違う。金属板の擦れる音、手入れされた剣の光。目の前に現れたそれは、群れを統率する“上位種”だった。

  「はっ!」

   リネットは息を吐き切るように短く声を叩き、間合いを詰める。剣を振るう。

   しかし、エリートゴブリンは――反応した。

   ガキンッ、と刃が噛み合う。重い。

   ただ怯えて下がるだけじゃない。こちらの間合いを読み、刃を合わせ、力で押し返してくる。

  (こいつ、他のゴブリンとは違う……!)

   さっきの魔法を見たからだろう。リネットに詠唱の隙を作らせまいと、獣のように距離を詰めてくる。呼吸を許さない連撃。動いた分だけ、次の圧が来る。

   ――だが。

   リネットの本領は、魔法よりも、体術を絡めた近接戦闘にある。

   一歩、バックステップ。

   ほんの僅かに下がるだけで、相手の前のめりな“勢い”だけが空転する。その瞬間の空白。狙うのはそこだ。

   詰め寄ってきたゴブリンの顎下へ、リネットの身体が反転した。

   サマーソルトキック。

   宙で美しい弧を描くように、踵が突き上がる。

   風を巻き、金色の髪が舞い、視界が一瞬天地逆になる。だが当てる場所だけは、寸分狂わない。

   ゴッ――鈍く、重い手応え。

   顎を打ち抜かれたゴブリンは、脳を揺らされ、千鳥足によろめいた。膝が揺れ、重厚な鎧がガチャリと音を立てる。

   その隙を、リネットが見逃すはずがない。

   着地と同時に踏み込み、流れるように袈裟斬り。

   斜めに走る一閃が、鎧の継ぎ目を正確に割り、深々と肉へ食い込んだ。

  「ギ…ェエ……!」

   鮮血が噴き出し、緑の草を赤く染める。

   ゴブリンは剣を取り落とし、どうと地面へ倒れ伏した。喉の奥で音が潰れ、痙攣して動きが止まる。

   静寂。

   さっきまでの喧騒が嘘みたいに、森が息を吹き返す。

   土埃がゆっくりと沈殿し、折れた枝がどこかで小さく軋んだ。

  「よし! 討伐完了っ!」

   リネットは額に浮かんだ汗を拭いながら、大きく息を吐いた。

   腕はまだ熱く、心臓は早鐘を打っている。それでも、呼吸は徐々に整っていく。

   その時だった。

  「う、うわぁぁぁぁぁ!!!!」

   森の空気を引き裂く悲鳴が、鋭い針となって耳に突き刺さった。

   風に乗って伝わる震え。喉の奥から絞り出されたような、言葉の形すら保てない絶叫。

   リネットの身体が、考えるより先に反応していた。

  「誰か……いるの!?」

   戦闘の高揚感が、一瞬で冷水に変わる。

   胸の奥がきゅっと縮み、背中に氷柱を差し込まれたような緊張が走った。

   何が起きているのかは分からない。

   だが、あの叫びは“ただの驚き”じゃない。明確なSOS。切迫した恐怖。命の灯火が消えかける匂いがする。

   リネットは汗を拭った手をそのまま剣の柄へ戻し、強く地面を蹴った。

   木々の影が流れる。風を切る。

   リネットは斜面へ身を投げるように、悲鳴の聞こえた方角――森の深部へと突っ込んでいった。
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