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本章

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次の日も、友梨ちゃんと高橋くんは休み時間になるとよく話していた。お昼休みの時に加菜ちゃんが「昨日から高橋くんとよく話しているけれど、何を話しているの?」とたまたま聞いてくれたけれど、友梨ちゃんは「特になにも。世間話だよ」と答えた。加菜ちゃんがその質問をしたことで、二人の距離が縮まっていることは私の気のせいではないようだった。

久しぶりに降っている雨のせいなのか、それとも別のことが原因なのか、なんだか今日は全く気分が晴れない。放課後、終礼が終わると同時にそそくさ教室を出ようとした時、高橋くんに強く手首を掴まれた。

【ごめん、急いでた?】

首を横に振ると、高橋くんは安堵の息をついた。

【今週末、どちらか空いていない? 土曜日か日曜日】

カバンの中からスマートフォンを取り出し、【どうして?】と入力する。

【行きたい場所があるんだ、泉本さんと】

【私と?】

【うん】

一瞬にして脳裏に友梨ちゃんの笑顔がパッと浮かんでは、ゆっくりと消えていく。

”友梨ちゃんとじゃなくて?”と聞きそうになってしまった自分に、心の中でため息をつく。

【都合、どうかな】

【日曜日なら大丈夫だよ】

【本当? よかった】

高橋くんは控えめに口角をあげると、【待ち合わせの場所と時間、また連絡するね】とスマートフォンを振った。



「はー、今日に限ってノート提出させる先生、多いな」

昨日から降り続けている雨を横目で見ながら、日直の責務として職員室までノートを運ぶ。この学校では席順で二人ずつ日直をすることになっているらしく、私にとっては初めての日直が回ってきた。一緒に日直となった前の席の阿部くんは、私の倍以上の量を軽々と運びながらため息をついた。

「休み時間は寝たいんだけどな」

「……ごめんね、ノート運びを手伝ってもらっちゃって」

「どうして泉本が謝るんだよ。俺だって日直なんだから」

変なの、と阿部くんは苦笑する。

無事ノートを運び終えて職員室を出ようとした時、私たちの姿を見つけた担任の先生に呼び止められる。

「ごめんだけど、この課題ノート、教室に運んでおいて」

「わかりました」と答えた私とは反対に、阿部くんは黙ったままノートの束を手に取る。先生はそんな阿部くんの態度になれているのか、何かいうこともなく「ありがとう」とにこやかに笑った。

「阿部くん、半分持つよ」

「いいよ、大して重くもないし」

軽やかに歩く阿部くんに続いて教室を目指す。ほぼ毎日朝練と放課後練があり、部活がかなり忙しいらしい阿部くんは、教室で過ごす休み時間は寝ていることが多い。だから正直に言うと、これほど日直の仕事をしてくれるのは意外だった。こんな失礼なこと、絶対本人には言えないけれど。

教室に入ると、また友梨ちゃんと高橋くんは話していた。友梨ちゃんは私の姿を見てニコッと笑い、手を上げようとしたのが見える。でも私は反射的に視線を逸らしてしまった。

一気に疲れが押し寄せてきた。椅子に座って深くため息をつく。さりげなく彼女たちの方を見ると、ちょうど友梨ちゃんが教室を出ていくところだった。

「あの、阿部くん」

控えめな声で呼びかける。もしかしたら聞こえなかったかもしれない。そうだったら呼びかけたことは無しにしよう。心の中で勝手に誓いを固めた時、「なに」とお世辞にも愛想が良いとは言えない声が返ってきた。


「聞きたいことがあるんだけど、いい?」

「『ダメだ』って言ったら聞かないわけ?」

「……諦める」

私の答えに、阿部くんは「冗談だって」と振り向いた。

「阿部くんは、嫉妬とかしますか?」

「嫉妬?」

切長の目をまんまるにする。よほど私の質問が予想外だったのだろう。

「しない」

「ですよね……」

そんな気がしていた。

それは友梨ちゃんへの思いが軽そうとか真剣じゃなさそうとかではなく、彼の言動や態度から、彼がまっすぐな性格であることには気づいていた。そもそも友梨ちゃんが自分以外の誰かに”好意”のベクトルを向けることを考えたことがなさそうな気がする。

