上 下
7 / 22
本章

5

しおりを挟む
月曜日、向日葵畑を教えてくれたお礼を言わないとなあ、と思いながら昇降口で靴を履き替えていると、「おはよう~」とちょうど頭の中で思い浮かべていた人の声が聞こえた。

「友梨ちゃん、おはよう、……ってなんだか眠そうだね?」

「うん、昨日遅くまでドラマ観ていてさ~、すっかり寝不足だよ」

憧れている女優さん(名前を知らないと言ったら、すごく驚かれた)目当てで見始めたというドラマの話を聞きながら教室へ向かう。サスペンスドラマらしく、至る所に伏線が散りばめられていて、見れば見るほどハマってしまうらしい。しばらくドラマに関する熱弁が続き、向日葵畑に行ってきた、と報告できたのは、朝礼の予鈴が鳴る数分前だった。

「へえ、行ってきたんだ。どうだった?」

「すごく綺麗だった。いっぱい写真撮ってきたよ」

昨日何度も見返した写真を友梨ちゃんに見せる。

「わー、綺麗だね! 私たちが行った時よりも満開だ」

「そうかも。とっても綺麗だった」

「いいなあ、誰と行ってきたの? 前の学校の友達?」

「えっと……」

言ってもいいのかな。
私と二人で出かけたことが周囲に知られたら、嫌な思いをしないかな。

チラッと彼の席を見ると、私たちが教室に入ったときはまだ来ていなかったのに、いつの間にか席に座っている。

「もしかして、高橋くん?」

「え!?」

「高橋くんと行ってきたの?」

「……うん、そう」

少しだけためらいながらも頷く。
そもそも向日葵畑の存在を教えてくれたのは友梨ちゃんだ。その友梨ちゃんに隠し事や嘘をつくのには罪悪感をおぼえた。

「そうなんだー! やっぱり涼音ちゃんはさ、」

友梨ちゃんが何かを聞きかけたとき、予鈴と共に担任の先生が「おはよう」と教室に入ってきた。

「ねえ、今日の放課後あいてる?」

友梨ちゃんは顔だけ横を向けて、ちらりと私を見た。

「放課後?」

「うん、空いてたらカフェ行かない?」

恋バナしようよ、と友梨ちゃんはニヤリと笑った。

「私、話せるような恋の話持ってないけどいい?」

「えー、絶対そんなことないでしょ」

「本当だって」

担任の先生の話が始まり、友梨ちゃんは前を向く。彼女の背中に「でもカフェは行きたい」とこっそり伝えると、友梨ちゃんはピースサインで応えてくれた。



「職員会議があるから」といつもよりもずっとあっさり終礼が終わった。「ラッキー」と笑う友梨ちゃんと一緒に学校を出ると、容赦なく太陽の日差しが照りつける。薄々気づいていたけれど、こっちの世界の方が一日を通してずっと気温が高い気がする。

「暑いねえ……」

「そうだね、今日もいい天気だね」

バテ気味の私とは違い、慣れているのか、友梨ちゃんは元気に笑った。

カフェに着くと、友梨ちゃんは迷うことなく「フレッシュフルーツを使ったミックスジュース」を注文した。

「涼音ちゃんも同じのにする? ここのミックスジュース、本当に美味しいよ」

「そうなんだ。それなら私もミックスジュースください」

淡いアイボリーの色をしたミックスジュースをカウンターで受け取ると、私たちは店内の奥に移動した。店の中はとても広くて、それなりに人はいるのに、席はたくさん空いている。私たちは窓際の4人がけの席に座った。

「飲んでみて。美味しいから」

友梨ちゃんに促されるまま飲むと、確かにすごく美味しかった。濃厚だけれど甘すぎず、後味はさっぱりしている。

「夏になるとこれ飲みたくなるんだよね~」という友梨ちゃんの言葉に、心の底から同意できた。

「それで、どうして高橋くんと一緒に出かけたの?」

数口ミックスジュースを堪能した友梨ちゃんが口を開く。学校の近くにあるからか、店内には同じ制服を着た生徒たちがちらほらといる。気遣ってくれたのか、友梨ちゃんの声はいつもより少し小さかった。ただ、瞳は輝いていて、”興味深々”といった様子だ。

「高橋くんと、元々知り合いだったわけじゃないよね?」

「うん」

高橋くんがピアノを弾いていたことを伝えようとした時、なぜか少しだけ「話したくない」と思ってしまった。自分だけが知っていたことなのに、と思ってしまった。

どうしてだろう。
こんな感情、今まで誰にも抱いたことないのにな。

急に湧き出てきた感情に戸惑いためらいながらも、あまり言わないで欲しいんだけど、と前置きをしてから、転入してきた日に彼のピアノの演奏を偶然聴いて、その演奏にすっかり惚れてしまったことを話した。演奏を聴いているうちに彼のことも少しずつ気になってきて、彼のことがもっと知りたくて遊びに誘った、ということも。

