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22.全滅……

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 どこをどう落ちてきたのか。明るい場所に出て床にぶつかる。出口はどこかの天井だったらしく、真っ逆さまに落下した。叩きつけられた身体に痛みが走り、その場にうつ伏せに横たわる。

 それでも、身体より心の方が痛いと感じた。

「―――月見さん!?」

 驚きを含んだ、しかし柔らかな声が耳を翳め、朦朧としていた意識が徐々に戻ってくる。

「どうしたの、何があったの?」

 声の主は慌てて談子の身体を起こす。視界もはっきりしてきた。目の前に、談子の顔を覗き込む時雨と暁の姿が。ここは接客室のようだ。図書室は職員室の真上にあったらしい。

 暁が談子の落ちてきた天井を見上げる。今はすでに天井は閉じてしまっていたが、そこだけ他の天井と色が違うので、何となくからくりは分かったといった様子で頷いていた。

「隠し扉か。で、秋田には会えたのか?」

 その何の悪ぶれもない単調な問いかけが、今の談子にとてつもない苦痛を伴わせた。瞬きすれば浮かんでくる、数瞬前の光景。

 談子の目尻が熱くなる。堰を切ったように大粒の涙が溢れ出し、顔を濡らして行く。

「って、おい、ちょ……」

 突然泣き始めた談子に驚き、言葉を詰まらせる暁。時雨が背中を撫でて宥めようとする。

「月見さん、落ち着いて。ゆっくりでいいから、何があったのか教えて頂戴」

「先輩がっ……、い、イナホ、先輩が……」

 それが精一杯だ。時雨にしがみついて、談子は大声で泣きじゃくる。そうすることでしか、胸のうちを明かすことは出来なかった。ただ込み上げてくるいろんなものを、出るがままに吐き出すしかない。時雨と暁が困惑したように顔を見合わせていた。そして最悪の事態を想定し、自己理解したように、互いに頷き合う。

「辛い思いをしたのね。もう大丈夫よ、ここにはみんないるからね。安心して」

 時雨に頭を優しく撫でられ、少しずつ落ち着きを取り戻す談子。嗚咽はしばらく続いたが、途切れ途切れに、ゆっくりと自分が見たことを説明した。思い出すたびに止まったはずの涙が溢れてきたが、それでも最後まで言葉を諦めず、全てを伝えきった。

「そう……。「呪い定めの書」は、そういう用途で使われるものだったのね」

 話を聞き、時雨は肩を落とす。それによって、友人の意図がはっきりと理解できたようだ。彼女の友人は、儀式に失敗したのではない。成功したからこそ、目覚めなかったのだ。

 そして、今度はイナホが。陽が落ちれば、図書室に横たわるイナホの死体が発見されるだろう。それを思うと息が詰まり、また涙が流れる。ハンカチが濡れ過ぎて使い物にならないくらいだ。暁が無言で自分のハンカチを差し出してきた。それを無言で受け取り、鼻をかむ。今度は後で返せとは言わなかった。

「月見さん。私の友人も、そして秋田さんも、私たちを助けようとして書を使ったのね」

「でも、どうしてそこまでして……。どうして先輩や、先生のお友達が、死ななきゃいけなかったんですか」

「分からない?」

「分かりません!」

 半ば八つ当たり気味に声を張り上げる談子に、時雨は優しく語りかける。

「私は、何となく分かった気がするわ。「呪い定めの書」は、誰にでも使える書物ではないでしょう? なら、それを使える自分が何とかしなくちゃって、彼女たちは同じように考えたのでしょうね。それを使って、自分に何か出来るならって」

「で、でも、だからって……」

 無理に使う必要なんて無かったはずだ。使ったからと言って、事態が良い方向へ流れるわけでもない。結局、同じことが繰り返されるだけなのだ。

「私、思うんだけれどね。あの儀式を行うには物凄く勇気がいるし、とてもリスクが大きいわ。全滅してしまえば元も子もないわけだし、何より死ぬ覚悟なんて、常人には絶対出来っこないもの。でもね、私たちが必ず生き残ってくれる、そう強く信じてくれたから、彼女たちは少しでも不安を払拭し、それが実行できたのだと思うの。秋田さんだって、月見さんならきっと生き残って、他のみんなを生き返らせてくれる。そう信じたからこそ、犠牲になろうと決めたのよ」

 時雨の表情が厳しく、そして強くなる。

「だから、託された私たちはなんとしても生き抜くの。出来れば、私だって誰の犠牲も無く済めばいいと思うけれど、これ以上はどうすることも出来ないから。最小限の犠牲に留める事を考えるので精一杯」

