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第一章

旦那様、距離が遠すぎます!

 大広間の食卓には、静寂せいじゃくが支配していた。

 聞こえるのは、銀のフォークが皿に触れる控えめな音と、遠くで吹き抜ける微かな風の音だけ。

 縦に非常に長いテーブルの先、はるか遠くに座る旦那様――カイルの姿が見える。だが、その顔は遠すぎてぼやけ、まるで一枚の絵画の中に閉じ込められた人物のようだ。

(遠い……遠すぎる……!)

 淡いすみれ色のドレスをまとったコーデリアは、手元のカップをそっと持ち上げながら心の中で呟いた。

 口に含んだ紅茶の柔らかな香りとともに視線をそっと送るが、その長すぎるテーブルは、彼女のささやかな希望すら嘲笑うかのように広がっている。遠くのカイルの姿は、まるで地平線の先の山並みを眺めるかのような距離感だ。

「奥様、お食事はお口に合いましたでしょうか?」

 執事のアルマーが一歩後ろに控えたまま、穏やかな声で尋ねた。その顔は丁寧そのものだが、瞳の奥には一抹いちまつの驚きがうかがえる。

「ええ、とても美味しかったわ。こんなにおいしいお食事は人生で初めてよ。ライグリッサ家の料理人の腕はこの王国一ね」

 コーデリアは満面の笑みを浮かべながら、心からの感謝を込めて答えた。だがその瞬間、アルマーの唇が一瞬だけ微妙に引きつるのを見逃さなかった。

(……やっぱり、ちょっと食べすぎちゃったかしら?)

 お腹が出るほどには食べていないが、ふと気になってコーデリアは自分のドレスの腹部に目を落とした。

 このドレスについて語るには少々時を戻さねばならない。





 ****





 数刻前――。

 淡い菫色のドレスは、シンプルながらも上品で、鏡を見ながら体に合わせてみても、違和感なく着こなせそうだった。

 合うサイズのドレスがないと愕然がくぜんとしているコーデリアをおもんばかって、マートルをはじめとした女性陣が屋敷中の衣装棚をあさってくれたおかげの産物だった。

 傷だらけの肌の上に、真新しいシミーズ姿のコーデリアは、背後で当惑したような表情で悩んでいるイェニーの様子が気になり、声をかけた。

「イェニーが持ってきてくれたドレス、サイズもぴったりね。ありがとう、助かったわ」

 ちらりと視線を投げると、寝台の上に放置されたままの二色のドレスが目に入った。少なくとも、あんな色の、体に合わないドレスを着るよりは、彼女が持って来てくれたこの菫色のドレスの方が何倍もマシ。

 ――というか、むしろ絶対にいいにきまっていた。

 だが、イェニーは表情をくもらせっぱなしで、どこか申し訳なさそうに言葉を濁す。

「あの……」
「何か気になることでも?」

 不思議そうに尋ねると、横にいたオレンジ色の髪をしたキャリーンが、あまりに率直な一言を吐き捨てるように言った。

「旦那様の元婚約者のお嬢様が置いて行ったドレスですよ、それ」
「ちょっ! キャリーン!」

 赤毛のミレッタが憤慨ふんがいして、キャリーンの肩を揺さぶるが、コーデリアはむしろ笑顔を浮かべた。

「へぇ、そうなの?」

 ぱちくりと目を見開き、もう一度菫色のドレスを見やる。

 ひと目で上質だとわかる、品のよいドレスは、装飾が少ないにもかかわらず、とても優美且つ上品なデザインで、楚々とした華やかさをまとっている。しかもかなりだ。

(着るものがなくて困っていたけれど、これなら晩餐ばんさんの席に出ても失礼にはなりそうにないわね)

 せめて義母が支度品をほんの少しでも渡してくれていたら、どこかの街で一着でもドレスを手に入れられたのに、とふと思っていると、コーデリアはとんでもない事実に気づいてしまった。

(――しまった。持ってきたドレスを全部売っていたら、一着くらいは買えたはずだったわ)

 どうして今までこんな簡単なことに気づかなかったのだろう、と自己嫌悪にかられて頭を抱えたくなる。

「あの、やはり、お持ちになったドレスの方が……」
「イェニー、あのドレス、どこから見ても最悪にセンスが悪いわよ。いったいどうして、こんなへんてこなドレスを持って嫁入りしたのか、全く理解できないくらいわ」
「キャリーン!!」

