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本章

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プラネタリウムは、噂通り、大迫力で見応えがあった。星空の名所と名高い国内の離島の夜空から始まり、世界各地の星空の名所を巡っていく。時には山の頂点から、時には水上コテージから、時には大草原から、といろいろな視点からその地域でしか見られない星空が映し出された。映像がとても工夫されているのか、実際に自分がその場所で星空を眺めているような感覚になった。

特に、とある島国にある山の上から見た景色と星空は絶景だった。島で一番高いらしいその山からは、何の障害物にも邪魔されることなく360°水平線を見渡すことができる。島を囲む海は、夜空に輝く星たちの光が反射してキラキラと光っていた。まるで全方位を星の光に囲まれたようなその景色は、少し不思議な感覚でありながらも息を呑むほど美しかった。きっとこの光景はこの先、ずっと忘れないだろうし、いつか肉眼でその景色を見てみたいとも思った。高橋くんも同じ星空が一番印象に残ったらしく【旅費のためにアルバイトをしたくなった】と笑ったが、目は真剣だった。

余韻を感じながらドームを出ると、ちょうどおやつの時間だった。

【ねえ、パフェ食べたい】

【パフェ! いいね!】

二人でレストラン街を一周し、スイーツの品揃えが豊富な人気チェーンのカフェとパフェ専門店で迷った結果、パフェ専門店に入ることにした。私はいちごのパフェを、高橋くんは抹茶のパフェを頼んだ。隣のテーブルに置かれていたパフェを見て意外と大きさがあることに気づき【全部食べられるかなあ】と弱音を吐くと【泉本さんが食べられなかったら俺が食べるよ。俺、きっと2個でも余裕】と自信満々な返事が返ってきた。薄々気付いていたけれど、高橋くんは細身な外見に反してなかなかの大食いらしい。

【うん、美味しい。やっぱり抹茶は最強】

運ばれてきたパフェを一口食べると、高橋くんはパフェ越しに満足そうに頷いた。いちごのパフェもなかなか美味しくて、ふんだんに使われていた生クリームがそれほど甘くなかったおかげか、私もぺろっと平らげた。

その後私たちはウインドーショッピングをすることにした。小説を読むという共通の趣味で盛り上がり、本屋さんでお互いがおすすめする小説を買い合って交換した。高橋くんがプレゼントしてくれたのは、離島に住む高校生の恋愛を描いた爽やかな青春小説だった。

【あんまり恋愛がメインになった小説は読まないんだけど、これは本当によかった】というほどだから、余程好きな物語なのだろう。家に帰ったら早速読んでみよう。

私は挫折を機に音楽から遠ざかっていたバイオリニストが、ある少女と出会い、もう一度音楽と向き合っていく恋愛小説をプレゼントした。

本屋さんを出ると、隣に楽器専門店があった。高橋くんはお店と私を交互に見た後、【泉本さんの演奏、聴いてみたい】と電子ピアノを指差した。

【いやいや、私、下手だもん。もうずっと弾いていないし】

【でも音楽祭でピアノ伴奏を担当するほどだったんでしょ? お願い、聴いてみたい】

あまりにも真剣に頼み込まれるものだから、強く【嫌だ】とは言えず、私はピアノの椅子に座った。ペダルを足に乗せ【何がいい?】と聞くと【ノクターン 変ホ長調、弾ける?】とすぐに返事がきた。以前、私が好きだと話したことを覚えていてくれたのだろうか。【ずっと弾いていないから間違えたらごめんね】と前置きをしてから、手を握ったり開いたりして軽く指の準備運動をする。

ピアノを弾くのをやめたあの日、もう自分は誰かのために演奏することはないと思っていた。でも今、もう一度誰かのために弾きたいと思う気持ちが心の奥底から湧き出てきているのに不思議な感じがした。

ピアノの鍵盤の上に指を躍らせるのは2ヶ月以上ぶりだったからか、自分の演奏がとても下手になったように感じた。頭の中にあるイメージに指が追いつかない。本当はもっと曲に気持ちを込めたかったのに、ただ譜面をなぞるだけの機械的な演奏になってしまった。

