2 / 16
1話
しおりを挟む
『パシャン!』
ついていない。
都会の汚れた水溜りを踏んでしまった。
ここ1ヶ月間という期間限定で、自分は最も不幸で惨めな人間だ。
ゆっくり歩く人の隙間を縫いながら、細かい歩幅で走る。
なんとか終電に間に合うように会社を出たつもりが、駅までの道は傘を指す人に邪魔されていて、想定より時間が掛かる。
そして、まだ梅雨前にも関わらず、今週は毎日のように雨が降る。
もはや嫌がらせとしか思えない。
いつも決まって出勤と帰宅時間を狙って降るからだ。
今は、ぎりぎり傘を刺さなくても耐えられるくらいの、小雨が霧状に舞っている。
紺色のジャケットは細かい水滴を一時的に弾いてくれるが、ズボンは外の雨と中の汗を両面から吸収したことで黒く染まり、肌にピタッと張り付いている。
しかし、それを気にしていられるほど心に余裕はない。
発端は一ヶ月ほど前、仕事で冒してしまった一つのミスだ。
ミスの内容は単純で、大量の発注を忘れたまま放置してしまったことにある。
商社に務めており、海外から部品を仕入れ、家電メーカーへ販売する仕事をしている。
そして、もし部品が欠品してしまうと製造ラインを止めることに直結するので、多めに手配しておき、後で少しずつキャンセルすることがある。
しかし、気づいた時には既に遅く、キャンセル可能な期日を大幅に過ぎてしまっていたという訳だ。
その瞬間は秒単位で鮮明に覚えている。
きっと一生忘れることは無い。
ミスに気づいた瞬間、頬が硬直し、背中を通じて足先まで順に血の循環が止まっていく。
暑くはないのに頭頂部から冷たい汗が後ろ首を伝う。
何かの間違いではないかと、すがる想いで何度も確認をするが、確信に変わるばかり。
きっと地震や強盗事件に巻き込まれても、あれほどの絶望と恐怖は味わえない。
生命よりも、社会的な危機のほうが何倍も怖い。
確認を重ねた結果、入荷されてくる部品は約5億円に相当することが判った。
実際に使用される分を差し引くと、余る在庫は約2億円。
それらの余った在庫は売れる見込みがない、『死んだ』在庫となる。
液晶テレビに使われる部品だが、昨今の海外・国内格安メーカーにシェアを奪われているので、追加生産の見込みもない。
出張と会食が続く多忙な時期だった。
入社して4年目で気が緩み始めていたことも自覚している。
自分が悪い、そんなことは分かっている。
だが、それにしても周囲の反応は冷ややかなものだった。
同じチームで一緒に担当している先輩は、普段の優しさから一変。
「ちゃんと指示は出していた。それをやらなかったお前の責任だ」
と真っ先に切り捨てられた。
直属の上司となる課長は、自身の管理責任であると口では言う。
だが、部長への説明には俺の落ち度を並べるばかり。
「知らなかった。発注時の細かい条件について、担当から十分に共有されていなかった」
と巻き込まれた側の言い分。
その報告を聞いた部長はというと、自部門の問題が更に役員や他部門に知られたくないのだろう。
社内で大事となる前に問題解決したい、その必死な想いだけは一番伝わってくる。
だが、その部長の焦りと怒りの矛先は全て自分に襲いかかってきた。
思いつきレベルの雑な対応策。
それが超特急スケジュールの最優先業務となって落ちてくる。
部長の自己満足としか思えない無駄な追加業務、顧客への販売交渉、仕入先への返品交渉、反省文のような社内への膨大な報告資料、それらが普段の通常業務に加わる。
誰も助けてくれない。
毎日のように深夜残業して、心を削る日々が続いている。
しかし、そんな頑張りも良い結果には繋がらなかった。
部長の想いは叶わず、結局は役員及び他部門への報告と協力要請をするに至った。
俺は何度も何度も同じ報告と謝罪を繰り返した。
だが、事態は収まるどころか、今や会社の経営に響く重要事案にまで成り上がった。
責められる相手が増え、その重みも増すばかり。
そして、とうとう明日は社長含めた取締役全員への報告会がセッティングされている。
ここで本来ありえないことが起こった。
資料作成から説明まで全て一人で担わされることになったのだ。
当然、全て一人で完結させて良い訳はなく、既に資料作成の時点で背後から細かく指導されている。
それも各方面から無責任に好きなことを言うものだから、一つの資料として纏めるには、骨が折れるどころではない。
正解も終わりも見えないまま、何度もやり直しを命じられた。
結果、報告前日の夜中までなんと計18回の修正を経て、ようやく関係者全員の合意を得て今に至る。
最終版は確かに情報量こそ増えたが、資料としての纏まりは一切なく、その質は恥ずかしいほどに低い。
前日ギリギリまで追い込んだプロセス、そして修正回数に皆が自己満足しているに過ぎない。