 悲鳴を上げて、さらにミレッタがキャリーンの体を揺さぶるが、コーデリアは苦笑するしかない。

 全くもって彼女の言うとおりだし、キャリーンは「正直に」感想を述べているだけで、コーデリアに対して悪意があるわけではないことがわかる。

 思ったことがそのまま口に出てしまう、直情的な性格の人なのだろう。

 その証拠に、口を尖らせながら忌々しそうにドレスだけを睨んでいる。

 最初に部屋に入った時から、彼女がコーデリアを嫌っていないことがひと目でわかったし、真面目な性格だということも理解できた。

「大丈夫。私はまったく気にしないから。せっかくあるものだし、お借りしましょう」

 そのあっけらかんとした返答に、彼女たちはそろってぽかんとした表情を浮かべた。





 *****





 彼女たちのおかげで、無事に晩餐の席に出席することができ、心ゆくまで美味しい料理を堪能することができた。

 コーデリアは感謝の気持ちでいっぱいだった。

(こんなにおいしい食事をいただけるなんて、それだけでもここに来てよかったと思えるわ)

 父が病に倒れ、王都の病院に入院してから数年。

 使用人同然の扱いを受けてきたコーデリアの日々の食事は、具のないスープと固くなったパンだけだった。

 とはいえ、成長に必要な栄養が足りていないことは理解していたので、ヴェルグーザの指南を受け、森で獣を捕え、川で魚を取ってはさばき、塩を振って食べたり、薬草や野菜を煮込んで食事にしたりしていた。

 義母や義妹は栄養失調でコーデリアが死亡、もしくは衰弱することを期待していたようだが、ご要望にお応えできず申し訳ない限りである。

(自分でも料理の仕方を教えてもらって、あれこれできるようにはなったけど、プロにはかなわないわ)

 コーデリアは先ほど饗された食事の内容を思い出し、ほう、とため息をつく。

(あのパリパリに焼けた鳥肉のジューシーさ、完璧な塩加減の濃厚なソース。丹念に作られたスープに沈められた柔らかなお肉が、口に入れるとほろほろと崩れて、至福以外の何物でもなかったわ)

 ああ、できることなら、あと五皿くらいおかわりをしたい、と心の中で続けようとした時、斜め後ろに控えていた影がゆらりと動く。

「奥様、紅茶のお代わりをご用意いたします」

 アルマーが慣れた手つきで、紅茶を新たに注いでくれた。

 コーデリアは短く礼を述べた後、再び温かな紅茶を口に運ぶ。

 カップから漂う香ばしい茶葉の香りと、ほんのりとした甘みが、舌の上で溶けていく。

 心地よいひとときに、ふっと気持ちが軽くなった。

 そういえばカイルは今、何を考えているのだろう。

 ふと視線を巡らせると、遠く離れた席に、穴熊のような大柄な体躯がちんまりと納まっているのが、なんとも可笑しくて、コーデリアの唇は自然と綻んだ。

(……旦那様、なんだか愛嬌あいきょうがあるわね)

 彼の漆黒の前髪が、時折ちらりと紫色の美しい目元を隠す。

 まるで遊びのように度々視線を送ってくるのだ。

 だが、こちらが顔を向けると、タイミングを見計らったかのようにすいっと逸らされるか、「見ていませんよ」というようにそっぽを向かれるのだった。

 その仕草が、なんだか子供じみていて可愛らしい。

「閣下!」

 フェンネルの声に目を瞠ると、カイルの大きな体が椅子の背もたれに僅かに傾き、喉を詰まらせたようにゴホゴホと咳き込んでいるではないか。

 フェンネルが慌てて駆け寄り、大きな手でバシバシとその背を叩き始めた。

(フェンネル、何かあったのかしら……顔が腫れてる。まるで蜂に刺されたみたいに……)

 その腫れぼったい顔にコーデリアの目が留まる。彼女は少し眉をひそめながら、心の中で後ほど治癒薬を渡すべきかと思案していると、遠くの正面の椅子でようやく呼吸を取り戻した旦那様が渋い顔で片手を上げている。

 そんな様子を目の端に捉えながら、コーデリアはカップの中の紅茶をゆったりと飲み干す。

 その優雅な仕草と穏やかな表情が、食卓に再び静けさを取り戻させたかのようだった。
  
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