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9話:ゴブリンの群れとの戦闘
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「へぇ……勇者がこのギルドを建てたんですね」
リネットの声には、素直な感嘆が混じっていた。
この穏やかで、お茶の香りが漂う空間。それを作り上げた“始まり”が、たった一人の英雄に由来している。その事実が、急にこの古い建物を特別なものに見せる。
「はい。それに、このギルドは世界各国にあるギルドの中でも最古……つまり、一番最初に建てられた『始まりのギルド』なんですよ」
フュリンの言葉はさらりとしているが、その意味は重い。
最古。最初。――それは、ただ歴史があるという意味じゃない。この世界の“冒険者”という仕組み、その全ての起点が、今リネットが踏みしめているこの床の上にあるということだ。
「なるほど……」
リネットは深く頷きながら、無意識にテーブルの年季の入った木目を指先でなぞった。
「では、早速依頼でも受けてみましょうか。あなたがどのランク帯の実力があるのかも知りたいですしね」
フュリンは立ち上がった。椅子がきしりと鳴り、彼の背筋がすっと伸びる。
さっきまでの穏やかな“説明係”の空気が抜け、プロの“受付”の顔になる。仕事のスイッチが入る瞬間は、目の色がほんの少し変わるから分かりやすい。
彼は壁の依頼ボードへ向かい、掲示された羊皮紙を眺めた。指先で紙の端を押さえ、並びを確認し、迷いなく一枚を剥がす。
戻ってきたフュリンは、席に腰を下ろしながら、その紙をリネットの前へ差し出した。
「そうですねぇ……まず、こちらの依頼なんてどうでしょうか?」
リネットは紙を受け取り、目を走らせる。
「えっと……ゴブリン……ですか?」
思わず口に出た。拍子抜け、というほどではない。
けれど、期待していた“最初の依頼”が、もっとこう……大げさで、ドラマチックで、強敵の匂いがするものだった自分も、確かにいる。
「はい。ゴブリンとはいえ油断は禁物ですよ。初陣でその醜悪な見た目に恐怖し、足がすくんでしまう冒険者だっているのですから」
フュリンは淡々と言うが、そこに諭すような優しさがある。
初陣。恐怖。言葉の選び方が、彼が新人の揺れ動きをよく知っていることを示していた。
(……まぁ不満はないけど、ついこの間オークキングを倒したばかりなんだよね)
内心、ほんの少しだけ頬を膨らませる。
あの圧倒的な質量。空気を震わす棍棒の風圧。命のやり取り特有の、焦げ付くような緊張感。――それと比べたら、ゴブリンは“軽い”と感じてしまうのも無理はない。
けれど、それを口に出すのは野暮だ。
「オークキングを倒した」と言ったところで、ギルドでの実績がゼロである事実は変わらない。何より、真面目なフュリンを困らせるだけだ。
「わかりました! ゴブリンの討伐、任せてください!」
「頼りにしてます。……あ、それと。初任務の餞別として、こちらを」
フュリンが懐から取り出し、差し出してきたのは、小さな茶色いポーチだった。
手のひらに乗る程度の大きさ。革は柔らかく、口紐はしっかりしている。縫い目も丁寧で、安物の雑な感じがない。
「これは?」
受け取った瞬間、重さが妙に軽い。
空っぽだから、というだけではない気がして、リネットは思わずポーチを指でつまんで揺らした。中身がないような、不思議な軽さ。
「そちらは空間魔法を応用した『拡張ポーチ』でして……要するに、見た目からは想像できないほど、とてつもない量の荷物を入れられる代物です」
「ホントですか!?」
声が裏返りかける。目が丸くなるのを止められない。
旅の途中、背負い袋が肩に食い込み、紐が擦れて痛かった記憶が一気に蘇るからだ。
「冒険者は様々な道具を持ち歩きますからね。あなたが先程まで背負っていた大きなバッグ等も、全て余裕で収まりますよ」
フュリンは誇らしげというより、あくまで事務用品を渡すかのように言った。ここでは、これが“標準装備”なのだろうか。
(つまり、このポーチを持ってればほとんど手ぶらみたいなものってことだね! こんな快適な物をタダで貰えるなんて!)