「何、誰かに嫉妬でもしてんの?」

「いや、うーん……嫉妬かわからなくて。だから嫉妬したことがあるのなら、これが嫉妬か教えてもらおうかなと」

「そんなの俺じゃなくて石川に聞けばいいじゃん。恋愛話は絶対俺より石川の方が向いてんだから」

「……ですよね」

阿部くんの言う通りだった。ただ友梨ちゃんには聞けない。だって、もしこの感情が、その所謂”嫉妬”と呼ばれるものだったら、その嫉妬している相手は友梨ちゃんなのだから。相談して「誰に嫉妬しているの?」と聞かれたらうまく誤魔化すことができる自信がない。ましてや「あなたに」とは言いにくい。

「石川には内緒の話なの?」

「え?」

「お前ら仲良いじゃん。石川には離さずに俺に相談するってことは、石川には話せないことなのかと思ったけれど」

「……そんなことは」

ない、とも否定できず、かといって肯定することもできず、ただ黙る。阿部くんは察しがいいのか、それ以上何かを探るわけでもなく、前を向いた。



二人が親しげに話している姿を見ると、心がモヤモヤしてしまう。だから極力、二人が一緒に笑い合っている姿を視界に入れないようにした。同じ空間にいながら見ないようにすることはなかなか難しく気疲れもしたけれど、二人を見て心が不安定になってしまう方が辛かった。

阿部くんに「やっぱり石川と喧嘩したの?」と聞かれたのは、翌日、彼が朝練を終えて教室に来てすぐだった。

「喧嘩?」

「喧嘩っつーか、石川が嫌なことした?」

「どうして?」

「んー、なんか昨日電話したんだけど、いつもペラペラ話すのに全然話さなかったから、何かあったのか聞いたんだよ。そしたら『涼音ちゃんに嫌われたかも』って」

「……そんなことないよ」

彼女は何も悪くない。むしろこれは私の問題で。

「そうかあ?」

阿部くんは、勢いよく、部活のバッグを机の上に置く。

「石川さ、ちょっと距離感が近すぎるっつーか、馴れ馴れしいところあるだろ。でも悪い奴じゃないから許してやってな」

「……それはわかっているよ」

そんなこと出会った頃からわかっている。だって私はその彼女の接し方にすごく救われたのだから。ある日突然この世界にやってきて、不安と孤独で押しつぶされても仕方がない。けれどそうならなかったのは、初めて出会った時から、彼女が距離を感じさせない接し方をしてくれたからだ。阿部くんが言うように、人によっては彼女の態度をしんどく思う人もいるだろう。でも私は救われた。

「それならいいんだけど」

阿部くんはそれ以上何か言うことなく、前を向くと、机に突っ伏した。


改まった表情の友梨ちゃんに呼びかけられたのは、その日の掃除の時間だった。校舎の外にあるゴミ捨て場に、ゴミ袋を持っていこうと教室を出た時、

「……涼音ちゃん」

か細い声で名前を呼ばれた。

「友梨ちゃん……どうしたの?」

「ゴミ捨て、一緒に行ってもいい?」

「……うん」

黙って二人で階段を降りる。

友梨ちゃんとはいつも何を話していたのだろう。前までなら何も考えずに話題が頭に浮かんだのに、今は必死に考えを巡らせても何も出てこない。それより友梨ちゃんはどうして一緒にきたのだろう、と思った時、彼女は「あのさ」と切り出した。

「私、何かしたかな?」

彼女の質問は抽象的だったけれど、今朝阿部くんに尋ねられたことと関係があることはすぐにわかった。

「一昨日ぐらいから、なんだか涼音ちゃん、私に余所余所しい気がして」

「……そうかな」

ヘラッと笑って誤魔化す。友梨ちゃんは泣きそうな顔をした。

「私の気のせいじゃないよね」

友梨ちゃんは足を止めた。つられて私も立ち止まる。私たちの隣を、違うクラスの女の子たちがアハハと大きな声で笑いながら通り過ぎていく。友梨ちゃんは女子生徒たちを見えなくなるまで見送ってから口を開いた。

「私、嬉しかったの」

「……嬉しかった?」

友梨ちゃんは控えめに首を縦に振った。



「転校してきてから一週間ぐらいかな。涼音ちゃんとは距離がある気がした。もちろん転校してきてすぐに仲良くなることは難しいと思うんだけど、何か話す時とかどこかいく時とか、いつも気を遣っているというか、遠慮しているというか。常に顔色を窺っている気がしたの。私の勘違いかもしれないけれど」