「そうだったんだ。それで? 楽しかった?」

友梨ちゃんは両肘をテーブルについて前のめりになった。

「楽しかったよ、とても。でもね、なんていうのかな……もちろん楽しかったんだけど、それ以上に、好きだった。高橋くんと一緒にいる時間が」

「好き?」

「うん。高橋くんといる時間って、とても穏やかなの。正直すごく楽しいとかワクワクするとかじゃなかったんだけど、一緒にお弁当を食べたり海を眺めて話したり、本当になんてことない時間が穏やかで落ち着いていて、居心地がよかったんだ」

上手く言語化できなかったけれど、友梨ちゃんは「ああ、なんとなくわかるかも、その感じ」と頷いた。

「私もね、阿部くんと学校帰りに電車で話したり、ちょっと公園に寄って話したりすると、『幸せだなあ』ってしみじみ思うもん。そんな感じじゃない?」

「そうそう、何か特別なことをしなくても、一緒にいるだけで心地が良いっていうか」

「だよねえ。やっぱりわかるよ、その感じ」

友梨ちゃんは大きく頷いた後、「でも頑張らなきゃね?」と私の顔を覗き込んだ。「何を?」と聞き返すと、友梨ちゃんは何を今更、といった様子で「気になっているんでしょ、高橋くんのこと」と続けた。

「高橋くん、聾学校に行くまでの1ヶ月しか学校にいないんだよ? 転校しちゃう前に仲良くならないと」

「……1ヶ月」

”1ヶ月”という期間が、やたらリアルに感じた。それはきっと”高橋くん”が1ヶ月しか学校にいないからではなくて、”私”が1ヶ月しかこの世界にいないから。1ヶ月後、元の世界に戻ったら、もう高橋くんは、私のことを。



「別に、異性として気になっているんじゃないよ。人として気になっているだけ」

何か特別な感情を抱いたって仕方がない。1ヶ月後には、彼の目の前から、頭の中から、消えてしまうんだから。

「へえ? 本当に??」

「そんなことより、友梨ちゃんはどうして阿部くんのことを好きになったの?」

「えー、改めて聞かれるとなんだか恥ずかしいんだけど」

友梨ちゃんは、ほんのりと赤く染まった頬を両手で包む。

「高校1年生の6月末にね、電車の中で体調が悪くなったの。中学の時は家から学校まで歩いて通っていたから電車に乗り慣れていなくて普段から電車酔いしやすかったんだけど、その日は大雨で蒸し暑かったからかな、いつもなら酔っても耐えられるのに、その日は冷や汗が出た上に目まで回っちゃって、立っているのがとても辛くなったの」

友梨ちゃんは目の前にあるジュースに手を伸ばすと、ゆっくり口に運んだ。

「座りたかったんだけど、満員電車で身動きすることもできないし、周りに知っている人もいないから助けも求められないし。でも本当に立っているのが辛いし『どうしよう』ってパニックになりかけた時、阿部くんがね、人の間を縫ってそばに来て、声をかけてくれたの。『顔色が悪いけれど大丈夫ですか?』って」

「阿部くんはその時友梨ちゃんのこと知っていたの?」

「ううん、知らなかったみたい。お互い制服を着ていたから、同じ学校に通っていることはわかったみたいなんだけど」

「優しいね、阿部くん」

「本当に優しいよね。いくら体調が悪そうに見えても、知らない人に、その上満員電車で移動しにくいのに、なかなか声かけられないよね?」

それで、と友梨ちゃんは続けた。

「荷物を持ってくれて、『辛かったら寄りかかってください』って言ってくれたの。それで、降りる予定だった学校の最寄駅はまだ先だったんだけど、次に停車した駅で一緒に降りてくれて、近くにある薬局でスポーツドリンクと酔い止めを買ってきてくれたの。少しして、薬も効いてきたからか気分はマシになったし、何より遅刻しそうだったから、お礼を伝えて『もう行ってください』って言ったんだけど、結局その後も私の調子が戻るまで一緒にいてくれたの」