リネットはポーチを両手で包み込み、宝物みたいに胸元へ引き寄せた。革の感触が温かい。
冒険者としての“初めての装備品”。それだけで、胸の奥がくすぐったくなる。
「では、正式に依頼を受付します。リネットさん、手の甲をお出しください」
フュリンはいつもの柔らかな笑みのまま言った。
リネットは瞬きをひとつ。
「……? はい」
言われるがまま、右手の甲を差し出す。
フュリンは手元から、判子のようなものを取り出した。木の取っ手に、金属の台座。古びているが、使い込まれた艶がある。
そして、躊躇なく。
ぐっ、とリネットの手の甲へ押し付けた。
「……?」
じんわりと圧がかかり、骨の上に硬い感触が乗る。
だが、離されたあとを見ても――何もない。インクの汚れも、焼き印のような痕も、かすかな光すら残らない。
リネットは手の甲をまじまじと見つめ、それからフュリンを見た。眉が勝手に寄る。
「今のは?」
フュリンは、くすっと笑った。
「ふふ、困惑しますよね。では手の甲を見ながら、『依頼の確認』と言ってみてください」
「……依頼の確認」
言葉を紡いだ瞬間。
手の甲が、ふわりと温かくなる。
皮膚の下から光が滲むように、透明な文字が空中に浮かび上がった。
先ほどの依頼書と寸分違わぬ内容。行き先、対象、注意事項。文字は淡く光り、しかしくっきりと読める。
「すごい……!」
感嘆の声が漏れる。自分の身体が“魔法の羊皮紙”になったみたいで、驚きと同時に妙な高揚感が走る。
「こちらは魔力がある限り、何度でも確認できます。討伐に夢中で依頼内容を忘れてしまった時などに、ご活用下さい」
「ありがとうございます!」
リネットは思わず拳を握った。旅立ったときの漠然とした不安や、見知らぬ街での緊張が、今、勢いよく解けていく。
(ギルドって凄い! 俄然やる気出てきた!)
胸の内側に、熱いものが滾る。
冒険者という肩書きが、ただの言葉ではなく“システム”として自分を支えてくれる。そう感じるだけで、足が軽くなる。
「ふふ、依頼の確認をすれば、簡易的な案内マップ等も表示されますので」
「親切な作りで、これなら確かに迷子になりやすい私でも安心です!」
「それは良かった。ちなみに、今回受けていただきますゴブリンの討伐ですが、このアルムジカの西側に小さな森があります」
フュリンの指先が、空中に見えない地図を描くように動く。
「『加護の木立』と呼ばれる森です」
「わかりました! では早速行ってみますね!」
椅子を引く音が勢いよく鳴った。
新しいポーチを腰に結び、剣の重さを確かめる。身体はもう、出口の方角へ向こうとしていた。
「元気があってよろしいですね。お気をつけて」
見送るフュリンに手を振り、リネットはギルドの扉を勢いよく開け放った。
外の光が眩しく、街の匂いが一段と鮮やかに鼻腔へ流れ込む。石畳を蹴る足音が、高鳴る心臓の鼓動と重なる。
初めての正式な依頼。
胸いっぱいの期待を吸い込んで、いざ『加護の木立』へ――。
「そこだぁッ!!!!」
リネットの裂帛の気合いが、木々の隙間を切り裂いた。
深く踏み込み、腰を落として放つ膝蹴り。
それがゴブリンの顎を的確に捉え、めり込んだ瞬間――ゴシャリ、という嫌な音が鼓膜を打つ。
口が半端に開いたまま、ゴブリンの頭が後ろへ弾かれる。膝から力が抜け、泥人形のように崩れ落ちた。
「一匹目!!」
間髪入れず、視線を走らせる。
すでに周囲の草むらがざわざわと揺れていた。