 辛そうな時雨の表情を見て、談子は思う。先生だって、悔しいんだ。友達の仇だってとっりたいと思っているだろうし、何より教師として教え子を救えない気持ちは、とても痛みを伴うのかもしれない。どうにも出来なくて、ただ流れに乗って進むがままに行くことしか出来ない自分自身に、もどかしさを感じているのだ。

 あたしと同じじゃないか。

 いや、あたし以上に、時雨先生は苦しんでいるんだ。そう思うと、いつまでもメソメソしている自分が恥ずかしく思えてきた。

「……そうですよね、先輩の気持ちを無駄にしないように、今出来ることをやっていかなくちゃ、ですね」

 まだ目尻に溜まる涙を拭い、頑張って笑顔を見せる。それを見た時雨も、少し笑顔を取り戻した。頭ではまだ完全に納得できていないが、いつかきっと、理解出来る時が来るだろうと考えることにした。

「下の階にも抜け穴がある。いざって時はここから逃げればいいな」

 話に区切りがついたのを見計らって、暁が割って入り、話題を変えた。丁度談子が落ちてきた天井のすぐ真下の床が、取り外せるようになっていた。開ければ下の階へ逃げられるようになっているようだ。

「少しは落ち着いたか?」

 暁に訊ねられる。突然のことで一瞬思考が止まったが、大きく頷いて見せた。

「そうか」

 あっけなく納得して、またそっぽを向いてしまう。彼なりに心配してくれたのだろうか。相変わらず無愛想だが、その気持ちが何だか嬉しくて、自然と笑ってしまっていた。そんな様子を見て、時雨もまた、柔らかな微笑を浮かべていた。

 静かな時間。しかしそんな束の間の休息も、さほど長くは続かない。

「ぐうっ! ぐううっ!!」

 外にいた安眠が接客室に飛び込んできた。物凄く焦っているのがはっきり伝わってくる。

「どうした、安眠……?」

 暁が聞き返すと共に、ドアの向こう側で悲鳴が上がった。そして何かが砕けるような激しい音、威嚇するような聞き苦しい咆哮。それが耳を掠めると、身体が大きく痙攣を起こした。まるで拒絶反応を起こしたかのように。

「今の声……まさか由喜ちゃん!」

「畜生、こんなところまで鬼が……!」

 談子と暁が立ち上がり、隣の部屋へ向かおうとした。

「ダメよ、止まりなさい!」

 しかし時雨によって制止される。すかさず彼女は壁に立てかけてあった箒を握り締め、ドアを塞ぐ。

「危険な場所にわざわざ出向くことはないわ。あなたたちは、その抜け穴から逃げて。ここは私が引き止めますから」

「でも、まだ無事な人を非難させないと」

 確かに、駆けつけたところで何も出来ないだろう。しかし助かるかもしれない人たちを見捨てていくなんて、残酷すぎる。

「そんな事をしていたら、鬼に追いつかれるわ。それで全滅したら、秋田さんに示しがつかなくなるわよ?」

 何とか説得しようとする談子。だが時雨も頑固だ。全くその場を離れようとしない。

「必ず生き残って。みんなの命、あなたたちに託すわ。信じてるからね」

 ドアが勢いよく閉まる。扉の向こうへ飛び出していった時雨の姿が見えなくなっても、悲痛な叫び声や何かが壊される音が絶え間なく響いてくる。談子の心が追い詰められていく。それに従って耳が研ぎ澄まされる。物語りの智慧が、談子に声を送ってくる。人間だけでなく、鬼に破壊され見る影もなくなったであろう机や棚の断末魔の叫びまでもが頭に入り込んできて、思わず口を押さえて蹲る。

「おい、しっかりしろ!」

 暁と安眠に宥められ、なんとか吐くのはこらえる。しかし胸焼けのような気持ち悪さは一向に治まらない。

「とりあえず逃げるぞ。先生の言う通り、全員やられたら元も子もない。恐らく、生き残っている魂を持った人間はお前だけだ」

 暁に腕を引っ張られ、何とか立ち上がる。その頃には、扉の向こうが静まり返っている事に気付いた。みんなやられてしまった? 由喜ちゃんも、時雨先生も、他の生徒達も。みんなが苦しんで、魂を抜き取られて行っているのに、あたしだけ逃げてばかりでいいの?

