リーベンバウムの少女

渡瀬 藍兵

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14話:独立都市ルミエーラ

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 森を抜け、街道を進んだ先に待っていたのは、目が眩むような「白」だった。

   川の中州に浮かぶ、巨大な石灰岩の都市――ルミエーラ。

   陽光を弾く街並みはどこまでも白く、網の目のように張り巡らされた運河のきらめきが、建物の壁をゆらゆらと照らしている。

   風に乗って、潮の香りと絵の具の匂い、そして微かな魔力の気配が運ばれてきた。

   リネットは橋の欄干から身を乗り出し、その圧倒的な光景に息を呑んだ。そして、都市の中心で空へ突き刺さるようにそびえる、異様な質量の影を指差した。

  「コルン! あの大きい建物なに!?」

   リネットの声に、隣を歩いていたコルンは反射的に背筋を伸ばした。

   丸眼鏡の奥、塔を見上げる翡翠色の瞳が、感極まったようにわずかに震えている。

  「――あの塔は『水晶の魔導タワー』。悠久の時を生きる伝説の魔法使い、モルガナ様がいらっしゃる場所ですね」

   その声には、隠しきれない憧れと、聖地に足を踏み入れた巡礼者のような緊張が滲んでいた。

  「モルガナ??」

  「はい! 今の時代の頂点に君臨される、魔法使いの憧れとも呼べる偉大な存在なんです!」

   早口になりかけて、コルンは一つ咳払いをした。

   興奮を悟られまいとしているのか、照れ隠しに眼鏡のブリッジを直す指が、ローブの長い袖に半分隠れている。

  「へぇ……。そんなに凄い人なんだ……」

  「すごいなんて言葉だけでは表せませんよ!」

   コルンはふっと熱っぽい息を吐き、肩の力を抜いた。

   並んで歩き出してすぐ、彼は何かを思い出したように足を止めた。

  「あの塔で、モルガナ様は世界を、眺めているとされています」

  「世界を眺める?」

  「はい! 我々凡人にはモルガナ様の崇高なお考えは理解できませんが、きっと人類の為になることですよ!」

   無邪気に、一点の曇りもなくコルンは告げた。

   その純粋な信頼は、先日森で感じた不穏な空気とはあまりに乖離していて、リネットは曖昧に頷くことしかできなかった。

  「ところで……リネットさん。僕はこのまま魔法学校の方へ課題を提出してきます!」

  「そっか。私はもう少し通貨が欲しいから、ルミエーラのギルドで依頼でも受けて来ようかな」

   口にしながら、リネットは無意識に通りを行き交う人々を観察した。

   白亜の都市は優雅に見える。けれど、それだけで腹は満たせない。

   すれ違う旅人の荷の重さ、商人の視線の鋭さ――この美しい街にも、現実的な生活の匂いは確かに混じっている。宿代も食事代も、村とは比べ物にならないだろう。

  「そしたら、また夕方合流しませんか?」

   コルンは視線をフイッと不自然に逸らして言った。

   何気ない提案を装っているが、その声には裏で何度も練習してきたような硬さがある。

  「……うん、そうだね。依頼が終わったら宿で待ってるよ」

   リネットは苦笑し、少しだけ声を柔らかくして頷いた。弟に言い聞かせるような、安心感のある響きで。

  「分かりました! では僕はこのまま魔法学校の方へ行ってきます!」

   コルンは勢いよく背を向け、石畳を小走りで駆け出した――かと思えば、慌てて「賢者らしく」あろうとしたのか、急に歩調を緩めてすまし顔を作る。

   その背中は、どう見ても遠足に来た子供のそれだった。

  「気をつけてねー!」

   リネットが手を振ると、彼は一度だけ振り返り、安堵したようにへにゃりと笑って人混みへ溶けていった。

   一人残されたリネットは、喧騒の中に立ち尽くす。

   そして、都市の空に冷たく突き刺さる時計塔の影を、一度だけ流し見た。

   あの頂から世界を見下ろす視線。それが本当に「人類のため」のものなのか――今はまだ、知る由もなかった。

           ~*~*~*~

   ルミエーラのギルドに足を踏み入れると、外の華やかさとは違う熱気が肌を打った。

   白亜の美しい外観とは裏腹に、内部には生活が煮詰まったような独特の匂いがある。古紙とインク、錆びた金属、そして冒険者たちの乾いた汗。

   掲示板の前はすでに人だかりができていた。幾重にも貼られた依頼書は、行き交う人の熱気と湿気で端がよれている。

   リネットはその無数の羊皮紙の前で足を止めた。

  「さてと……」

   彼女は顎に人差し指を当て、品定めするように小首を傾げる。

  「うーむむむむむむ……」

   リネットは眉間に小さなしわを寄せ、忙しなく視線を走らせた。

   討伐か、採取か。報酬、難易度、場所――どれも代わり映えのしない並びだ。堅実に稼ぐなら薬草採取だが、今のリネットはもう少し手応えのある仕事を求めている。

   だが、惰性で滑らせていた指先が、ある一枚の前で止まった。

   『謎の魔物の追跡』

   危険、不鮮明、割に合わない。

   経験豊富な冒険者なら一瞥して避けるべき、典型的な「地雷案件」だろう。

   けれどリネットの口元は、逆に微かに緩んだ。