いつの間にかチラホラ集まってきたちびっ子たちの「すげー!」「じょうず!」という言葉に「ありがとう」と返してから高橋くんを見る。

【どうでしたか?】

彼は私の演奏をどう解釈したのだろう。早く彼の気持ちを聞きたいと早まる気持ちを抑えたくて、無意味に店内をぐるりと見渡した。

【泉本さんらしい演奏だった気がする】

高橋くんはチラッと私を見てからもう一度、指を動かした。

【指の動きで、一音一音、すごく丁寧に奏でているのがわかった。ちょっとゆっくりめのテンポで弾いたでしょ。それが泉本さんらしかった、上手だった】

彼の褒め言葉に、【久しぶりに弾くから暗譜できているか不安だった】と正直に答える。

【本当に素敵だったよ。音で聞きたかったな、って思っちゃうぐらい】

そうだ。当たり前のことにようやく気づく。高橋くんは私の演奏を”耳で”聴いていない。指の動きだけで演奏がわかるとは、彼は幼少期、相当の時間をピアノに費やしたのだろうか。もしそうだとしたら、ピアノの音が聞けなくなってしまって、どれだけ辛かっただろう。一緒にいる時間は確実に積み重ねているけれど、彼が味わってきた本当の苦しみや辛さを、私はきっとまだ何もわかっていない。



それから私たちはまたウインドーショッピングをして、空が紅掛空色になった時、商業施設を出た。商業施設の周りではイルミネーションが点灯し始めている。

【夏なのにイルミネーションがあるんだね】

【確かに。イルミネーションといえばクリスマスだよね】

駅まで続くイルミネーションを見ながらゆっくり歩く。
駅が見えてきた時、高橋くんは足を止めた。

「どうしたの?」

高橋くんは私を見て、ふにゃりと笑った。その笑顔は困ったような、寂しさを堪えているような、なんともいえない笑顔だった。

【こっちで過ごす最後の休日、泉本さんと一緒に過ごせて本当によかった。ありがとう、今日一緒にいてくれて】

【最後……?】

心臓がドクン、と大きな音を立てた。嫌な予感、というか、続きを聞きたくない気がした。

【うん。俺、次の金曜日で引っ越すんだ】

【そんな……】

「ここも、聾学校に入るまでの繋ぎらしいよ。だから1ヶ月しかいないんだって」

突然、高橋くんのことを友梨ちゃんたちに尋ねた日の言葉を思い出す。教えてくれたのは友梨ちゃんだったか、それとも奈々ちゃんか加菜ちゃんか。

【確か聾学校へ転校するんだよね? どこの聾学校に行くの?】

ここから遠くない場所であって欲しい。
私だってこの世界にいられる期間は決まっていて、その先のことはまだわからないけれど、せめてこの世界にいる最後の最後までは高橋くんに会いたい。

でも高橋くんから出てきた言葉は、私の願いからはかけ離れたものだった。

【ううん。俺もお父さんたちが住む外国へ行くことに決めたんだ】

そんな……外国だなんて……。
それならば彼と会えるのは後5日しかないということ?

急に目の奥が痛くなった。俯くと同時に、涙が溢れ出る。

目の前で高橋くんが困惑しているのがわかったけれど、どうしようもできない。堰を切ったように涙が出てくる。

そもそも私がこの世界に確実にいられるのも一ヶ月で、その先はどうなるかはわからなかった。
元から限られた期間しか関われないかもしれないことはわかっていた。

それなのに改めてその現実を認識したからか、別れが思っていたよりもずっと急だったからか、どうしようもなく苦しい。心臓を大きな手で握りつぶされたかのように、息ができない。

【寂しい】

本音がこぼれ落ちる。

【俺もだよ】

【どうしても来週の金曜日に引っ越すの?】

【うん】

頬を伝う涙を拭ってから大きく深呼吸をする。

これだけは言わないといけないと思った。
ずっと押し殺してきた言葉。自分の心の奥底に沈めてきた言葉。



【私、高橋くんのこと、好き】

彼の顔を見るのが怖い。でも伝えなければきっとこの先ずっと後悔すると思った。

【ありがとう】

スマートフォンから顔を上げる。目が合うと高橋くんは優しく、悲しいほど優しく微笑んだ。彼の目にもうっすらと涙の膜が張っているように見えるのは、私が泣いているからだろうか。

【泉本さん、幸せになってね】

永遠の別れのような言葉に、また涙が溢れ出る。

そんな悲しいこと言わないで欲しい。
そばにいて欲しい。どこにも行かないで欲しい。

【高橋くんは、私のことどう思っているの?】

【好きだよ】

高橋くんの瞳が揺れた気がした。

【それなら】と私が送ったのと、【でも】と彼が送ったのは同時だった。

【俺、これからは泉本さんのそばにいられないから。だから泉本さんは、泉本さんを守ってくれる人と幸せになって欲しい】

今の私にはあまりにも酷な言葉だった。

元々住む世界が違う私たちが一緒に幸せになるのは、難しいことなのかもしれない。それでも、好きな人に、「別の人と幸せになって欲しい」と願われるのは、言葉にできないほど悲しく苦しい。

何もいえず立ちすくむ。

高橋くんは優しくー触れるか触れないかわからないほど優しくー一瞬だけ私を抱きしめると「帰ろうか」と微笑んだ。

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