わらわらと、地面から湧くように這い出てくる緑色の矮躯。一匹、また一匹。その数は、新米冒険者が相手にするにはあまりに多すぎた。
だが、リネットは駆けた。
勢いを乗せた回し蹴りが、迫るゴブリンの側頭部を捉える。
鈍い衝撃。頭蓋が砕けた感触が足の甲に返り、蹴り抜いた脚が空を切る。倒れた個体の血と唾液が泥に混じり、鉄錆の臭いが立ち昇る。
次が来る。
汚れた斧が振り下ろされる。刃先は欠け、赤錆が浮いているが、殺意だけは十分だ。
リネットは剣で受け流す。金属と金属が噛み合う甲高い音が森に響き、火花が一瞬散った。
弾いた隙。そこへ、得意の蹴りを叩き込む。
腹、喉、膝。急所を選び、短く、鋭く、確実に。
彼女の蹴り技は“派手”ではない。実戦的で、冷徹なまでに合理的だ。止める、崩す、殺す。その流れに一切の迷いがない。
しかし――数が多い。
倒しても倒しても、次が湧いてくる。
斧が増え、耳障りな叫び声が増え、泥の跳ねる音が増える。呼吸を乱さないよう意識しているが、時間だけが確実に削られていく。
(……これじゃ、キリがないかなぁ)
判断は一瞬だった。
リネットは大きくバックステップで距離を取り、群がるゴブリンたちの“足元”へ手をかざした。
細い指先が地面に影を落とし、周囲の風が一瞬、不気味に凪ぐ。
そして、凛とした声で紡ぐ。
「風よ! 逆巻き、穿て!」
リネットの言葉が、湿った森の空気を震わせた。
次の瞬間――地面が爆ぜたようにうねった。
落ち葉と土砂が舞い上がり、ゴブリンたちの足元に巨大な竜巻が発生する。風が唸りを上げ、足首を、膝を、腰を強引に絡め取って、彼らの体勢を容赦なく崩していく。
「ギィィィ!??」
「ギャギャ!!?」
悲鳴とも絶叫ともつかない声。
手足をばたつかせても、空気そのものが強固な縄となって逃がさない。渦はさらに勢いを増し、いくつもの小さな身体を一斉に空へと放り投げた。
浮く。回る。視界が裏返る。
そして――ゴミのように放り出される。
空高く打ち上げられたゴブリンたちは、次の瞬間、重力に従って落下を始めた。
風の手を離れた途端、ただの無力な肉塊に戻る。
ドンッ、グシャッ、ゴギッ。
鈍い衝突音がいくつも重なり、土が跳ねる。
地面に叩きつけられたゴブリンたちは、呻き声すら上げる間もなく沈黙した。
地獄絵図。そう言ってしまえば簡単だ。
だが、この数を捌くにはこれしかなかった。こちらが一瞬でも手を緩めれば、その錆びた刃が自分の喉を掻っ切る。リネットは感情をスッと切り離し、残心をとる。
「っ……!」
その時だ。
背筋を舐めるような、嫌な冷たさが走った。
空気がひと息で尖る。
――明確な、殺気。
竜巻が消えた直後。風が止まり、舞っていた土埃が落ちる、その一瞬の隙を狙ってきた。
鋭い踏み込みの音がひとつ。草を裂くような擦過音。重い呼吸の圧。
背後から伸びた剣が、リネットの髪を数本撫でた。
ほんの一筋、銀色の線。あと数センチずれていれば首が落ちていたという距離で、冷たい刃が通り過ぎる。
振り返った先には、鉄の鎧を纏ったゴブリンがいた。
他の薄汚れた連中とは明らかに違う。金属板の擦れる音、手入れされた剣の光。目の前に現れたそれは、群れを統率する“上位種”だった。
「はっ!」
リネットは息を吐き切るように短く声を叩き、間合いを詰める。剣を振るう。
しかし、エリートゴブリンは――反応した。
ガキンッ、と刃が噛み合う。重い。
ただ怯えて下がるだけじゃない。こちらの間合いを読み、刃を合わせ、力で押し返してくる。
(こいつ、他のゴブリンとは違う……!)
