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二章 後宮の仄暗い庭

二章⑤

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 春菊は御水園に流れる小川から汲んだ水を使って墨をすった後、天佑に声をかける。
 
「用意が出来たから、始めるよー」
「この場所でどのくらい紙が染まるんでしょうね。興味深いです」
「だね!」

 天佑の声には僅かな好奇心がうかがえる。
 こんな真っ暗な場所では、これから紙上に起こる変化を楽しみにするくらいじゃないと気分が滅入ってしまうだろうから、そのくらいの心持ちでいてくれる方が有難い。
 彼は春菊の近くにしゃがみ、紙の近くに燭台を置いた。

 良く見えるようになった紙の中央に、春菊はと一滴の墨を落とす。
 すると、そのたった一滴がとてつもない汚染源であるかのように、一気に紙が真っ黒に染まってしまった。

「一瞬にして黒くなりましたね。どういう原理でこのようになるのやら……」
「僕には神通力があるから、墨を使う時に無意識に仙術もどきを使っているんだと思ってる。制御が出来ないから困っているんだよね」
「そういえば、そのような説明をなさっていましたね」

 天佑に頷いてから紙に視線を戻す。
 濃度の高い邪気の所為で紙は真っ黒に染まり、黒色の濃さのみではここからどの方向に邪気の発生源である蠱がいるのか検討もつかない。

「うーん、いくら燭台の光に近づけてみても、濃さの違いは分からないなぁー。あ、でも逆に考えると僕たちはかなり蠱の近くに居る可能性もあるのかな」

 庭の灯籠の明かりの範囲に、数個の大きな石が並んでいるのが確認出来る。
 配置的に春菊がかつて住んでいた崑崙山の風景を模していそうなそれらには、おかしな細工が施された跡はなさそうだ。しかしたったそれだけの理由で蠱がついているかもしれないとの疑いを捨てるべきではない。

(蠱が取り憑いている石は一個とは限らないよね。と、すると……庭全体を解蠱してあげた方がいいのかな)

 御水園全体が見えるような高さの建物や樹木はないだろうか?
 天佑なら庭について色々知っているかもしれない。

「ねぇ、天佑。御水園が丸ごと見渡せそうな建物––––」
「う……っ!」

 苦し気な声が側で上がった後、天佑がどさりと砂利の上に倒れた。
 春菊は驚きつつも、地面の上に置いたままだった燭台の炎が彼の身体や衣に触れないよう、自分の手に持ち上げる。

「て、天佑? まさか君も……」
「腹が……、痛すぎる。普通じゃない痛みが……。私にも、もしや石蠱が?」

 寒空の下、額に汗を流すほどに苦しむ彼を見て、春菊は後悔する。
 神通力と”陽”の気を持つ春菊は蠱に対して抵抗力があるのだが、天佑には過酷すぎる環境だったようだ。
 天佑が調査に同行したいと言っても、拒否すべきだったのだ。

「……天佑、ごめん! 君がこんなにか弱い人だったなんて思いもしなかったから……。早く何とかしないと」

 普通に考えたなら彼に最も近い石に蠱がついていそうだが、ここに来るまでの道中にあった石の可能性もある。
 邪気の発生源を封ずる効果のある仙術もどきは、残念ながら週に一度しか使うことがない。だから、対象を見誤ると、春菊が再び仙術もどきが使えるようになるまで蠱は野放しとなり、自由に人間を殺し続ける。

「こ、困ったな。天佑を長い時間ここに転がしておくのはかわいそうだけど……」

 春菊は心を決め、視界の端に見えたけやきの木に走り寄る。
 これならば比較的上りやすそうだし、高さもそこそこある。
 一度揺らして強度を確かめる。春菊の体重くらいならば耐えられそうな感じだ。
 この木の上から描こうと決めてしまい、深衣の合わせ目に紙を挟み、自分の口に筆を咥える。
 下から見上げてみれば、建物で言う二階くらいの高さの位置にちょうど良い枝が見える。あそこを目指したら良いだろう。

「よーし! 山育ちの実力を見せないと!」

 春菊は木の幹に手や足をかけ、するすると目的の箇所まで登る。
 辿り着いた枝に腰掛けてみれば、思った以上に安定していた。

「この感じなら落ち着いて描けそうだね」

 胸にしまっておいた紙を取り出し広げる。
 先ほど春菊が墨を一滴落とした影響から紙全体が黒く染まっていて、普通の画家であれば、これに墨を落とそうが絵の具を落とそうが、圧倒的な黒にかき消されることだろう。
 しかし春菊は違う。

「……墨も顔料も必要としない作画方法があるなんて、崑崙山にずっといたんじゃわからなかったかもしれないなぁ」

 筆先の墨は既に乾いてしまっている。
 春菊はそれを闇に同化させるようにじっと見つめてから、ゆっくりと目を閉じる。
 そうすると、己の内側をぼんやり見つめるような、不思議な感覚になる。
 体のあちこちに存在する神通力を肩から腕、そして指まで流れるのを確認し、目を開けば筆先がほのかな白色の光が灯っていた。

「描くは陰陽の画……。僕の筆に陽の力を」

 春菊は紙の上に大胆に筆を走らせた。
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