「じゃあ阿部くんも遅刻したの?」

「そう。『どうせ一限目は嫌いな英語だから』って言っていたけれど、期末試験も近かったし、本当は気遣って言ってくれたんだと思う」

「阿部くん、素敵すぎるよ……」

素直な感想を伝えると、友梨ちゃんは「そうでしょ」と嬉しそうに笑う。

「その一件で、すっかり阿部くんのこと好きになっちゃったの」

「そりゃ好きになっちゃうよね。そんな王子様みたいな人」

「あ、涼音ちゃん、阿部くんに惚れたらダメだよ?」

『親友の好きな人を奪うとか、最低だね』

友梨ちゃんの冗談めかした言葉が耳に届いた時、一瞬にして、過去に投げつけられた言葉が頭の中に蘇った。

「……人の好きな人、奪いそうに見える?」

「え?」

「私、友達の好きな人、奪いそうに見える?」

「……涼音ちゃん? どうしたの?」

「私、そんなこと、」

顔を上げて友梨ちゃんと目が合う。
彼女の瞳が揺れたのをみて、ハッと我に返った。



「ごめん、私……」

「ううん、私もごめん、冗談が過ぎたよね」

「違うの、私……」

友梨ちゃんが本気で言ったわけじゃないことはわかっていた。
わかっていたけれど……。

「あー、阿部くんのことが好き過ぎて、本気に聞こえちゃったかも」

友梨ちゃんがおどけた言葉で、二人の間に流れたなんとも言えない空気を追い払う。

「阿部くん、ちょっと無愛想だけど、それが逆にクールでかっこいいっていうか。実は女子の中でも『隠れイケメン』って人気だからさ。もう心配で心配で」

「……でも相手が友梨ちゃんだもん。たとえ他の女の子に言い寄られても、阿部くん、きっとなびかないよ」

「そうかなあ。そうだといいんだけど」

その後も、友梨ちゃんは明るくてお喋りで、ずっと普段通りだった。
私が重たい雰囲気を作ったのに、そのことに腹を立てたり不機嫌になるのではなく、その雰囲気を壊して、いつも通りの態度で接してくれた。

心の中ではどう思っていたかはわからないけれど、ただ間違いなく言えることは、この時間は彼女の包容力と明るさに救われたということだった。



それから二時間少し話をして、私たちはカフェを出た。
カフェに来た時は真っ青だった空が、群青色に染まり始めていた。

「また明日学校でね?」

「うん、今日はありがと」

私が住んでいる所と友梨ちゃんの家は、カフェの駅を挟んで正反対の方向にある。改札口で手を振って別れ、一人でホームに着いた瞬間、忘れかけていた自己嫌悪感がドッと押し寄せてきた。

どうしてあんなこと、言っちゃったのかな……。
友梨ちゃんが私を「人の好きな人を横取りする人だ」と思うような人じゃないことはわかっていたはずなのに。そんなことを思う人じゃないことが知っていたはずなのに。

転校していた初日から、フレンドリーに話しかけてくれた友梨ちゃん。
他に仲の良い友達もいるのに、何かと気にかけて、一緒にいてくれる友梨ちゃん。
友梨ちゃんは阿部くんのことを「気遣いができる優しい人だ」って言っていたけれど、それは友梨ちゃんだって同じだ。

「ああ、もう、嫌だな」

あんな言い方、友梨ちゃんの発言に怒ったみたいだ。

友梨ちゃん、気にしていないかな。
明日からも、今まで通り変わらず接してくれるかな。

ホームに滑り込んできた電車に乗り、座席の前に立つ。
視線を落とすと、同じ高校生だろうか、制服を着た男の子がうつらうつらとしている。光にあたって、ほのかに茶色に染まった髪の毛が、彼を思い出させた。そして思ってしまった。

高橋くんに、会いたい。

スマートフォンを操作して、SNSの連絡帳を開く。登録している人数は少ないから、高橋くんの名前はすぐに見つかった。

【今、何しているの?】

送信ボタンを押そうとした時、このメッセージを送ってどうするんだ、と頭の中で疑問が浮かんだ。

私と高橋くんはただのクラスメートだ。会うには理由がいる。
その上、この時間に会うのなら、それなりの理由がいるだろう。

会いたい。
でも、理由がない。

友梨ちゃんに嫌な態度をとってしまった。嫌われてしまったかもしれない。
自分に優しくしてくれた人に嫌なことを言ってしまった。自分のことが嫌いで、消えてしまいたい。

これは”それなりの理由”なのだろうか。

もうすぐ乗り換えの駅に到着することを知らせるアナウンスが車内に流れる。
ため息をつきながら打ったメッセージを消して、スマートフォンの画面を閉じた。

電車を降りて、乗り換えのために隣のホームへのろのろと歩く。もう一度大きなため息をついて電車を待つ列の最後尾に並んだ時、左肩を叩かれた。



「高橋、くん……」


会いたいと思った時に現われてくれる、こんな偶然、あるのだろうか。

驚きで固まる私とは反対に、肩を叩いた本人はにっこりと笑っている。
その笑顔を見た瞬間、急に胸が詰まった。

【今学校の帰り?】

見せられた画面に書かれている文字が滲む。
うん、と頷いたのと、目から涙がこぼれ落ちたのは同時だった。

高橋くんは急に泣いた私を見て、わかりやすく動揺した。

「ごめん……」

頬に流れる涙を右手の甲で慌てて拭う。

【どうかした? 大丈夫?】

コクコクと浅く何度か首を縦にふる。
あまりに心配そうな表情を浮かべるものだから、【大丈夫】と返す。

【今日、ちょっと辛いことがあったの。なんだか高橋くんに会いたいなって思っていたから……会えて気が緩んじゃったのかな。ごめんね、急に泣いちゃって】

返事を読み終えると、高橋くんは私を真っ直ぐ見つめる。その目には、ありありと心配の色が浮かんでいた。

とりあえず涙を引っ込めようと何度か大きく深呼吸をした時、

【泉本さんの家は門限ある?】

【門限?】

【うん。もし遅くなってもいいなら、明後日約束をしていたアイスクリーム、今から食べに行かない?しんどい時は甘いものを食べたら元気になるよ】
しおりを挟む

処理中です...