さっきの魔法を見たからだろう。リネットに詠唱の隙を作らせまいと、獣のように距離を詰めてくる。呼吸を許さない連撃。動いた分だけ、次の圧が来る。
――だが。
リネットの本領は、魔法よりも、体術を絡めた近接戦闘にある。
一歩、バックステップ。
ほんの僅かに下がるだけで、相手の前のめりな“勢い”だけが空転する。その瞬間の空白。狙うのはそこだ。
詰め寄ってきたゴブリンの顎下へ、リネットの身体が反転した。
サマーソルトキック。
宙で美しい弧を描くように、踵が突き上がる。
風を巻き、金色の髪が舞い、視界が一瞬天地逆になる。だが当てる場所だけは、寸分狂わない。
ゴッ――鈍く、重い手応え。
顎を打ち抜かれたゴブリンは、脳を揺らされ、千鳥足によろめいた。膝が揺れ、重厚な鎧がガチャリと音を立てる。
その隙を、リネットが見逃すはずがない。
着地と同時に踏み込み、流れるように袈裟斬り。
斜めに走る一閃が、鎧の継ぎ目を正確に割り、深々と肉へ食い込んだ。
「ギ…ェエ……!」
鮮血が噴き出し、緑の草を赤く染める。
ゴブリンは剣を取り落とし、どうと地面へ倒れ伏した。喉の奥で音が潰れ、痙攣して動きが止まる。
静寂。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、森が息を吹き返す。
土埃がゆっくりと沈殿し、折れた枝がどこかで小さく軋んだ。
「よし! 討伐完了っ!」
リネットは額に浮かんだ汗を拭いながら、大きく息を吐いた。
腕はまだ熱く、心臓は早鐘を打っている。それでも、呼吸は徐々に整っていく。
その時だった。
「う、うわぁぁぁぁぁ!!!!」
森の空気を引き裂く悲鳴が、鋭い針となって耳に突き刺さった。
風に乗って伝わる震え。喉の奥から絞り出されたような、言葉の形すら保てない絶叫。
リネットの身体が、考えるより先に反応していた。
「誰か……いるの!?」
戦闘の高揚感が、一瞬で冷水に変わる。
胸の奥がきゅっと縮み、背中に氷柱を差し込まれたような緊張が走った。
何が起きているのかは分からない。
だが、あの叫びは“ただの驚き”じゃない。明確なSOS。切迫した恐怖。命の灯火が消えかける匂いがする。
リネットは汗を拭った手をそのまま剣の柄へ戻し、強く地面を蹴った。
木々の影が流れる。風を切る。
リネットは斜面へ身を投げるように、悲鳴の聞こえた方角――森の深部へと突っ込んでいった。
リネットの声には、素直な感嘆が混じっていた。
この穏やかで、お茶の香りが漂う空間。それを作り上げた“始まり”が、たった一人の英雄に由来している。その事実が、急にこの古い建物を特別なものに見せる。
「はい。それに、このギルドは世界各国にあるギルドの中でも最古……つまり、一番最初に建てられた『始まりのギルド』なんですよ」
フュリンの言葉はさらりとしているが、その意味は重い。
最古。最初。――それは、ただ歴史があるという意味じゃない。この世界の“冒険者”という仕組み、その全ての起点が、今リネットが踏みしめているこの床の上にあるということだ。
「なるほど……」
リネットは深く頷きながら、無意識にテーブルの年季の入った木目を指先でなぞった。
「では、早速依頼でも受けてみましょうか。あなたがどのランク帯の実力があるのかも知りたいですしね」
フュリンは立ち上がった。椅子がきしりと鳴り、彼の背筋がすっと伸びる。
さっきまでの穏やかな“説明係”の空気が抜け、プロの“受付”の顔になる。仕事のスイッチが入る瞬間は、目の色がほんの少し変わるから分かりやすい。
彼は壁の依頼ボードへ向かい、掲示された羊皮紙を眺めた。指先で紙の端を押さえ、並びを確認し、迷いなく一枚を剥がす。
戻ってきたフュリンは、席に腰を下ろしながら、その紙をリネットの前へ差し出した。
「そうですねぇ……まず、こちらの依頼なんてどうでしょうか?」
リネットは紙を受け取り、目を走らせる。
「えっと……ゴブリン……ですか?」
思わず口に出た。拍子抜け、というほどではない。