友梨ちゃんの言葉は、衝撃的だった。自分がそんな態度をとっていたことに気づいていなかった。

「でもね、話したり遊んだりするにつれて、その距離がなくなってきたのを感じていたの。私、素直にすごく嬉しかった。涼音ちゃんが転校してきた時から、なんだか強く思ったの。仲良くなりたい、って。だから、当たり前のように休み時間を一緒に過ごしたり、放課後出かけられることが本当に嬉しかったの」

友梨ちゃんは寂しそうに笑った。

「私、きっと何か嫌なことを言ってしまったんだよね。ごめんね……よければ、涼音ちゃんが私を避ける理由、教えてくれないかな。図々しいお願いだと思っているんだけど、私、出来るものなら、また涼音ちゃんと仲良くしたいから」

目の奥が熱くなった。友梨ちゃんが私のことを、こんなにも大切に思ってくれていたことを知らなかった。

「……何もないよ」

私の言葉に、俯いていた彼女は顔を上げた。

「本当に何もない」

「でも」

「友梨ちゃんに嫌なことなんて何もされていない。これは本当。問題は、私だったから」

恥ずかしくても、醜くても、もっと早くに話していたら、彼女に辛い思いをさせずにすんだのだろうか。彼女にこんな顔をさせずにすんだのだろうか。
過去の自分を、また恨みたくなる。


「席替えをしてから、友梨ちゃんと高橋くん、よく話しているでしょ。そんな二人を見たら、なんとも言えない気持ちになるの。上手く言えないんだけど、悲しいような、ちょっとイライラするような……きっと友梨ちゃんに嫉妬していたんだと思う」

もう認めざるを得なかった。

私は、高橋くんが好きだということを。
人間としてだけではなくて、異性として。

千枝は、ずっと私に、今感じているような気持ちを抱いていたのだろうか。
悪口を言うことは間違っている。私は彼女たちから受けた行動はイジメだと思っているし、イジメられたことを許そうと思う気持ちは微塵もない。

ただ、今なら、以前よりも理解できる気がした。
大きく膨らんだこの気持ちをどうしたらいいのかわからなくなった時、きっと私にぶつけるしかなかったのだろう。私が友梨ちゃんにぶつけてしまったように。

「そうだったんだ。ごめんね、気づかなくて……」

「ううん、本当に友梨ちゃんは悪くないの。勝手に私が嫉妬してただけだから」

「いや、私ね、涼音ちゃんははっきりとは言わないし否定することもあったけど、なんとなくわかっていたの。本当は高橋くんのこと好きなんだろうな、って。だから私も高橋くんと話してみたかった、って言うのもあるんだけど。ごめん、言い訳だよね」

友梨ちゃんは「でも、高橋くんとはずっと涼音ちゃんの話ばかりしているんだよ」と続けた。

「高橋くん、言ってた。彼、中学生の時に耳が聞こえなくなっちゃったんだよね? 耳が聞こえなくなってずっと真っ暗な世界で生きてきたけれど、涼音ちゃんと出会って世界が明るくなったんだ、って。涼音ちゃんと一緒に向日葵畑に行った日、忘れられないみたいだよ。長かったトンネルから抜け出したように、世界が明るくなった、って」

「そんな……」

高橋くんがそう思ってくれていることも知らなかった。

「この前も高橋くんが風邪をひいた時、涼音ちゃんが看病をしに行ってあげたでしょ。高橋くん、『こんなの初めてだ』って本当に嬉しそうだった。だからね、今週末、涼音ちゃんを遊びに誘ったでしょ? 初めて話した時から、お礼に遊びに誘いたいんだって相談されていたんだよ」

友梨ちゃんは一気に話すと、「でも」と最後に付け加えた。

「これから気をつけるね。確かに私だって、阿部くんが違う女の子とずっと話していたら嫌な気持ちになるもん。ごめん、これからは気をつけるよ。だから……仲直りしてくれる?」

「うん、私もごめんね……」

友梨ちゃんの顔がみるみる滲んでいくのを、グッと堪える。友梨ちゃんは「よかった」と笑うと、私に飛びついてきた。

「これからは嫌なことがあったら我慢せずにすぐに言ってね」と言う彼女に、こっそりと涙を拭いながら「うん」と頷く。

自分が嫌いだった。この先、何十年も生きていくと考えるだけで、怖くて仕方がなかった。
でも、本音で自分と向き合い、心から仲良くしたいと伝えてくれる人に出会えた。それだけで、少しだけ、ほんの少しだけ、自分にも”良いところ”があるのかもしれないと思えた。