「どうでもいい」
苛立ちを断ち切るように独り言を呟き、改札機にスマホを押し当てる。
小走りの小さな頑張りだけは報われて、なんとか終電には飛び乗れた。
乗れたことで一息ついて安堵はするが、ちっとも嬉しさは湧いてこなかった。
ついていない。
都会の汚れた水溜りを踏んでしまった。
ここ1ヶ月間という期間限定で、自分は最も不幸で惨めな人間だ。
ゆっくり歩く人の隙間を縫いながら、細かい歩幅で走る。
なんとか終電に間に合うように会社を出たつもりが、駅までの道は傘を指す人に邪魔されていて、想定より時間が掛かる。
そして、まだ梅雨前にも関わらず、今週は毎日のように雨が降る。
もはや嫌がらせとしか思えない。
いつも決まって出勤と帰宅時間を狙って降るからだ。
今は、ぎりぎり傘を刺さなくても耐えられるくらいの、小雨が霧状に舞っている。
紺色のジャケットは細かい水滴を一時的に弾いてくれるが、ズボンは外の雨と中の汗を両面から吸収したことで黒く染まり、肌にピタッと張り付いている。
しかし、それを気にしていられるほど心に余裕はない。
発端は一ヶ月ほど前、仕事で冒してしまった一つのミスだ。
ミスの内容は単純で、大量の発注を忘れたまま放置してしまったことにある。
商社に務めており、海外から部品を仕入れ、家電メーカーへ販売する仕事をしている。
そして、もし部品が欠品してしまうと製造ラインを止めることに直結するので、多めに手配しておき、後で少しずつキャンセルすることがある。
しかし、気づいた時には既に遅く、キャンセル可能な期日を大幅に過ぎてしまっていたという訳だ。
その瞬間は秒単位で鮮明に覚えている。
きっと一生忘れることは無い。
ミスに気づいた瞬間、頬が硬直し、背中を通じて足先まで順に血の循環が止まっていく。
暑くはないのに頭頂部から冷たい汗が後ろ首を伝う。
何かの間違いではないかと、すがる想いで何度も確認をするが、確信に変わるばかり。
きっと地震や強盗事件に巻き込まれても、あれほどの絶望と恐怖は味わえない。
生命よりも、社会的な危機のほうが何倍も怖い。
確認を重ねた結果、入荷されてくる部品は約5億円に相当することが判った。
実際に使用される分を差し引くと、余る在庫は約2億円。
それらの余った在庫は売れる見込みがない、『死んだ』在庫となる。
液晶テレビに使われる部品だが、昨今の海外・国内格安メーカーにシェアを奪われているので、追加生産の見込みもない。
出張と会食が続く多忙な時期だった。
入社して4年目で気が緩み始めていたことも自覚している。
自分が悪い、そんなことは分かっている。
だが、それにしても周囲の反応は冷ややかなものだった。
同じチームで一緒に担当している先輩は、普段の優しさから一変。
「ちゃんと指示は出していた。それをやらなかったお前の責任だ」
と真っ先に切り捨てられた。
直属の上司となる課長は、自身の管理責任であると口では言う。
だが、部長への説明には俺の落ち度を並べるばかり。
「知らなかった。発注時の細かい条件について、担当から十分に共有されていなかった」
と巻き込まれた側の言い分。
その報告を聞いた部長はというと、自部門の問題が更に役員や他部門に知られたくないのだろう。
社内で大事となる前に問題解決したい、その必死な想いだけは一番伝わってくる。
だが、その部長の焦りと怒りの矛先は全て自分に襲いかかってきた。
思いつきレベルの雑な対応策。
それが超特急スケジュールの最優先業務となって落ちてくる。
部長の自己満足としか思えない無駄な追加業務、顧客への販売交渉、仕入先への返品交渉、反省文のような社内への膨大な報告資料、それらが普段の通常業務に加わる。
誰も助けてくれない。
毎日のように深夜残業して、心を削る日々が続いている。
しかし、そんな頑張りも良い結果には繋がらなかった。
部長の想いは叶わず、結局は役員及び他部門への報告と協力要請をするに至った。
俺は何度も何度も同じ報告と謝罪を繰り返した。
だが、事態は収まるどころか、今や会社の経営に響く重要事案にまで成り上がった。
責められる相手が増え、その重みも増すばかり。
そして、とうとう明日は社長含めた取締役全員への報告会がセッティングされている。
ここで本来ありえないことが起こった。
資料作成から説明まで全て一人で担わされることになったのだ。
当然、全て一人で完結させて良い訳はなく、既に資料作成の時点で背後から細かく指導されている。
それも各方面から無責任に好きなことを言うものだから、一つの資料として纏めるには、骨が折れるどころではない。
正解も終わりも見えないまま、何度もやり直しを命じられた。