けれど、期待していた“最初の依頼”が、もっとこう……大げさで、ドラマチックで、強敵の匂いがするものだった自分も、確かにいる。
「はい。ゴブリンとはいえ油断は禁物ですよ。初陣でその醜悪な見た目に恐怖し、足がすくんでしまう冒険者だっているのですから」
フュリンは淡々と言うが、そこに諭すような優しさがある。
初陣。恐怖。言葉の選び方が、彼が新人の揺れ動きをよく知っていることを示していた。
(……まぁ不満はないけど、ついこの間オークキングを倒したばかりなんだよね)
内心、ほんの少しだけ頬を膨らませる。
あの圧倒的な質量。空気を震わす棍棒の風圧。命のやり取り特有の、焦げ付くような緊張感。――それと比べたら、ゴブリンは“軽い”と感じてしまうのも無理はない。
けれど、それを口に出すのは野暮だ。
「オークキングを倒した」と言ったところで、ギルドでの実績がゼロである事実は変わらない。何より、真面目なフュリンを困らせるだけだ。
「わかりました! ゴブリンの討伐、任せてください!」
「頼りにしてます。……あ、それと。初任務の餞別として、こちらを」
フュリンが懐から取り出し、差し出してきたのは、小さな茶色いポーチだった。
手のひらに乗る程度の大きさ。革は柔らかく、口紐はしっかりしている。縫い目も丁寧で、安物の雑な感じがない。
「これは?」
受け取った瞬間、重さが妙に軽い。
空っぽだから、というだけではない気がして、リネットは思わずポーチを指でつまんで揺らした。中身がないような、不思議な軽さ。
「そちらは空間魔法を応用した『拡張ポーチ』でして……要するに、見た目からは想像できないほど、とてつもない量の荷物を入れられる代物です」
「ホントですか!?」
声が裏返りかける。目が丸くなるのを止められない。
旅の途中、背負い袋が肩に食い込み、紐が擦れて痛かった記憶が一気に蘇るからだ。
「冒険者は様々な道具を持ち歩きますからね。あなたが先程まで背負っていた大きなバッグ等も、全て余裕で収まりますよ」
フュリンは誇らしげというより、あくまで事務用品を渡すかのように言った。ここでは、これが“標準装備”なのだろうか。
(つまり、このポーチを持ってればほとんど手ぶらみたいなものってことだね! こんな快適な物をタダで貰えるなんて!)
リネットはポーチを両手で包み込み、宝物みたいに胸元へ引き寄せた。革の感触が温かい。
冒険者としての“初めての装備品”。それだけで、胸の奥がくすぐったくなる。
「では、正式に依頼を受付します。リネットさん、手の甲をお出しください」
フュリンはいつもの柔らかな笑みのまま言った。
リネットは瞬きをひとつ。
「……? はい」
言われるがまま、右手の甲を差し出す。
フュリンは手元から、判子のようなものを取り出した。木の取っ手に、金属の台座。古びているが、使い込まれた艶がある。
そして、躊躇なく。
ぐっ、とリネットの手の甲へ押し付けた。
「……?」
じんわりと圧がかかり、骨の上に硬い感触が乗る。
だが、離されたあとを見ても――何もない。インクの汚れも、焼き印のような痕も、かすかな光すら残らない。
リネットは手の甲をまじまじと見つめ、それからフュリンを見た。眉が勝手に寄る。
「今のは?」
フュリンは、くすっと笑った。
「ふふ、困惑しますよね。では手の甲を見ながら、『依頼の確認』と言ってみてください」
「……依頼の確認」
言葉を紡いだ瞬間。
手の甲が、ふわりと温かくなる。
皮膚の下から光が滲むように、透明な文字が空中に浮かび上がった。
先ほどの依頼書と寸分違わぬ内容。行き先、対象、注意事項。文字は淡く光り、しかしくっきりと読める。
「すごい……!」
感嘆の声が漏れる。自分の身体が“魔法の羊皮紙”になったみたいで、驚きと同時に妙な高揚感が走る。
「こちらは魔力がある限り、何度でも確認できます。討伐に夢中で依頼内容を忘れてしまった時などに、ご活用下さい」
「ありがとうございます!」
リネットは思わず拳を握った。旅立ったときの漠然とした不安や、見知らぬ街での緊張が、今、勢いよく解けていく。
(ギルドって凄い! 俄然やる気出てきた!)
胸の内側に、熱いものが滾る。
冒険者という肩書きが、ただの言葉ではなく“システム”として自分を支えてくれる。そう感じるだけで、足が軽くなる。
「ふふ、依頼の確認をすれば、簡易的な案内マップ等も表示されますので」
「親切な作りで、これなら確かに迷子になりやすい私でも安心です!」
「それは良かった。ちなみに、今回受けていただきますゴブリンの討伐ですが、このアルムジカの西側に小さな森があります」
フュリンの指先が、空中に見えない地図を描くように動く。
「『加護の木立』と呼ばれる森です」
「わかりました! では早速行ってみますね!」
椅子を引く音が勢いよく鳴った。
新しいポーチを腰に結び、剣の重さを確かめる。身体はもう、出口の方角へ向こうとしていた。
「元気があってよろしいですね。お気をつけて」
見送るフュリンに手を振り、リネットはギルドの扉を勢いよく開け放った。
外の光が眩しく、街の匂いが一段と鮮やかに鼻腔へ流れ込む。石畳を蹴る足音が、高鳴る心臓の鼓動と重なる。
初めての正式な依頼。
胸いっぱいの期待を吸い込んで、いざ『加護の木立』へ――。
「そこだぁッ!!!!」
リネットの裂帛の気合いが、木々の隙間を切り裂いた。
深く踏み込み、腰を落として放つ膝蹴り。
それがゴブリンの顎を的確に捉え、めり込んだ瞬間――ゴシャリ、という嫌な音が鼓膜を打つ。
口が半端に開いたまま、ゴブリンの頭が後ろへ弾かれる。膝から力が抜け、泥人形のように崩れ落ちた。
「一匹目!!」
間髪入れず、視線を走らせる。
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わらわらと、地面から湧くように這い出てくる緑色の矮躯。一匹、また一匹。その数は、新米冒険者が相手にするにはあまりに多すぎた。
だが、リネットは駆けた。
勢いを乗せた回し蹴りが、迫るゴブリンの側頭部を捉える。
鈍い衝撃。頭蓋が砕けた感触が足の甲に返り、蹴り抜いた脚が空を切る。倒れた個体の血と唾液が泥に混じり、鉄錆の臭いが立ち昇る。
次が来る。
汚れた斧が振り下ろされる。刃先は欠け、赤錆が浮いているが、殺意だけは十分だ。
リネットは剣で受け流す。金属と金属が噛み合う甲高い音が森に響き、火花が一瞬散った。
弾いた隙。そこへ、得意の蹴りを叩き込む。
腹、喉、膝。急所を選び、短く、鋭く、確実に。
彼女の蹴り技は“派手”ではない。実戦的で、冷徹なまでに合理的だ。止める、崩す、殺す。その流れに一切の迷いがない。
しかし――数が多い。
倒しても倒しても、次が湧いてくる。
斧が増え、耳障りな叫び声が増え、泥の跳ねる音が増える。呼吸を乱さないよう意識しているが、時間だけが確実に削られていく。
(……これじゃ、キリがないかなぁ)
判断は一瞬だった。
リネットは大きくバックステップで距離を取り、群がるゴブリンたちの“足元”へ手をかざした。
細い指先が地面に影を落とし、周囲の風が一瞬、不気味に凪ぐ。
そして、凛とした声で紡ぐ。
「風よ! 逆巻き、穿て!」
リネットの言葉が、湿った森の空気を震わせた。
次の瞬間――地面が爆ぜたようにうねった。
落ち葉と土砂が舞い上がり、ゴブリンたちの足元に巨大な竜巻が発生する。風が唸りを上げ、足首を、膝を、腰を強引に絡め取って、彼らの体勢を容赦なく崩していく。
「ギィィィ!??」
「ギャギャ!!?」
悲鳴とも絶叫ともつかない声。
手足をばたつかせても、空気そのものが強固な縄となって逃がさない。渦はさらに勢いを増し、いくつもの小さな身体を一斉に空へと放り投げた。
浮く。回る。視界が裏返る。
そして――ゴミのように放り出される。
空高く打ち上げられたゴブリンたちは、次の瞬間、重力に従って落下を始めた。
風の手を離れた途端、ただの無力な肉塊に戻る。
ドンッ、グシャッ、ゴギッ。
鈍い衝突音がいくつも重なり、土が跳ねる。