 無駄だと分かっていても、これ以上逃げるのは嫌だ。暁の手を振り払い、談子は駆け出した。制止も聞かず、ドアを蹴破る。

 その向こう側の空間は、正に地獄絵図。凄まじいまでに破壊された職員机たち。その上に倒れていたり、壁に叩きつけられて絶命しているたくさんの人間。今度は視覚からの情報が、嘔吐感を誘発させる。足元では、時雨が物言わず横たわっていた。優しげな笑顔も、今は恐怖に怯えたような、歪んだ顔のまま時間が止まってしまっている。その向こうに、鬼がいた。壊れた机たちを掻き分けながら、何をするでもなく彷徨っている。

「……どうしてこんな事するの、どうしてみんながこんな目に遭わないといけないの?」

 先輩達も、親友も、先生たちも。

 羅刹姫も。

 お前さえいなければ、誰も苦しまなくて済んだのに!

 談子の中に怒りが込み上げる。許せない、鬼が許せない。絶対、許さない。

 鬼と話が出来たら、仲良くなれたら。そんな初々しかった時の気持ちは、完全にどこかへ行ってしまっていた。今はただ、全てを奪って行く鬼が憎い。

 憎くてたまらない。

「うわあああああ!」

 時雨の側に落ちていた箒を拾い、鬼へ向かって突進する談子。机を踏み越え、高くジャンプし、鬼めがけて箒を垂直に振りかざす。

 直撃した。鬼の顔面に箒の柄が直撃し、箒はへし折れる。鬼も少し怯んだように頭を下げるが、悲鳴一つ上げず、ダメージを受けた素振りは見せない。

 鬼は顔を上げた。垂れた目蓋の下から除く、黒い大きな瞳が談子を睨めつける。その瞳の奥が見えた。仄暗い世界が一気に広がり、談子を飲み込もうと襲い掛かってくる。身体の体温が奪われてゆく。頭に上った血が一気に冷え下り、徐々に冷静さが戻ってくる。そうなって初めて自分の行いの愚かさに気付かれ、後悔が身体中を電流のように駆け巡った。

 イナホの期待を裏切ってしまった。また羅刹姫に、重い枷を背負わせてしまう事になる。

 全てを元に戻さなければならなかったのに、全てをぶち壊してしまった。

 あたしは何て愚かなんだろう。

 暗い、暗黒の底のような冷たい水晶に、だんだん吸い込まれていく感覚に、頭が少し重く感じた。魂はマイナスの質量を持っていて、死んだ人は生前より若干体重が重くなるらしい。絶体絶命の時なのに、そんな事を冷静に考えている自分がなんだかおかしい。

 蛇羅の言った言葉の意味が、何となく分かった。本当に何も感じない。空気の暖かさも、冷たさも、触れるものなんて何もない。でも、怖いとは思わない。むしろそれが自然すぎて、違和感が無さ過ぎて、妙にしっくりきた。
本当に、無とはこういう事なのだ。だんだん世界が遠くなる。ずっと遠くで、自分を呼ぶ声を談子は聞いた気がした。ものすごく聞き慣れた声。嫌味が多くてひねくれてるけど、時には真面目になったり、頼りにも感じられる、そんな人間の声。でもきっと気のせいだ。

 こんな身勝手な事ばかりする人間に構っている余裕なんて、ないはずだろうし。




 地獄という比喩が相応しい、凄まじい惨状の職員室に飛び込んだ時には、もう手遅れだった。鬼の目の前で対峙し、向かい合う談子。その身体が静かに崩れていく。

「よせ、お前が死んだら誰が鬼を封印するんだ。全滅しちまったら元も子もないだろう!」

 必死で呼びかける。しかし、それに反応する素振りは返ってこない。

「死ぬな月見! 死ぬな!!」

 大声で怒鳴る。だがそれも虚しく、願いは届かず。談子の身体が壊れた机の残骸の上に落ち、横たわる。視界が開け、鬼の姿がよく見える。額と髪の付け根に、赤い痣が出来ていた。談子が最後のチャンスにかけて攻撃した跡だろうか。そこから顔面に向かって小さなひびが入っていたように見える。遠目で確認は取れなかった。そうする前に、鬼は小さな、悲しげな唸り声を上げ、教室の扉を蹴破って出て行ってしまったのだ。

 一瞬、鬼の横顔に光沢のある液体の筋が垂れていたように感じた。そうなのかもしれないが、気のせいかもしれない。

 だが、そんなことはこの際どうでもいい。

 終わってしまった。結界内の人間が、全滅してしまった。すぐにでも鬼の封印は、すべての魂のエネルギーを以って再度封印されるだろう。

だが、もう誰も甦りはしない。

「俺が、もっと強ければ……」

「ぐうう……」

 暁は地面に膝をつき、脱力した。

GAME OVER
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