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第三部 四季姫革命の巻

第二十三章 秋姫革命 9

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 九
 かつて、秋姫と愛し合った人――。
 楸はしばらく、呆然と男の姿を見つめていた。
「四季姫たちは陰陽師の任務に従事し、死ぬまでその任を解かれることがない。結婚は許されないから、別れたのだと聞いた」
 秋姫としての使命を背負ったため、引き離されたのか。
 悲恋、というやつだ。いつの時代にも、結ばれない、物語みたいな悲しい恋は存在するらしい。
他人事であるとはいえ、楸は少し、秋姫の境遇を思って、胸が締め付けられた。
「我は、藤原椎常つちつね。藤原式家の末端に属する者である」
 藤原氏は、娘を天皇に嫁がせることによって親類関係を築き、幼い皇子の指南役となって政治の実権を握る摂関政治によって栄えた一族だ。この時代は確か、藤原道長による政治が、最盛期を迎えていた頃のはず。
 藤原家には、大きく分けて四つの家系があり、主に政治の表舞台を席巻していたのは北家だ。式家は平安時代の中期ごろに廃れて、影響力のほとんどない家柄となった。
 それでも、藤原の名を持つからには、それなりに高い地位や役職を持っているはずだ。この人と結婚できていれば、秋姫も人並みに幸せな暮らしが送れたのではないだろうか。
 だが、それも過ぎた話だ。
「今頃になって、秋姫はんに何の御用どすか?」
 尋ねると、椎常は遠い目をして、ゆっくりと口を開いた。
「長い間、我は紅の君を探し続けてきた。賊と呼ばれ、追われる身になってから、ずっと」
「何のために?」
「無論、その身を匿い、追手の目から隠すためだ」
 椎常の言葉に、楸は驚くと共に、妙に温かな気持ちにも包まれた。
「四季姫という崇高な任を賜った紅の君とは、とうてい結ばれぬ間柄となってしまった。だが我は、その後もずっと、彼女を想い続けてきた。何か力添えできればと、望み続けてきたのだ」
 この人は、秋姫の味方となり、生活や命の保証をしてくれる存在。
 もしそうなら、この人に保護してもらえば、弱った秋姫を、こんな寒くて不衛生な場所で彷徨わせなくて済む。暖かく落ち着いた環境で、安心して身を休められるはずだ。
 だが、素直に応じるには、少し待遇が良すぎる気がした。楸は椎常に期待を持ちつつも、警戒を解くこともできなかった。
「秋姫はんはもう、陰陽師としての地位を追われ、命を狙われて逃亡する身どす。そんな落ちぶれた存在であっても、あなたは匿って、守ってくださると仰るんですか?」
 かつて、貴族の娘であった秋姫ならば、妻にする価値が充分にあったはずだが、今でも同じだとは、とうてい思えない。むしろ、追われる身である罪人を匿うのだから、共犯とみなされて椎常もまた、大きな罰を受ける可能性だってある。
 境遇が変わった今でも、秋姫を求める理由は何なのだろうか。
「立場が代われど、我の想いは変わらぬ。罪人を庇えば、我とてただではすまぬ。だからといって、彼女を見殺しになど、できるはずがない」
 椎常の表情は、真剣そのものだった。この人は心から秋姫を愛し、どんな姿になっても追い求め、最後まで守り抜くつもりだ。
「身を隠した後も、幾度か紅の君と言葉を交わす機会はあった。何度も匿おうとしたが、いつも拒まれ、逃げられた。彼女は慎み深い女だ。己に関われば、我や家の者もただではすまぬと、我らの身を案じて身を引こうとするのだ」
 今朝、椎常が秋姫の側に近寄った時も、きっと秋姫は気付いていたのだろう。だがあえて無視をして、関わらないようにしていたのか。そんな秋姫に、椎常も強く言い出す勇気が持てなかった。
「お主たちからも、紅の君に話を説いてはくれぬか。我の屋敷に隠れていれば、決して役人にも賊にも、手出しはさせぬ。必ず守り抜くと、伝えてくれぬか」
「そんな話が、安易に信用できるか! お前は一度、姫様を捨てた身だろう!? それを今更……」
 図々しく話を進めて行く椎常に、宵が敵意を剥き出しにして怒鳴りつけた。
 椎常は宵の剣幕に少し怯えていたが、それでも臆さずに、一歩前へ踏み出した。
「分かっている。紅の君が秋姫として連れて行かれる時、何としてでも止められていたならば……。だが、我には力がなく、何もできなかった。その時の償いの意も込めて、今度こそ救いたいのだ! この通りだ!」
 椎常は土下座をして、地面に額を擦り付ける。
「時間がないのだ。役人たちの取り締まりも、日に日に厳しくなっておる。このまま逃げ仰せられるとは、とうてい思えぬ。何とか、紅の君を救いたいのだ!」
「頭をお上げください。分かりました、秋姫さんにあなたの御心、お伝えします」
 楸は、まだ怒りを露にしている宵を抑えつけつつ、椎常の前に膝を突いた。椎常は顔を上げ、涙に濡れた顔に笑顔を浮かべていた。
「そうか、伝えてくれるか! 忝(かたじけな)い!」
「それで、伝えた後、私たちはどないすればよろしいどすか?」
「今日の夕刻、陽が沈む前に、東の通りに牛車を寄越す。その牛車に乗って、我の屋敷まで来てもらいたい」
「分かりました。秋姫はんは、私が説得して、連れて行きます」
「頼んだ。では、また」
 椎常は軽やかな足取りで、路地から姿を消した。
 気配が完全に消えた頃、宵が我慢しきれなくなった様子で、楸に訴えかける。
「楸、本気で信じているわけじゃないだろう? あんな見え透いた話、罠に決まっている!」
「もちろん、完全に信用したわけではありまへん。無事に保護してもらえる確証なんて、ないんどすから」
 さっきの椎常の話を素直に信じたいところだが、演技という可能性だって捨てきれない。
 藤原式家は、政治の表舞台に立てなくなった没落寸前の一族だ。現在、圧倒的な勢いを持つ伝師家に取り入って、秋姫の首と引き換えに出世を狙っている、という思惑のシナリオだって、充分に考えられる。
「けど、このチャンスを逃すと、ほんまに秋姫はんは、安息の場所を手に入れられんまま、追い詰められてしまいます」
 どちらにしても裁かれる運命なら、少しでも心の安らげる場所を確保するのも、一つの手かもしれない。
 秋姫の立場上、どこにいたって危険に晒されているのだから、よりよい環境を選べるほうが、体への負担が少なくて良いのではないだろうか。
「だとしても、姫様がそんな話に応じるはずがない。今までだって、拒んできたんだから」
「それでも、一応、秋姫はんに椎常はんのことは話しておいたほうが良いでしょう。この先どうするかは、秋姫はん自身が決めることです。あの人は聡明な方ですから、きっと、正しい道をご存知でしょう」
 椎常を信じるか否か。その判断を、この時代の謀略に詳しくない楸が行うのは、無謀に思えた。
 この件は、当事者である秋姫自身に決めてもらうほうがいい。
 楸がそう言い切ると、宵も渋々承諾した。

 * * *

 秋姫の隠れ家となっている襤褸小屋に戻り、楸は先程のやり取りを全て話して聞かせた。
「そうですか。椎常様にお会いになりましたか」
 秋姫は少し困った様子で、深い息を吐いた。
「今朝も、秋姫はんが琵琶を弾いていらっしゃる側に来ておられましたけれど、ご存知でしたか?」
「ええ。ですが、声を掛け辛い空気を作っておりましたので。引いてくれたと、安心していたのですが」
「秋姫はんが椎常はんのお誘いを断るんは、やはりあちらの家に迷惑がかかるからですか?」
「もちろん、それもあります。椎常様には、すでに正妻もおられ、後継ぎとなる子もいます。そこへ私のようなものが転がり込めば、その者たちまで危険に晒してしまう」
 やっぱり、秋姫は相手側の家の保守のために、差し伸べられた救いの手を振り解いたのだった。
「――それに、私は既に、あのお方の寵愛を拒んだ身。いまさら助けを乞うて寄りを戻すなど、あまりにも図々しいとは思いませんか」
 秋姫は慎み深く、目を伏せて首を項垂れた。
 女性らしい矜持やこだわりを持って、相手と距離を置いているのだと分かる。
「では、椎常はん自身に愛想を尽かしたとか、そういう理由ではないんどすな」
「あの方は、初めて私を愛してくださった方。今はもう、会うことも叶いませんが、私の体に子を宿してくださった大切なお方。忘れられるはずもありません。せめて、遠くから幸福を願うことだけなら、許してもらえるかと、そう思って過ごしてきましたが……」
 秋姫はゆっくりと顔を上げ、穏やかな微笑みを浮かべていた。
 その表情には、今までとは違う、期待に満ちた輝きが垣間見えた。
「椎常様がそこまで申してくださるのならば、いちどきちんと向き合って、話をしてみるのもよいかもしれませんね。もう、逃げ回る生活も、疲れてきましたから」
 本当は、秋姫だって愛する人の側にいたいのだろう。たとえ許されないと分かっていても。
「秋姫様……」
 秋姫の考えを聞いても、宵はまだ煮え切らないらしく、複雑な表情を浮かべている。
「ちょうど良いではありませんか。私が然るべき場所にて保護を受けられるのならば、あなたがいつまでも私に付き添っている必要はないでしょう。私を守ろうなんて愚かな考えも、早々に棄てられる」
 宵に向けて、秋姫ははっきりと、核心を突く言葉を放つ。
 秋姫が椎常の誘いを受けようと決めた理由は、単純に愛する人の側に行きたいというだけではなく、宵の気持ちにけじめをつけさせるためだったのかもしれない。
「でも、もし罠だったら……」
「その時は、私の運が尽きた時と考えて、潔く裁かれましょう」
 藤原式家の屋敷に匿われたとしても、生き永らえる希望を持っているわけではない。
 秋姫の覚悟は本物だ。もう、どんな説得をしても、秋姫の心は変わらない。
「……分かりました。秋姫はんのご意志を尊重して、無事に椎常はんに保護してもらえるまで、お力添えをさせていただきます」
 楸は今までお世話になった恩返しも兼ねて、秋姫と椎常の再会を全力でサポートしようと決めた。
「今夜、陽が沈み切った後に、東の通路にお迎えの牛車が来ますので、荷物を整理してその時刻に向かってください」
 楸は待ち合わせの場所を告げる。宵が驚いた表情で楸を見つめていたが、無視した。
「分かりました。陽が沈み切った後ですね」
 秋姫が念を押して再確認する。楸が頷くと、秋姫も了承した。
「宵はん、その時まで、秋姫はんの側におってあげてください。私はまだ、弓作りでやり残したことがありますので、しばらく別行動します。時間までには戻りますので」
 楸は宵に秋姫を任せて、外に出て行った。
 御簾を背に立ち、楸は呼吸を整えて作りたての弓を構えた。新品だからしなり具合が心配だったが、思ったよりもしなやかで、弦の張りも申し分ない。
 そのままの勢いで、矢を一本、前方の低木の茂みに向かって放った。
 的は外したが、その場所から怪しげな男が一人、慌てて逃げ去って行った。
 楸は目を細めて、辺りにもう嫌な気配がしないことを確認して、小屋を離れた。
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