幽霊屋敷の人魚姫

三糸タルト

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人魚

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人魚の血を引く女は、
必ず愚かな恋をする。


この街に古くから伝わる言い伝えだ。
その言い伝えの通り、レナという人魚の系譜の女は身分違いの恋をし、身籠り、そして1人の女児を産み落とした。

それがユラである。

レナは産後の肥立ちが悪く程なくして死んで泡になり、小さなユラは生物学上の父であるジドラー侯爵の元に引き取られることになった。
ユラは孤児の召し使いと言うことになっていたが、ジドラー侯爵の娘であることは公然の秘密であった。
ユラの待遇は他の召し使いよりも幾分か良く、ジドラー侯爵も彼女の母の面影を持ったユラを密かに可愛がったが、ユラにはふたつ許されていないことがある。
まずは髪の毛を長く伸ばさないこと。女の髪には魔力が宿ると信じられていて、人魚なら尚更だった。だからユラが人間を誑かさないようにといつも肩のところで短く切られていた。
そしてもうひとつは、屋敷の外はおろか、洗濯部屋と自分の小さな部屋の往復以外を一切禁じられていたのだ。

誰かと愚かな恋をしないように…と。

だから、ユラはジドラー侯爵以外の男性と会話したことさえない。

そんなユラが20歳になった年のことである。
ユラはひとり部屋でジドラー侯爵のくれた神の教えの書かれている聖書を読んでいた。
この本によると人魚やケンタウロスなどの生き物には魂がないと言う。

4分の1は人魚のユラの魂は、いびつに欠けているのだろうか?

そう首をかしげていると、庭から女性の金切り声が聞こえたので格子のついた窓からそっと外を覗いた。
声の主はジドラー侯爵の本妻だ。

「あなた…あの娘をなんとかしてください…!」

ジドラー侯爵夫人は決してユラの名前を呼ばない。夫の隠し子を虐めない心の広い奥様だが、普段はユラを存在を空気のように扱っていた。
そんな夫人がとても珍しいことにユラの話題を口にしていたのだ。

「あの娘はあの窓からこそこそとトマスを誘惑しております…!もうどこかへやってしまってください!」

夫人が勢い良くこちらを向いたのでさっと隠れて聞き耳だけを立さてる。
トマスとはジドラー侯爵と夫人の一人息子で、ユラの母親違いの弟だ。

「それにトマスのハンカチーフに勝手に刺繍をいれたり…我慢の限界ですわ!」

トマスと交遊を始めたのは3年前、彼が15歳の頃からだ。
幽霊のように不確かな、使用人の噂の上にのみ存在する姉をどうしても見てみたくなったトマスはどうにか居場所を突き止め、その窓を覗いた。
そこにいたのは、真っ黒な髪に異様に白い肌、深海のように暗い青の瞳を持ったお化けのような少女だった。
目が合った瞬間、彼は怖気づき走って逃げた。
しかしそれ以降、トマスは時々砂糖菓子を投げ込んだり、野山で花を摘んで窓辺に置いておていったりしてくれた。
外に出ることを禁じられているユラにとって花の贈り物はとても嬉しかったので、何も出来ないがせめてものお礼にと彼のハンカチに花の刺繍をした。
窓越しに目が合うと、こっそり手を振り合ったりした。
そんなささやかな、会話もない姉弟の戯れでさえ夫人には淫靡な不安を抱かせてしまったらしい。

(人魚が相手じゃその心配も当然か…)

彼に憧れていた気持ちはある。
ジドラー侯爵似の輝く金髪に、夫人似の整った顔立ち、明るいグリーンの瞳、太陽をたっぷり浴びた健康的な身体、ユラの持っていないものばかりだ。
好感は抱いていたが、飽くまで弟としてだ。
ユラが可愛い弟の笑顔を思い浮かべていたところで、ジドラー侯爵は夫人に衝撃的な返答をした。

「そうか…わかった。ではユラは嫁に出してしまおう」

思わず手に持っていた聖書を落とし、ドサリという音が鳴り響いた。

「相手を探すから、少しの間待っていておくれ」

「なるべく早くしてくださいましね…」

ユラは床に落ちた本を広いながら考える。
夫人はユラを売春小屋に売り飛ばさんばかりの勢いだった。それを察したジドラー侯爵が夫人が納得し、ユラも守る落としどころを瞬時に見つけたのではないか。
父と呼ぶわけにはいかない父の気遣いに、ユラは感謝した。

思えば、ユラは20年間、格子窓のついたこの部屋と洗濯以外は味気ない本の黒い文字でしか世界を知らなかった。
この家を出て、どこかに嫁ぎ、外の世界を見られると思うと少しわくわくする。
ユラは案外前向きな人間なのだ。

どうせ恋などはするべきでないのだから、相手はせめて私を虐めない殿方でありますよう。

ユラはそう祈った。
しかし拍子抜けすることに、その後婚姻に関する音沙汰は一切なかった。
思えば当然で、ユラは10代を過ぎていて条件結婚にはやや年を取りすぎているし、表面上はただの召し使いで、その上人魚の末裔だ。
加えてジドラー侯爵が親心から、少しでも良い相手と…と選り好みをしているとすると相手なんて見つかる訳もない。

ついにジドラー侯爵から結婚の話が出たのは、庭での会話から丸々1年経った頃だった。
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