結果、報告前日の夜中までなんと計18回の修正を経て、ようやく関係者全員の合意を得て今に至る。
最終版は確かに情報量こそ増えたが、資料としての纏まりは一切なく、その質は恥ずかしいほどに低い。
前日ギリギリまで追い込んだプロセス、そして修正回数に皆が自己満足しているに過ぎない。
「どうでもいい」
苛立ちを断ち切るように独り言を呟き、改札機にスマホを押し当てる。
小走りの小さな頑張りだけは報われて、なんとか終電には飛び乗れた。
乗れたことで一息ついて安堵はするが、ちっとも嬉しさは湧いてこなかった。
0
あなたにおすすめの小説
社会の底辺に落ちたオレが、国王に転生した異世界で、経済の知識を活かして富国強兵する、冒険コメディ
のらねこま(駒田 朗)
ファンタジー
リーマンショックで会社が倒産し、コンビニのバイトでなんとか今まで生きながらえてきた俺。いつものように眠りについた俺が目覚めた場所は異世界だった。俺は中世時代の若き国王アルフレッドとして目が覚めたのだ。ここは斜陽国家のアルカナ王国。産業は衰退し、国家財政は火の車。国外では敵対国家による侵略の危機にさらされ、国内では政権転覆を企む貴族から命を狙われる。
目覚めてすぐに俺の目の前に現れたのは、金髪美少女の妹姫キャサリン。天使のような姿に反して、実はとんでもなく騒がしいS属性の妹だった。やがて脳筋女戦士のレイラ、エルフ、すけべなドワーフも登場。そんな連中とバカ騒ぎしつつも、俺は魔法を習得し、内政を立て直し、徐々に無双国家への道を突き進むのだった。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
99歳で亡くなり異世界に転生した老人は7歳の子供に生まれ変わり、召喚魔法でドラゴンや前世の世界の物を召喚して世界を変える
ハーフのクロエ
ファンタジー
夫が病気で長期入院したので夫が途中まで書いていた小説を私なりに書き直して完結まで投稿しますので応援よろしくお願いいたします。
主人公は建築会社を55歳で取り締まり役常務をしていたが惜しげもなく早期退職し田舎で大好きな農業をしていた。99歳で亡くなった老人は前世の記憶を持ったまま7歳の少年マリュウスとして異世界の僻地の男爵家に生まれ変わる。10歳の鑑定の儀で、火、水、風、土、木の5大魔法ではなく、この世界で初めての召喚魔法を授かる。最初に召喚出来たのは弱いスライム、モグラ魔獣でマリウスはガッカリしたが優しい家族に見守られ次第に色んな魔獣や地球の、物などを召喚出来るようになり、僻地の男爵家を発展させ気が付けば大陸一豊かで最強の小さい王国を起こしていた。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
第5皇子に転生した俺は前世の医学と知識や魔法を使い世界を変える。
黒ハット
ファンタジー
前世は予防医学の専門の医者が飛行機事故で結婚したばかりの妻と亡くなり異世界の帝国の皇帝の5番目の子供に転生する。子供の生存率50%という文明の遅れた世界に転生した主人公が前世の知識と魔法を使い乱世の世界を戦いながら前世の奥さんと巡り合い世界を変えて行く。
タダ働きなので待遇改善を求めて抗議したら、精霊達から『破壊神』と怖れられています。
渡里あずま
ファンタジー
出来損ないの聖女・アガタ。
しかし、精霊の加護を持つ新たな聖女が現れて、王子から婚約破棄された時――彼女は、前世(現代)の記憶を取り戻した。
「それなら、今までの報酬を払って貰えますか?」
※※※
虐げられていた子が、モフモフしながらやりたいことを探す旅に出る話です。
※重複投稿作品※
表紙の使用画像は、AdobeStockのものです。
転生したら最強種の竜人かよ~目立ちたくないので種族隠して学院へ通います~
ゆる弥
ファンタジー
強さをひた隠しにして学院の入学試験を受けるが、強すぎて隠し通せておらず、逆に目立ってしまう。
コイツは何かがおかしい。
本人は気が付かず隠しているが、周りは気付き始める。
目立ちたくないのに国の最高戦力に祭り上げられてしまう可哀想な男の話。
1歳児天使の異世界生活!
春爛漫
ファンタジー
夫に先立たれ、女手一つで子供を育て上げた皇 幸子。病気にかかり死んでしまうが、天使が迎えに来てくれて天界へ行くも、最高神の創造神様が一方的にまくしたてて、サチ・スメラギとして異世界アラタカラに創造神の使徒(天使)として送られてしまう。1歳の子供の身体になり、それなりに人に溶け込もうと頑張るお話。
※心は大人のなんちゃって幼児なので、あたたかい目で見守っていてください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる