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第三部 四季姫革命の巻

第二十三章 秋姫革命 5

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 五
 平安時代に、現代みたいな柔らかく温かい布団は存在しない。
 茣蓙ござの上に寝転んで、着物や薄い麻の布団などを掛けて眠るだけの、質素なものだ。屋敷の中であれば、畳がクッションになってくれるだろうが、地面に直接茣蓙を敷いたところで、冷たくて痛いだけで、ろくに眠れそうにもない。
 こういう環境に慣れる生活をするのは、とても大変だ。今まで、現代の快適な環境に甘んじてきた楸にとっては、かなりの試練だった。
 だが、実際にこんな環境で当たり前に暮らしている人がいるのだから、我儘はいえない。
 今の季節、寒いお陰で、虫などが湧いてこないだけ、マシと思うしかなかった。
 楸は小屋の隅にボロボロの茣蓙を引き、腰を下ろした。その様子を見ていた秋姫が、声を掛けてくる。
「どうしたんですか、そんな隅のほうで。壁際は寒いでしょう。もっと、中にお寄りなさいな」
「いえ、あの、でも……」
 楸は戸惑って、どう返答すればいいかと途方に暮れた。
 ただでさえ狭い小屋だ。あまり近付くと、秋姫と肌を触れ合わせて眠らなくてはならなくなる。
 楸が、側で眠ることに抵抗を覚えていると察した秋姫は、少し寂し気に目を伏せた。
「もう、病は克服していますから、感染りはしないと思いますが……。そうですね、こんな気味の悪い形相の女の側では、落ち着いて眠れませんね」
「違います、そんなつもりやなくて。私はずっと、一人の部屋で過ごしておりましたから、人と並んで寝るとか、あんまり慣れておらんのどす。……すみません」
 決して、秋姫を卑下して抵抗を覚えているわけではない。
 幼い頃に家族と死別し、叔母のはなぶさに引き取られた楸は、ずっと自分に当てが和得た部屋で、一人きりで眠ってきた。寂しいと感じる夜もあったが、世話になっているという気遣いから、英に本音を話せる機会がないうちに、一人の夜に慣れてしまった。
 だから逆に、人と枕を並べて眠るという行為に、抵抗や違和感がある。
 小学校の修学旅行でも、雑魚寝を避けて、できるだけ部屋の隅で眠っていたくらいだ。それでも、満足に睡眠はとれなかった。
 楸の本音を汲んでくれた秋姫は、少し控えめがちに、微笑んだ。
 ゆっくりと、楸の肩に手を置いて、引き寄せてくれた。
「怖くないわ、おいでなさい」
 その優しい動きを、楸は自然と受け入れられた。秋姫の隣で横になると、着物を被せて優しく頭を撫でてくれた。
「肌を擦り合わせていると、暖かいでしょう?」
「……はい。あったかいどす」
 照れ臭かったが、懐かしい感覚だ。父や母の隣で眠っていた、幼い頃の記憶が、微かに蘇ってくる気がした。
 風通しの良い襤褸小屋とは思えない心地良さだ。
「ほら、あなたも、何を隅で隠れているのです」
 入り口の側で座り込んで、丸くないっていた宵も、秋姫に引っ張り寄せられた。
「俺はいい、外を見張っているから……」
「心配いりません。こんな寒い夜は、夜盗も根城で酒盛りをしているでしょう」
 宵は必死で逃げようともがいていたが、あれよあれよという間に、楸の反対隣に収まった。
 秋姫を真ん中にして、川の字になる。側の明かりに照らされた宵の表情が、何とも複雑そうだった。
「あなたたち二人は、よく似ていますねぇ。寂しがりなくせに、人に上手く甘えられない」
 秋姫は両腕で楸たちを抱き寄せ、頭を撫でた。
「まだ子供なのだから、もっと甘えればいいのです。大人に頼ればいいのです。頼りないかもしれないけれど、力になることは、できるのだから」
 この人には、何もかも見透かされている気がする。敵わないなと、楸も腹を括った。
 実際、秋姫の側に身を寄せていると、とても安心できた。
「温かい。人に触れながら眠るなんて、いつ以来かしら」
 秋姫の、穏やかな囁きが耳元で漏れる。楸たちだけではなく、秋姫にとっても、こうやって誰かと眠れる時間は、幸せで尊いものなのだろう。
 決して迷惑ではなく、秋姫の役に立てているのだと分かると、楸も嬉しくなった。
 懐かしそうに語る秋姫の中には、いつの記憶が蘇っているのだろう。朝や宵を引き取って育てていたなら、その頃の思い出かもしれない。
「秋姫はんは、宵はんが幼い頃から、面倒を見ておられたんでしょう?」
「そうですよ。中々、懐いてくれなくてね。今みたいに、無理矢理寝床に連れ込んで、寝かせるのに苦労しました。でも寝相が悪くて、翼がバシバシ顔に当たってくるし、大変でしたねぇ」
「意外と、苦労されとったんどすな」
 妖怪の子供を育てるなんて、並々ならない努力が必要だったのだろう。
 だが、本物の母親みたいに懐かしそうに話す秋姫を見ていると、苦労以上に喜びが大きかったに違いない。穏やかな感情が伝わってきた。
「宵月夜は、十の歳になっても寝小便が治らなくてねぇ。いちばん苦労させられましたよ。もう情けないやら、恥ずかしいやら……」
「余計な話をするなよ!」
 黙って話を聞いていた宵が、声を荒げて咬みついた。秋姫は肩を震わせて笑っていた。
「もう、流石に治りましたか?」
「当たり前だろうが」
 宵は顔を赤く染めて、秋姫に背を向けた。
「色々ありましたけれど、あの頃が一番、心安らかに眠れました。血の通った、温かな小さな体に触れられて、幸せだった……」
 秋姫の声が、消えていく。
 静かになったかと思った直後、穏やかな寝息が聞こえてきた。
 楸が上半身を起こして顔を覗き込むと、秋姫は目を閉じて、深い眠いに落ちていた。
「よう、寝てはります。お疲れなんどすな」
 楸は笑い、明かりを消して横になった。
「久しぶりに宵はんに会えて、安心しやはったんと違いますか?」
 暗闇の中、楸は秋姫を挟んだ向こうにいる宵に、小声を掛けた。
「姫様には、ずっと愛し合っていた相手がいたのに、秋姫となるために引き離された。その男との間に子供も産んだが、引き離されたと言っていた。ずっと孤独の中で暮らしてきたから、俺や朝は、その子供の代わりみたいなもんだったんだと思う」
 宵も静かに、楸に言葉を返してきた。
「四季姫様の中でも、一番、俺たちを気に懸けてくれた。時には叱って、褒めてくれた。親を殺した仇だと分かっていても、差し伸べられる手を拒めなかった。……離れられなかった」
「分かる気がするどす。この人の手は……お母はんの手なんどす」
 宵の持つ、境遇や気持ちは、とても複雑だ。秋姫に対する態度に最初は驚き、理解に苦しんだが、二人の様子を見ていると、宵と秋姫の関係にも自然と納得ができた。
 どれだけ、秋姫が宵たちに愛情を注いでいたか、今ならよく分かる。
 この時代で生きていれば、必ず人間たちのいざこざに巻き込まれ、命の危機に晒される。宵が大切だから、宵の未来を守りたかったからこそ、封印石の中に封じ込めた。
 秋姫に、四季姫たちに、宵たちを守り抜くだけの力がないと分かっていたから、恨まれても、憎まれても――。
「母親代わりやからといって、甘やかすわけにはいかん。せやから、厳しく厳しく、宵はん達を叱って、躾て来られたんやと思います。そして陰で人知れず、守ろうとされてきた。あなたの命が何よりも大切やったんどす」
 そんな姿を見たわけではないが、目を閉じれば、その情景がありありと浮かび上がってくる。
 とても微笑ましい、母子の幸せな、ひとときの情景。
 朝や宵にとって、秋姫は間違いなく、母親だった。
 本物の母親と同じくらい尊く、大切な存在のはずだ。
「私では、この人の代わりは、絶対に務まりまへんな」
 自然と、そんな言葉が漏れていく。
 本当に、楸はこの秋姫の魂が生まれ変わった姿なのだろうか。
 そう思えるくらい、楸自身の未熟さと弱さが浮き彫りになって、情けなささえ感じた。
「そうだな。同じ秋姫でも、楸とは全然違う。楸は姫様みたいに優しいけれど、時々危なっかしくて、放っておけなくなる。別の意味で、側を離れるのが不安だ」
 宵は鼻で笑った。
 まるで手のかかる存在だと思われているみたいで、心外だった。
「私は皆さんに、ご迷惑をお掛けしているつもりはないんどすけど……」
「そう言って距離を取ろうとしてくるから、心配なんだよ。迷惑を掛けられたほうが、よっぽどいい」
 秋姫の体に載せた楸の手に、宵が手を重ねてきた。寂しげな声色と、楸の手を握りしめる力に、宵の複雑な気持ちが籠っている気がした。
 きっと、楸はまだ、宵に完全に心を許せていないのかもしれない。宵も、楸の感覚に気付いているから、控えめに楸と接しているのだろうか。
「そういうところは、姫様とも似ているな。みんな、俺を突き離そうとする。俺が、頼りないから」
 そう囁いた宵の声色は、切なげだった。
 宵は、秋姫の側にいることを拒絶されたから、封印石に入れられたと思っているのだろう。
 だとすれば、大きな勘違いだ。
「違うどす。宵はんを大切に思うから、危険な目に遭ってほしくないから、突き放すんどす」
「分かっている。だけど、その思いは俺だって同じなんだ。大切な人が危険な目に遭っているのに何もできないなんて、もう絶対に嫌だ」
 その呟きを聞いて、楸は確信した。
 やっぱり宵は、四季姫――秋姫の最期を見届けるために、その時に側にいるために、平安時代に戻ってきたのだと。
 封印されている間に、四季姫たちはみんな死に、千年もの間、何も知らずに眠り続けていた。
 大切な人の死に目にすら立ち会えなかった。その無念と後悔が、今でも宵を苛んでいる。
「宵はんが秋姫はんの気持ちに反してでもやり遂げたい目的があるなら、自分の気持ちに正直に行動するべきどす。突き放されたからって、大人しく甘んじておる必要はないと思います」
 その後悔の苦しみを払拭するために戻ってきたのならば、その思いは絶対に貫かなければ、意味がない。
 楸の言葉に、宵は短く返事をした。
「姫様には、この先もずっと、幸せに過ごしてもらいたい。そのために、俺に何ができるだろう」
 秋姫にとって最も幸福な最期が、息子同然に可愛がってきた宵の側で終わりを迎えることなら、宵は楸たちの役目が終わり、元の時代に戻ったとしても、この時代に残るだろう。
 時を渡る前、椿と言い争った記憶を思い起こす。
 あの時から、宵が平安時代に戻れば、きっともう、現代に一緒に戻ってはこないと、根拠のない確信はあった。
 だが、いざ、その考えが現実のものになると気付くと共に、楸の心は重く、締め付けられた。
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