地面に叩きつけられたゴブリンたちは、呻き声すら上げる間もなく沈黙した。
地獄絵図。そう言ってしまえば簡単だ。
だが、この数を捌くにはこれしかなかった。こちらが一瞬でも手を緩めれば、その錆びた刃が自分の喉を掻っ切る。リネットは感情をスッと切り離し、残心をとる。
「っ……!」
その時だ。
背筋を舐めるような、嫌な冷たさが走った。
空気がひと息で尖る。
――明確な、殺気。
竜巻が消えた直後。風が止まり、舞っていた土埃が落ちる、その一瞬の隙を狙ってきた。
鋭い踏み込みの音がひとつ。草を裂くような擦過音。重い呼吸の圧。
背後から伸びた剣が、リネットの髪を数本撫でた。
ほんの一筋、銀色の線。あと数センチずれていれば首が落ちていたという距離で、冷たい刃が通り過ぎる。
振り返った先には、鉄の鎧を纏ったゴブリンがいた。
他の薄汚れた連中とは明らかに違う。金属板の擦れる音、手入れされた剣の光。目の前に現れたそれは、群れを統率する“上位種”だった。
「はっ!」
リネットは息を吐き切るように短く声を叩き、間合いを詰める。剣を振るう。
しかし、エリートゴブリンは――反応した。
ガキンッ、と刃が噛み合う。重い。
ただ怯えて下がるだけじゃない。こちらの間合いを読み、刃を合わせ、力で押し返してくる。
(こいつ、他のゴブリンとは違う……!)
さっきの魔法を見たからだろう。リネットに詠唱の隙を作らせまいと、獣のように距離を詰めてくる。呼吸を許さない連撃。動いた分だけ、次の圧が来る。
――だが。
リネットの本領は、魔法よりも、体術を絡めた近接戦闘にある。
一歩、バックステップ。
ほんの僅かに下がるだけで、相手の前のめりな“勢い”だけが空転する。その瞬間の空白。狙うのはそこだ。
詰め寄ってきたゴブリンの顎下へ、リネットの身体が反転した。
サマーソルトキック。
宙で美しい弧を描くように、踵が突き上がる。
風を巻き、金色の髪が舞い、視界が一瞬天地逆になる。だが当てる場所だけは、寸分狂わない。
ゴッ――鈍く、重い手応え。
顎を打ち抜かれたゴブリンは、脳を揺らされ、千鳥足によろめいた。膝が揺れ、重厚な鎧がガチャリと音を立てる。
その隙を、リネットが見逃すはずがない。
着地と同時に踏み込み、流れるように袈裟斬り。
斜めに走る一閃が、鎧の継ぎ目を正確に割り、深々と肉へ食い込んだ。
「ギ…ェエ……!」
鮮血が噴き出し、緑の草を赤く染める。
ゴブリンは剣を取り落とし、どうと地面へ倒れ伏した。喉の奥で音が潰れ、痙攣して動きが止まる。
静寂。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、森が息を吹き返す。
土埃がゆっくりと沈殿し、折れた枝がどこかで小さく軋んだ。
「よし! 討伐完了っ!」
リネットは額に浮かんだ汗を拭いながら、大きく息を吐いた。
腕はまだ熱く、心臓は早鐘を打っている。それでも、呼吸は徐々に整っていく。
その時だった。
「う、うわぁぁぁぁぁ!!!!」
森の空気を引き裂く悲鳴が、鋭い針となって耳に突き刺さった。
風に乗って伝わる震え。喉の奥から絞り出されたような、言葉の形すら保てない絶叫。
リネットの身体が、考えるより先に反応していた。
「誰か……いるの!?」
戦闘の高揚感が、一瞬で冷水に変わる。
胸の奥がきゅっと縮み、背中に氷柱を差し込まれたような緊張が走った。
何が起きているのかは分からない。
だが、あの叫びは“ただの驚き”じゃない。明確なSOS。切迫した恐怖。命の灯火が消えかける匂いがする。
リネットは汗を拭った手をそのまま剣の柄へ戻し、強く地面を蹴った。
木々の影が流れる。風を切る。
リネットは斜面へ身を投げるように、悲鳴の聞こえた方角――森の深部へと突っ込んでいった。
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