それから私たちは、笑い合ってゴミを捨てに行った。途中、廊下で阿部くんとすれ違った。彼は私たちを見て、かすかな微笑みを見せた。


夜ご飯を済ませベランダにでると、生ぬるい風が一気に身体にまとわりつく。思っていたよりも風は強くて、髪の毛が右から左へ大きく揺らされる。横髪で見えなくなった視界をクリアにしようと上を向くと、小さな星がたくさん輝いていた。

「どうかしましたか」

横から聞こえた知っている声に、慌てて顔を戻す。

「久しぶりですね、ゆっくり夜空を眺めているのは」

「……そういえば元の世界ではよく眺めていましたね」

そんなことも知っていたのか、という驚きはほとんどなかった。この世界に来て、鈴木さんは私が想像するよりもずっと私のことを調べていたし、知っていた。

元の世界では、自分の部屋のベランダから星空を見るのが好きだった。
自分を見てコソコソ笑う人もいない。
自分のことを悪く言う言葉も聞こえない。
ただ静かでどこまでも広がる暗闇を見ていると、昼間の辛さが和らぐような気がして落ち着いた。

「……私、」

ちらっと鈴木さんを見る。彼は私を見ているのかと思っていたけれど、彼もさっきの私と同じように夜空を見ていた。

「千枝に謝っていなかったなって、今更ながら気づきました」

わずかに速くなりつつある鼓動を落ち着かせるために大きく息を吸うと、生ぬるくも新鮮な空気が全身を駆け巡った。

「避けられてでも、嫌われても、彼女に対してしてしまったことにきちんと謝るべきでした。謝りたいと思いつつ、彼女が振り向いてくれるまで私は話しかけませんでした。でも、本当は、文面ではなく直接謝って、誤解だと説明するべきだった。そして……伝えるべきでした。『私はまだあなたと仲良くしたい』と」

今日、友梨ちゃんが私にしてくれたように。仲直りをしたいのなら、待っているだけではなく、自分から直接話しかけるべきだった。当たり前のことが、私はできていなかった。

「……元の世界に戻ったら、千枝さんと仲直りがしたいですか?」

鈴木さんは風によって壊されたセットされた髪の毛を片手でかき上げた。

「わかりません」

正直に答えると、鈴木さんは黙って私を見つめた。この人は時々、驚くほど真っ直ぐ私を見る。何のフィルターもバリアも通さない、本当に真っ直ぐに。


「彼女に謝りたい気持ちはあります。きちんと直接謝りたい。でも仲直りをしたいと思うには少し難しいほど、私も彼女の言動に傷つきました。この表現が正しいのかがわかりませんが、彼女が私を許せないのと同じように、私も彼女を今は許せない気持ちがあります」

全て自分が悪いのだと思っていた。自分が悪いことをしたから、自分に悪いことが跳ね返ってくるのは当たり前なのだと。彼女や佳奈美の行動を責める権利はないのだと。

でも、この世界に来て、自分のことを大切に思ってくれている人に出会った。自分のことを「優しい」と思ってくれる人に出会った。自分にもいいところがあるのだと認めてくれる人に出会って、なんでもかんでも自分のせいにして自分を責めるのはやめようと思えた。少し烏滸がましいかもしれないけれど、自分を必要以上に卑下し続けることは、自分に厚意を持ってくれる友人たちに失礼だと思った。

私の言葉に鈴木さんはゆっくり頷いた。私の気持ちを受け止め、「わかるよ」と言うように。

鈴木さんは手に持っていた炭酸水が入ったペットボトルを口に運ぶと、一口だけ飲んだ。

「泉本さんは、きっと元の世界に戻っても、良い人間関係を築けるでしょうね」

”元の世界”という言葉が引っかかる。

「……鈴木さんは反対ですか?」

鈴木さんは私の気持ちを知っているはずで、知った上でどうして”元の世界”を勧めるのか。
彼からはっきり”元の世界で過ごす方が良い”と言われたことはない。けれど、私がこちらの世界に残りたいと思っている気持ちを示した時から、鈴木さんが快く思っていないことは十分に伝わっている。

「初めて出会った時、鈴木さんは『こちらの世界に移住できる』と教えてくれました。それなのにどうして
今は」

スマートフォンの着信音が鳴る。鈴木さんは部屋の中を見ると、「すみません」と一言だけ残し、ベランダを去る。

間の良さに安心したようなあの表情だと、きっとこのままベランダで待っていても、彼は戻ってこないだろう。

答えをもらえなかった問いを抱えたままもう一度星を見て、少しだけため息をついて、私も部屋に戻った。
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