   正体不明の魔物――その響きが、彼女の奥底にある知識欲という火種に油を注ぐ。わからないからこそ、知りたい。見たい。

   彼女は迷いを断ち切るように、その羊皮紙をペリッと剥がした。

  「すみません。この依頼、受けたいんですけど」

   人波を縫ってカウンターへ向かい、羊皮紙を差し出す。

  「いらっしゃい! ……ええと、こちらの依頼は……」

   受付嬢の営業スマイルが、紙面に視線を落とした瞬間に凍りついた。

   顔を上げた時、その瞳には小さな曇りが混じっている。彼女は困ったように頬をかき、声を潜めた。

  「……この依頼、いわくつきでして。本当に大丈夫ですか?」

  「はい」

   リネットは即答した。

   その声に恐怖はない。あるのは、未知への純粋な好奇心だけだ。

  「受ける前に、情報を貰えますか?」

  「もちろんです」

   受付嬢はそこで一拍、言葉を詰まらせた。

   それは言葉を選んでいるというより、喉まで出かかった「警告」を無理やり飲み込むような、重い沈黙だった。

  「文字通り……とある魔物の追跡になります。最近、街の付近で襲撃事件が多発していまして」

   努めて明るく振る舞おうとする彼女の笑顔は、どこか引きつっている。

   彼女は引き出しから書類の束を取り出した。

  「目撃情報から、ギルドではこの魔物を『ベルゼヴォルフ』と命名しました」

  「ベルゼヴォルフ……悪魔狼、ですか。随分と物騒な名前ですね。発生時刻は?」

  「決まって夜です。場所は、街外れの森に限られていますよ」

   受付嬢は書類を指でなぞりながら、さらに声を低くした。

  「被害者は四名。ですが……現場からは魔物の痕跡が全くと言っていいほど見つからないのですよね……」

   リネットの目が、スッと細められる。

  「痕跡を消す魔物、ということですか……?」

  「はい。ギルドもお手上げ状態でして……」

   リネットは顎に手を当てた。

   痕跡を隠すほどの知能犯か、あるいは未知の新種か。村での教えが、脳内で警鐘を鳴らし始める。

  「でしたら一度、私が現地を見てきます」

   リネットが告げると、受付嬢はバッと背筋を正した。仕事の顔でありながら、そこには戦場へ赴く者への、祈りに似た真剣さが混じっていた。

  「はい! お気をつけて!」

   深く下げられた頭から、控えめな香油の匂いがふわりと漂った。

  「ありがと! いってきます」

   リネットは片手を上げて応え、重厚な扉を押し開ける。

   蝶番が軋んだ音と共に、外の眩しい光が射し込んだ。

   一歩踏み出すと、空気がガラリと変わる。

   肺を満たすのは、紙とインクの淀んだ空気ではなく、石畳の熱を含んだ生きた風だ。遠くの馬車の音、屋台の香ばしい匂いが、ギルドでまとわりついた緊張感を背中から剥がしていく。

  「んんんんん~っ……!」

   リネットは両腕を突き上げ、思い切り伸びをした。

   肩甲骨が寄る心地よい痛みと共に、胸の奥の靄が晴れていく。

  「さて。何事も調査してみないとね!」

   独り言は軽く、けれどその足取りに迷いはない。

   カツ、カツ、と乾いた靴音が、一定のリズムで石畳を叩き始める。

   視線は前へ。呼吸は深く。

   調査は足で稼ぐものだ。目で見て、鼻で嗅ぎ、違和感を拾う――彼女の中で、狩人のスイッチが静かに入った。

           ~*~*~*~

   受付嬢に教えられた《森》へ足を踏み入れる。

   街道から一歩逸れるだけで、世界が切り替わったようだった。

   喧騒は遠ざかり、代わりに葉擦れの音と、湿った土の匂いが鼻腔を満たす。頭上の枝葉は陽光を細かく砕き、森の奥を薄い翡翠色に染めていた。

  (ここで、被害者が襲われた……と)

   話では四人も被害が出ている。だが、目の前の光景はあまりに整いすぎていた。

   リネットは足を止め、呼吸を深く落とす。視線を地面へ――狩人の目線に切り替えた。

   踏み固められた土の凹凸、草の倒れ方、小枝の折れ方。

   足跡を探すのではない。風景の中に潜む微細な「違和感」を拾う作業だ。

   彼女は慎重に歩き出した。

   苔を踏めば音は吸われ、枯葉を踏めば乾いた囁きが返る。その微かな音すら聞き逃さないよう、神経を極限まで研ぎ澄ませて進む。

   ――それから数十分。

   木立を巡り、草の根元まで覗き込んだが、成果はゼロだった。

   獣の痕跡どころか、人の足跡さえ見当たらない。

  (……ない。綺麗すぎる)

   雨が降ったわけでも、地面が乾ききっているわけでもない。土は程よく湿り、本来なら最も痕跡が残りやすい状態だ。

   「誰も来ていない」のではない。まるで誰かが、森ごと雑巾がけをしたように**「痕跡が消え失せて」**いる。

   リネットは立ち止まり、腕を組んだ。

  「……? 本当に、そんな魔物がいるの?」

   漏れ出た言葉は疑いだったが、声色は妙に冷静だった。

   木々は静かに揺れ、木漏れ日が優しく地面を撫でている。

   この森はあまりに平穏で――だからこそ、嘘くさいほどの不気味さを孕んでいた。
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